コーヒー豆を齧る
会議が終わってデスクに戻ると、同期の滝井の周りに三人の若い女性社員が集まって何やら楽し気に会話していた。
「えー、滝井さんがおやつで食べてるそれって、コーヒーチョコじゃなくって、本物のコーヒー豆なんですか!?」
「そうだよ」
「コーヒー豆をそのまま食べて苦くないんですか?」
「苦いよ。でも苦いだけじゃなくって、当たり前だけどコーヒーの風味がある。キリマンジャロとコロンビアの違いとかも、コーヒーで飲むよりはっきりと分かるよ」
「なんか、お洒落ですよね」
「別にお洒落じゃないよ。口寂しいから齧ってるだけで」
「いえいえ、お洒落ですよ」
「そうそう。まあ、滝井さんが食べてたら節分の豆でもお洒落に見えるかもしれませんけどね」
「ありそう!!」
「そんなに褒められると、恥ずかしいけど悪い気もしないな。よし、今度三人にちゃんとしたお洒落なお店でご馳走するよ」
「やったーーっ!!約束ですよ!!」
女性社員が立ち去った後に、ぽっかりと黄色い歓声の塊が浮かんでいるような気がした。
「おう、高木。会議どうだった?」
塊が事務所の空気に霧散していくのを横目に見ながら席に着こうとしていると、何もなかったように滝井が声をかけて来た。
「うん、なかなか厳しいな。技術の連中は前向きに考えてくれてるんだけど、品質保証の人間が乗り気じゃない」
「製品としての品質を担保するのが難しいってことか?」
「それもあるけど、どちらかと言うと、量産に移行した時の品質基準をどう設定するんだっていう方を気にしてる」
「そっちかあ。新しい工法だといつもそれが課題になるな」
そこまで会話して、妙な間が訪れた。
「・・・ところで、さっきのあれどうかしたのか?」
俺の会議の結果になんて全く興味はないが、その話に触れて欲しくて俺に話しかけて来たんじゃないか、変な気遣いで、俺こそ興味が無い話を振った。
「ああ、あれ。くだらない話だよ。来週のヨーロッパ出張用の資料作りながらコーヒー豆齧ってたら、総務の女の子たちに見つかって。それなんですかって?」
「ふうん、そういうことか・・・」
ヨーロッパ出張自慢まで乗せて来たな。勝手な思い込みで勝手に少し気を悪くする。滝井と一緒にいると、いつもこんな嫌な自分になってしまう。
入社して15年、滝井とはずっと一緒と言うわけではないのだけれど、なんだかんだと縁がある。
新入社員の導入研修の班が同じで、初配属は別の部署。その次は静岡の営業所で一緒になり、そこから俺は東京、滝井はアメリカに異動したが、三年前からまた東京の本社でこうして机を並べている。
これだけ接点があるのは同期では滝井だけだし、仕事上がりに二人で飲みに行くこともある。
だが、俺は滝井のことがあまり得意じゃない。と言うか、好きじゃない。
滝井の行動の一つ一つに気取ったポーズのようなものを感じてしまう。滝井の言葉の一つ一つの別の意図を感じてしまう。つまり、人間として信用できないのだ。
客観的に見れば、これが公平じゃない評価であることは分かってる。滝井は誰に対してもオープンでフレンドリーだ。陰で誰かの悪口を言っているのを聞いたこともないし、周囲の人間の相談にも良く乗ってやっている。
それは俺に対しても同様だ。
それなのに、どうも腹を割ってという感じになれない。
ひょっとしたら、海外で活躍してる滝井に対して嫉妬してるんじゃないかと思ったりもした。実際、それが無いとは言い切れない。だけど、それだけでもない気がするのだ。
だから、俺はいつも引き出しの中にストックしているお気に入りのかりん糖を、滝井には勧めたことが無い。
そんな滝井に対する秘めたる感情が、俺の中で負い目となっている。負い目があるから気を使いながら滝井に接する。気を使っているから、逆に滝井の言動の一つ一つの些細なことが気に障る。
いつもの悪循環だなと思いながら、俺は話を続けた。
「それは、食べる用のコーヒー豆を買ってるのか?」
「違う違う。週末はさ、豆を弾いてコーヒーを淹れるんだよ」
「その方が美味しいんだ?」
「美味しい。でもそれ以上に、コーヒー豆を挽くときの香りとか、もっと言えばその時間そのものが、休日って感じがしてかけがえがないんだよ」
言ってることはよく分かった。その通りだとも思った。だけど、やっぱり受け付けなかった。かけがえがないって、なんなんですの?と突っ込んで、負い目が増して、悪循環の輪が大きくなった。
「なるほど。で、平日は時間がないから、かけがえのないそのコーヒー豆を齧ってるってことか」
言葉の橋にちょっと毒が溢れたが、滝井はそこに気がつく風もなく、今までに見せた事のない照れくさそうな表情を浮かべた。
「いや、それが違うんだよ」
「何が?」
「齧りたくって齧ってるわけじゃないんだ。あ、別に嫌だってわけでもないんだけど」
「どういうこと?」
俺が問いかけると、滝井は身の安全を確認するように辺りを窺い、声を潜めて言った。
「あのさ、コーヒ豆挽くのって、電動のミルもあるんだけど、俺は手動のやつを使ってるんだ。さっきも言ったけど、コーヒー豆を挽くこと自体を楽しんでるから」
「うん。で?」
「高木がコーヒー豆を挽いたことがあるのか知らないけど、逃げるんだよコーヒー豆って、ミルから。まあ、もちろん本当に逃げ出すわけじゃなくて、豆を挽く振動でミルから飛び出しちゃうってことな。
これがさ、ラグビーボールみたいに不規則に転がっていくから、見つけるのが大変なんだよ。テーブルの下に潜り込んでさ。で、無事、発見したコーヒ豆はミルに強制送還するんだ。いや、してたんだ。
二ヶ月ほど前の日曜日も、お湯を沸かしながらコーヒーフィルターをポットのセットして、それから豆をミルに注いだ。豆がたくさん入ってるから、やっぱり挽き始めが豆が逃亡しやすいんだよ。その時は、ミルのハンドルを5回ほど回した頃かな、二粒ほどが逃げ出した。
一粒はテーブルから落ちる前に捕まえて、もう一粒も椅子の下ですぐ見つかった。その二粒をミルに戻そうとして、それで気がついたんだ」
テレビドラマを見ていて悲劇的な場面が訪れる直前に感じるような、嫌な予感がした。滝井を止めようとした。その先は良いよと。だけど、滝井が口を開く方が一瞬だけ早かった。
「嫁さんが俺のじっと方を見てたんだ。あ、勘違いして欲しく無いんだけど、嫁さんは何も言わなかった。ただ、嫁さんの視線に気が付いたら、拾い上げたコーヒー豆をそのままミルに戻すことができなくて、仕方なく自然にコーヒー豆を口に運んだんだ。
『これをコーヒーに使うのは汚いけど、捨てるのはもったいないから食べてみようかな』なんて、嫁さんに聞こえるように独り言まで言いながらな。
嫁さんは俺がコーヒー豆をかみ砕いて飲み込むのを見届けると、安心して視線を逸らした、ように俺には見えた。それだけのことだ。
でも、その日から、嫁さんが見てても見てなくても、落としたコーヒー豆をミルに戻せなくなった。仕方なく齧ってたら、それが俺の習慣になったっていうのが真相だ」
その言葉からは、一切のてらいが感じられなかった。そこにいたのは、鼻持ちならない海外帰り気障野郎などではなく、家で嫁さんの顔色を窺いながら肩身の狭い思いをしている、ごくごく普通の中年妻帯者だった。
そして、俺の腹の底から、それまで感じたことがなかった滝井に対する共感が込み上げてきた。
「かりん糖、食べるか?」
「どうしたんだ急に?」
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