看板
「この前、ちょっと恥ずかしいことがあったのよ」
テニスの練習の後、コートの隅のベンチに集まり持ち寄ったお菓子でお茶していると、加奈子さんがそう言えばという感じで切り出した。
なんだろうとみんなが加奈子さんの方を向いたが、加奈子さんが話始める前に佳恵さんが茶々を入れた。
「加奈ちゃん、大丈夫?また話出しと中身が全く合ってないってオチじゃないでしょうね」
「そんなことがあったんですか?」
興味津々で早紀ちゃんが佳恵さんに問いかけた。
「あったのよ。この間、加奈ちゃんと二人でランチしたんだけど、そのときに加奈ちゃんが、以前に泊まった旅館ですごい怖い経験をしたって言うのよ。
それで、どんな怖い話なんだろうって聞き始めたの。ところが旅館の夕食が美味しかっただの温泉のお湯がすべすべだっただの、延々と楽しかったていう話をするだけで、いつまで経っても怖い場面が出てこないの。
おかしいなと思いつつそれでも我慢して聞き続けてたんだけど、そのまま話が終わっちゃって。こっちは、エッて感じなのに可奈ちゃんは満足そうな顔でコーヒーを飲んで、怖い話のことなんてまるでなかったことになってるの。
可奈ちゃんがボケちゃったんじゃないかと、別の意味で怖かったわよ」
「あれは違うのよ。寝るときに本当に怖いことがあったんだけど、そこに至るまでの描写をしてる内に、どんどんそれとは関係ない楽しかった方の出来事を思い出しちゃって、それを話してる内に、自分が怖い話をしてるんだってことをすっかり忘れちゃっただけのことなのよ」
「それって、佳恵さんの心配そのものですよね」
「歳は取りたくないわ」
「それを言うなら、みんな大差ないじゃない!」
早紀ちゃんが同調し、千鶴さんが乗っかり、加奈子さんが口を尖らせて言い返した。
私が、このテニスサークルに入ったのは二年ほど前のことだ。本屋さんの抽選で当たった山梨バスツアーに参加した時に、私と同じように一人で参加していて、たまたま隣に座った千鶴さんに誘われた。
体力はだいぶ落ちていたし、子どもが生まれてから三十年近くラケットは握っていなかった。それでも、63歳の佳恵さんと加奈子さんが最年長、千鶴さんが私と同い年の58歳、最年少の早紀ちゃんでもが53歳というオバさんテニスサークルだというから軽い気持ちで入会したのだが、私の予想は大きく裏切られた。
毎週、平日三回二時間の練習と月に何回かの週末の試合。それに加えて反省会という名のランチ、夜の飲み会まで催されるという、スーパーエネルギッシュおばさんテニスサークルだったのだ。
あっという間に生活の中心がテニスサークルになった。とんでもないサークルに入ってしまったと後悔していたのだが、メンバーの勢いに押されて退会することもできず、必死で食らいついて行っている内に、テニスもメンバーとの交流も楽しくなってきた。
本当にみんな良い人たちばかりなのだ。少しやりすぎだというだけで。
旦那からも、「若返ったね」と言われ、まんざら悪い気もせず、今ではすっかりサークルライフをエンジョイしている。
「それでどんな恥ずかしい話なんですか?」
「ああ、そう言えば、そんな話してたわね」
「ほら、あなたたちだって忘れちゃってるじゃない!」
「まあまあ、そんなことよりもまたみんなが忘れてしまう前に、話を聞かせてくださいよ」
話を再開させようとした私に反応した佳恵さんの言葉にプリプリ怒る加奈子さんを千鶴さんがなだめて、ようやく本題に戻った。
「まあ、それなら話すけど、この間、隣町のダブルスの大会に出たのよ。高校時代のテニス部の同級生で裕子っていう友達に頼まれて。大会に申し込んでたんだけど、パートナーが怪我しちゃったから代わりに出てくれないかって。こっちの試合がない週末だったから、それで助っ人してあげるって引き受けたの」
「助っ人?大きく出たわね」
「隣町のリーグって、すごいレベル高いですよね」
「なんか、加奈子さんの恥ずかしい話の想像が・・・」
早紀ちゃんの言葉に、みんな同じ結末を思い浮かべたが、加奈子さんは両手を大きく振って否定した。
「私がテニスで大失敗したとでも思ってるんでしょうけど、違うわよ!それに、一応今回はこのチームを代表して行ってるんだから、それくらいの見栄は意地でも張らないといけないでしょ。そりゃ私も、風呂敷を広げ過ぎたかなって、ちょっとだけ後悔したけど。でもまあ、結果的にはその緊張感が良い方に出たのよ」
「調子良かったんですか?」
話の流れで口をついただけの質問だったが、それがズバリとはまった。
「絶好調!その日は三試合あったんだけど、全勝で個人賞でバイザーまでもらって、最高の助っ人だって帰りに裕子からコーヒー奢ってもらったわよ!」
「ああ、良かった。加奈子さんのことだけど、これで看板倒れだったら同じチームの一員として、私まで恥ずかしいなってちょっと思ってました」
ホッとしたように早紀ちゃんが言うと、みんな釣られて笑った。だけど、佳恵さんだけはその結末に納得しなかった。
「ちょっと待ちなさいよ。うちのチームの看板は良いけど、恥ずかしい話って言う、加奈ちゃんの話の看板の方はやっぱり倒れちゃってるじゃない」
「違うのよ」
佳恵さんの言葉をさっきと同じように否定した加奈子さんだったが、その言葉の勢いはさっきのそれとは比べにならないほど弱く、そして加奈子さんのほっぺたは乙女のように紅かった。
「それで上機嫌で家に帰って、着替えようとして気が付いたんだけど、私、パンツをスコートの下のレギンスの上から履いてたのよ」
私たちが唖然と言葉を失う中、何故か渋々というかんじで佳恵さんが呟いた。
「それはたしかに、看板に偽り無しと認めざるを得ないわね」
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