ニキビ
「お母さん、ニキビの薬、忘れずに今日買って来てくれない?」
「なんでお母さんが。今日は無理。パートの後、テニスがあるから」
「テニス休めないの?」
「駄目よ、四人しかいないんだから」
「テニスの後は!?」
「家事があるでしょ!あんたが代わりにやってくれるの!?」
「私は仕事が忙しい!仕事の後はクタクタで寄り道する元気なんかないの!!」
「私だって同じでしょ!!」
月曜日の朝から、社会人二年目の娘の木乃香と妻の幸代の賑やかな口喧嘩を横目に、武本隆之はやれやれとお茶をすすった。
武本家の女性陣のバトルが始まったのは、中学校に入学した木乃香に、お決まりの反抗期が訪れた頃のことだ。
隆之には弟がいるだけで姉妹がいないので、なんとなく女の子には反抗期がないものだと勝手に思い込んでいた。だから、ついこの間まで小学生で可愛かった娘が、急に自分や幸代にぞんざいな言葉を投げつけ反抗的な態度をとり始めたとき、隆之は衝撃を受けた。
だが、そんな突然の木乃香の変貌を、振り返ればあっという間に過ぎ去ってしまった幼かった娘との時間に感傷的な寂しさを感じながらも、その他の多くのことと同じように、隆之は諦めの気持ちと一緒に受け入れた。
その一方で、目の前の現実に正面から向き合い、見てみぬふりするどころか敢然と立ち向かう女性がいた。
幸代だ。
幸代は木乃香の反抗期から来る道理に合わない攻撃を甘んじて受け入れなかった。その一つ一つに驚くほど細やかに反撃した。それどころか攻撃は最大の防御とでも言わんばかりに、自ら木乃香を挑発し攻撃しさえした。
そんな幸代の反応を隆之は偉いと思った。結局のところ、自分は面倒臭いことから目を背けているに過ぎないが、幸代は木乃香を正し続けている。どれだけ響かなくても、決して諦めることなく。親の躾はこうあるべきなのだ。
ただ、躾のためとはいえ、さすがにやり過ぎだろうと感じることもあった。
だからある日、隆之は悪意がないことを示す笑みを浮かべながら、幸代に語りかけた。
「まあ、そこまで厳しくしなくても良いんじゃない?木乃香が中学生になり反抗期になった頃からも反抗期でイライラしてるんだろうし」
隆之としては、幸代の気を楽にさせるつもりもあっての一言だった。
だが幸代はキっと隆之を睨みつけて一喝した。
「私だって更年期でイライラしてるのよ!!」
俺にはそのナントカ期っていう言いたいことを好きなだけ口にして良いボーナスステージみたいなやつはないのかと、隆之は思った。思ったがもちろんそんなこと口にすることもなく、それ以来、隆之は家庭内戦争に首を突っ込まないことにした。
話を現在の武本家に戻そう。
あれから10年。幸代との口喧嘩は続けているが、ロジックや感情のコントロールと言う点では木乃香も大人になったなと、隆之は感慨深く木乃香の様子を見守っていた。
木乃香と言えば、隆之のそんな感慨のことなど露知らず幸代と攻防を続けていたが、ふと時計が目に入り、いつもより10分近く家を出るのが遅くなっていることに気が付くと、バトルの余韻もそのままに家を飛び出して行った。
ところで木乃香の名誉のために言えば、木乃香が幸代とバトルを繰り広げるのは最近では珍しいことであり、木乃香がニキビ治療にそこまでムキになるのも故なきことではなかった。
説明しよう。
木乃香は社会人になって2年目だが、この春、木乃香の部署に海外での研修を終えた若手社員のエースとの評価も高い、梶田慎也が着任してきた。
噂に違わず梶田は仕事ができた。ようやく社会人のイロハを覚えたばかりの木乃香からすれば、仕事ができるだけでも十分に憧れの対象だ。
だが、梶田は仕事ができるだけでなく、人間もできていた。上司だけでなく、木乃香たちのような下の人間にも気を遣い、ことあるごとにアドバイスを送ってくれた。
梶田は見た目も悪くなかった。すごく良いわけではないが、悪くなかった。服装もお洒落ではないが、シンプルで清潔感があった。
そのバランス感覚が、木乃香のツボだった。
そういうタイプの男性がツボであることからも分かる通り、木乃香は恋愛体質ではない。だけど梶田に対して木乃香は秘かな、だけどはっきりとした好意を抱いていた。そして、木乃香自身もそのことを自覚していた。
その結果、好意を認識しているという事実が、梶田をより気になる存在にさせるという片思いスパイラルが木乃香の中で発生することになった。
相手が会社の先輩である以上、毎日職場で顔を合わせる。それは嬉しいことである一方、自分の見た目を毎日きちんと整えないといけないというプレッシャーに繋がる。ほっぺたに、赤く大きなニキビがあるなんてもっての外だ。
というわけだ。
その朝は結局いつもの電車には間に合わず、会社の最寄り駅に着いたのは始業時間の5分前だった。この時ばかりは梶田のことを考えている場合ではなかった。
木乃香は、半パワハラで絶賛売り出し中の高木課長の鬼の形相を思い浮かべながら周囲の目を気にする余裕もなく必死で走り、そして閉まりかけたエレベータに飛び乗った。
「おはよう。ぎりぎりセーフだね」
梶田がいた。
「お、おはようございます」
しまったと思った。が、遅かった。息を整えることもできず、そこに胸のキュンが加わって軽い過呼吸が木乃香を襲った。
「いつも、早い武本さんが珍しいね」
「今朝はちょっと・・・、母と相談しないといけないことがあったので・・・」
「あれ?」
「え?」
「ほっぺたにニキビができてる」
「あ、そうですか。気付きませんでした。あまり、自分の顔とかお化粧とか気にしない方なので・・・はは」
木乃香は、幸代の顔を思い浮かべ呪った。
「ふうん。最近、武本さんすごく頑張ってるから、疲れが溜まってるのかもしれないね。入社3年目くらいまではがむしゃらに頑張ることも必要だけど、リフレッシュすることも大事だよ。今度、若手のメンバーで飲みに行こうかって言う話をしてるんだけど、良かったら武本さんも参加する?」
「は、はい!ぜひお願いします!」
恋する乙女の弾んだ感情が、あっという間に幸代の憎らしい顔を押しのけた。
その日の夜、幸代がシチューを作っていると木乃香が仕事から帰ってきた。
「ただいま」
「お帰り。ニキビの薬、買っといたわよ。部屋の机の上に置いてるから」
「あ、そう。でも、まあニキビの治療はそんな急がなくてもいいかな」
「はあっ!?あんたが、どうしてもって言うから、テニスに行く前にわざわざ遠回りしてドラッグストアに寄って買ってきたのよ!!」
「お母さん、買えないって言ったでしょ!!そんな恩着せがましい言われ方するなら買ってきてくれなくて良い!!」
「買ってきてくれなくて良いって、もう買って来てるでしょ!!」
「じゃあ、明日返してきたらいいでしょ!!」
「なら、あんたが返してきなさいよ!!」
「なんで私が!!」
変わることない日常生活の一コマに、木乃香より一足早く家に帰って来ていた隆之は、やれやれとビールをすすった。
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