さしすせそ せの細則
出張ついでに3ヶ月ほどぶりに実家に帰りリビングでくつろいでいると、そそくさとキッチンから移動してきた母、由紀子がご機嫌伺いするような神妙な上目遣いで声をかけてきた。
「奈々子ちゃん、ちょっと良い?」
その表情、口調、そして何より、奈々子〝ちゃん〟。悪い予感しかせず、ハッピーターンの袋を開ける手が止まった。
「何でしょう、お母様」
防衛体制に入っていることを伝えるメッセージを発信すると、由紀子は急に表情を崩し、あっさりと砕けた調子に攻め方を変えてきた。
「やめてよ、そんな他人行儀な。耳寄りな情報を教えて上げようかなって思っただけなんだから」
と、既にこの時点で悪い予感は確信に変わる。椅子を引いて物理的な距離もとった。
「ふうん。で、なに?」
「この間、良子とお茶したんだけど」
良子というのは母の妹、つまり私の叔母のことだ。
「うん」
「あなたにぴったりな人がいるから紹介したいって言うのよ」
私は心底驚いた。
たしかに私は28歳で、今は付き合っている相手もいない。真剣に結婚を考えろくらいのことは、そろそろ言われ始めるかなと覚悟はしていた。
だがまさか、付き合い始めるきっかけの第一位がマッチングアプリだと言うこの令和の時代に、お見合い的な話が持ち込まれるとは思ってもいなかったのだ。
由紀子は、そんな私の驚愕にはまるで気付かず、120パーセント悪意のない、まるでおねだりする子犬のような表情で私の反応を伺っていた。おねだりする子犬と同様に、欲しいものを手に入れるまでは退散しないことは一目瞭然だった。
あてつけがましくついた溜息は私の本心だった。
だが、その一方で、正直に言えば、今どき、お見合いで紹介されるような男はどんな男なんだと逆に興味も湧いていた。
さらに、もっと正直に言えば、マッチングアプリが認知されている時代なのだから、万が一、お見合いで結婚することになったとしても。後ろ指を指されるようなこともなかろうと言う打算も働いた。
そもそも話を聞くだけなら、私には何のデメリットも無いのだ。私は私に言い聞かせた。
「ふうん、で、どんな人なの?」
「え!!話聞いてくれるの!?」
由紀子の望外の喜びように、そこまで心配をかけていたのかと少しだけ申し訳ない気になる。
「話を聞くだけだよ」
「分かってるって。今時だから、別に私もあんたに結婚を無理強いするつもりはほんのこれっぽっちもないんだけど、良子があんまりに進めてくるし、たしかにあんたに伝えずに断ってしまうのはもったいないような話だからさ。
その人って言うのがね、良子の学生時代の友達の息子さんなんだけど、国立大学を卒業して今は商社勤めの29歳。海外赴任の話があるらしくて、本人もそれまでに身を固めたいと思ってるんだけど、仕事が忙しくて出会いがないんだって。しかも、次男!!」
アピールポイントは、最後のやつじゃないだろ、と心の中でツッコんでいたら、母親がじっとこっちの顔を見ていることに気がついた。
「どうしたのニヤついて?」
いけない、いけない。シニカルな思考とは裏腹に、表情は素直だった。上手い話には裏があると言うではないか。
気を引き締め直して、母親に問いただした。
「たしかに、その条件だけ聞けば良いけど、見た目はどうなの?結婚相手の第一条件は顔だなんて言うつもりはさらさらないけど、毎日見るようになる顔だから、それなりには」
「ああ、それも大丈夫。ちゃんと確認したから」
問題があるとすれば、この辺りだろうと推測していたので、母親のこの強気は意外だった。
「そうなんだ・・・。で?」
現金なもので、それなら早く拝ませていただきたいと、督促する。
「あんたが好きそうな醤油顔だって」
「うん」
次の言葉を、というか写真を待った。しばらく待った。だが由紀子は、カードを配り終えたポーカーのディーラーのように、さあどうでしょうと私の顔を覗き込むばかりだった。
「・・・ないの?写真とか?」
「写真はない。良子が先方にお願いしてるんだけど、まだスタジオに行く時間がないらしくて」
「いや、そんなすごいちゃんとした写真じゃなくて良いって言うか。スマホの写真くらいあるでしょ」
「スマホぉ!?」
母親があまりに驚くので、一瞬私の感覚の方がおかしいんじゃないかと不安になった。そもそもが、昭和・平成のお見合い形式で持ち込まれた話なのだ、小道具も昭和・平成様式を踏襲するのが筋と言うものなのかもしれない。
「分かった、それじゃあ、文字情報で良いから他に何かないの?」
30年のジェネレーションギャップを埋めると言う、指でトンネルを掘るような作業にはあっさりと見切りをつけて、実を求めることにした。
「えーと、ああ、そうそう。背は中肉中背って言ってたかな」
「それも、ありがたい情報ではあるけど・・・。他には?有名人の誰かに似てるとか」
「似てるって言う話は出なかったけど、そう言えば、醤油顔をもうちょっと具体的に表現してた」
「醤油顔を具体的にって?」
「どちらかと言えば、薄口醤油顔だって」
「それ、醤油顔じゃなくてお醤油を具体的に言ってるだけだよね。そもそもどういう意味なの、薄口醬油顔って?醤油顔の中でもさらにあっさりしてるってこと?」
「嫌ねえ、あんた何も知らないの?薄口醤油って言うのは味は濃いのよ。そんなんで本当にお嫁さんになれるの?調味料のさしすせそ知ってる?」
「それくらい知ってるわよ。〝し〟は塩で、醤油は〝せうゆ〟で〝せ〟でしょ。でもその〝せ〟の詳細なんて知らないわよ。じゃあ聞くけど、薄口醤油って何が薄口なの?」
「色味よ、色味」
「って言うことは、薄口醤油顔っていうのは、濃い目の醤油顔ってこと?」
「いや、だから薄口醤油は見た目は薄いんだって」
「でも、あっさりしてないんでしょ?」
「味はね」
「味はねって、さっきから別に味の話はしてないよ。見た目の話だよ、見た目の」
「だよねえ」
このまま、話せば話すほど、会話がまるで噛み合わないと言う、落語のような展開が延々15分ほども続いた。
「分かった!!薄口でも濃口でも醤油でもなんでも良い!!一度会えば、じゃなくてお会いさせていただけば、いいんでしょ!?」
最後に根負けしたのは、結局いつも通り私の方だった。
「あらまあ、じゃあ良子に返事しておくわね」
勝った感を包み隠した熟練の表情でいけしゃあしゃあとそう言い残すと、由紀子はハミングしながらキッチンに帰って行った。
それから一か月後、実際にお会いした先方の男性は、どこからどう見てもソース顔だった。
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