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おみくじ

 小保田達彦には近所の大宮八幡宮への初詣の他に、もう一つ新年の決まりごとがある。歯科健診だ。

 45歳になった5年前から毎年、曜日によって4日だったり5日だったりするが、最寄り駅前にある鴨井デンタルクリニックを初診日に訪れて歯科検診を受けている。

 このルーチンが始まったきっかけは会社の健康診断だった。小保田の会社では通常の健康診断の他に、0と5が付く歳の時に歯科検診が受けられる。小保田は子供の頃から健康歯優良児(そんな言葉があればだが)で、それまで虫歯を経験したことがなかった。

 その時も虫歯は見つからず、出張検診に会社に出張してきていた歯科医からも、綺麗な歯ですねと褒められた。というわけで無事歯科検診は終わったのだが、そのとき歯科医から手渡されたパンフレットが小保田の気を引いた。

 それは、8020運動という日本歯科医師会が推進している、80歳まで自分の歯を20本残しましょうという活動を啓蒙するためのパンフレットだった。

 小保田は虫歯になったことが無い。ただ、歯が健康であることのありがたさは十分に分かっている。食べることも好きだ。唯一の趣味だといっても良い。80歳になっても自分の歯で食べたいと思った。自分の歯が残るかどうかは、歯周病等の歯茎の病気もあり、必ずしも虫歯の有無だけが影響するわけではないらしい。

 パンフレットには、会社で受けたような簡易な歯の検診ではなく、歯医者での総合的な検診を勧めていた。行ってみようかと思った。

 ただ面倒くさかったし、小保田の2歳違いの姉明子が何故か虫歯がちで、歯医者に通ってはその惨劇を弟にこと細やかに語っていたのが数十年たった今でも刷り込まれていて、歯医者を敬遠する気持ちもあった。

 どうしようかなと悩んでいる内に年末を迎えたある日、年明け1月4日のゴルフが中止になった。そして正にその日の会社からの帰り道、駅前の鴨井デンタルクリニックの初診日が1月4日だと知った。

 そのままクリニックに入って予約が取れるかどうか訊ねた。どうせいっぱいなんだろうと思っていたら、午前中なら空きがあるという。これも縁だなと思いながら、予約した。

 それが、初詣ならぬ初歯科検診の始まりだ。

 今年は1月4日が初診日だった。クリニックがある駅前商店街は、新年の賑わいを残しつつも、少しずつ新しい年に慣れながら日常生活を取り戻そうとしていた。初診日の検診も6回目なので、そんな商店街の雰囲気もクリニックの手続きも小保田には勝手知ったるものだった。

 受付で顔なじみの事務員に新年のあいさつをし、マイナンバーカードを出して(これは今年が初めてだった)、今では空で質問を覚えている問診票に記入した。

 歯が痛いところはありますか?水がしみるところはありますか?口臭は気になりますか?歯のかみ合わせが悪いところはありますか?等々。

 問診票を渡すとソファに座り、ラックから新年の行方を予想する雑誌を読み始めるところまで去年までと一緒だった。

 株式についての書かれたページまで来たところで名前を呼ばれた。診療室に移動して、今度は歯科助手の女の子に挨拶をした。それから、うがいをして治療台に腰かけた。治療台が倒れると、歯科助手が首元にタオルをかけてくれた。

「先生を呼んできますね」

 そう言うと歯科助手は部屋を出て行った。少し胸が高鳴った。しばらくすると、白衣を着た鴨井優香が入ってきた。

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 顔を覗き込むように、小保田に笑顔で語り掛けた。

 鴨井優香が大学を卒業し、歯科医師免許を取得して父親が開業したクリニックで働き始めて13年になる。最初の頃は、「あの、小さかった優香ちゃんに歯を見てもらうのは変な感じだ」と、商店街の人たちから温かくいじられていたが、今ではパパ先生より腕が確かだともっぱらの評判だ。

 一方で、見た目も気立ても良いが、もうすぐ40歳になる今まで、あまり男性関係の噂がないのは商店街の七不思議の一つと、こちらは本人にはあまり嬉しくない評判もたっている。

「じゃあ、今年も歯から診ていきますね。下の左側の奥歯、前、右側。今度は上、左、前、右。相変わらず、綺麗ですね。ちゃんとブラシできていて虫歯はありません。次に、歯茎を突いていきますね。少しチクッとしますよ」

 この日も手際よく優香の診断は進んだ。15分程度で一通りの診断が終わると、診察台の背もたれが上がり小保田はうがいをして、優香と向かい合った。

「歯と歯茎は異常なしですね」

「80歳まで20本の歯が残せそうですか?」

「全然問題ありません。このままいけば、20本どころか全部自分の歯で行けそう。普段の生活の中で、かみ合わせとか口臭が気になったりもないんですよね?」

 問診票をチェックしながら、念のためという風に優香が尋ねた。

「大丈夫です。毎年、優香先生に診てもらっているおかげですね」

「いえ、健康な歯で産んでくれた小保田さんのお母様と、小保田さんの日ごろのケアのおかげです」

「女性の歯医者の先生からすると、男性の歯はやっぱり気になるものですか?」

「言われてみれば、気にしてますね。職業病ですね」

「じゃあ、優香先生から見て私の歯は合格ですか?」

「満点です」

 少し踏み込んだような質問だったが、優香は大人の女性の対応で、きちんとそれでいて真剣な雰囲気にすることなく受け答えた。

「じゃあ、来年も満点でいられるように頑張ります」

「口臭がしたりとかもないですね?」

「はい」

「それじゃあ、また来年」

「はい。来年また、お願いします」

 笑顔で挨拶を交わすと、小保田は診察室を出た。

 廊下を歩く足取りはやってきた時よりも軽かった。

 小保田にとって初歯科検診の目的は、歯の状態確認だけではなかった。鴨井優香とのなんでもない会話で新年をスタートさせることも同じくらい重要だった。

 既婚者であり恐妻家(本人は恭妻家なんだと思い込むようにしている)でもある小保田には、優香を口説こうなんて言う大それた考えはない。ただ、優香が自分の歯に、そしておそらくは自分に対しても、程度はあれ好意を持ってくれていることを確認することが大事なのだ。

 まだ、自分には男性としての魅力がある。その確認だ。

 そういう意味では、歯科検診というより男性力検診とでもいった方が良いのかもしれない。小保田自身は、新年の男っぷりを占うおみくじのようなものだと考えている。

 今年は中吉くらいかな。小保田は上機嫌で鴨井デンタルクリニックを後にした。

 その頃、診断室に残った優香は、診察台の当たりの器具を片付けると、小保田のカルテにもう一度目を通し、そして小首をかしげながら廊下に漏れることが無いよう歯科医師としてのモラルある小さな声で呟いていた。

「うーん、口臭は胃のせいかな?」


***********************

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