不安の種
飛び起きるというほどではないけれど、突然夢の底から引き戻されたように目を覚ました。何かは分からなかった。ただ得体のしれない不安を胸の真ん中に感じ、真っ暗な部屋の中、じっと息を潜め肩で息をした。
「どうかしたの?」
気配を感じたのだろう隣で寝ていた嫁さんの志保の声で、自分のいる場所が住み慣れたマンションの一室だということが確認できた。ほっとした。
「夢、見てたんだ」
志保の問いかけに答えるためというより、この世界をより確かなものにするために声を出した。
「怖い夢?」
「何だったかな。怖いというより、なんか嫌な感じだった気が」
まだ胸の真ん中に居座ったままの塊から伸びる糸を辿り記憶を探る行為は、暗い海に潜っていくようで気が進まなかった。だが、手探りで進んだ海の底は思いの外浅かった。すぐに指の先に件の塊が触れた。
「あ!」
「思い出した?」
「うん。漫才だ」
「漫才ぃ?何それ?」
暗闇の中で、志保が食い付いて来たのが分かった。
完全に覚めきっていない頭の中で、もつれた糸をほどきながら俺はほどけた糸を順を追って志保に読み説いていった。
「ピンチの瞬間の夢ってあるだろ。良く聞くやつだと、悪い奴らに追われてて逃げてる場面とか。なんでだかいつもは飛べる設定になっててさ。飛べば逃げ切れる。それなのに、その時に限って飛べないんだ。結果、めっちゃピンチで焦る、みたいな」
「ああ、あるある。全く飛べないか、飛べるんだけど身長くらいの高さしか飛べない。しかも歩くスピード」
「そうそう、そういうやつ。でいよいよ捕まるって時に目が覚めて、ああ夢だったんだってホッとする。でも、ドキドキは残るんだよな」
「うん」
「そういうピンチ夢シリーズって、さっきの普段は空を飛べるのにとかって言う、そもそも設定が現実的じゃないパターンもあるけど、設定の一部が昔とか今の自分に紐ついているやつもあるだろ。例えば、テストが始まろうとしてるのに全然勉強してないみたいな」
「分かる」
志保にも俺が言わんとするところは伝わったようだった。
「今日のはそういうやつ?」
「そういうやつ」
「ふうん・・・」
微妙な間があった。
「それで、なんで漫才?」
しまった、と思ったが遅かった。目を覚ました時とは違う嫌な感じを、胸の真ん中というより脇に感じながら、渋々答えざるをえなかった。
「・・・、学生の時にお笑いサークルに入ってて、漫才やってたんだよ」
「えーっ、付き合い始めたときにフットサルサークルに入ってたって言ってなかった?」
「フットサルもやってたんだけど、お笑いもやってたんだよ」
「だとして、お笑いじゃなくてフットサルの話をしていたところに恣意的なものを感じるけど、まあいいや。それで、どんな夢だったの?」
志保の“まあいいや”には、一旦は良しとするけど今度ゆっくり話を聞かせてもらうからね感が必要十分以上に滲んでいた。これは長くなるなと覚悟した。
「舞台袖に立ってるんだよ。相方と。まあ、相方って言っても、誰とかいうんじゃなくて相方なんだろうなって言う気配の存在を横に感じてるだけなんだけどさ。で、そこから客席を見ると八割くらい埋まってるわけ。学生のお笑いで、そんなにお客さんが入ることなんてめったにないんだけど。
俺たちは出番を待ってて、舞台の上では俺たちより出番が一個前のコンビがネタをしてる。これも、まあ、そういう気配の存在だからネタの内容とかは分からないけど、ウケてるんだ。ボケでウケて、ツッコミでさらにウケが増幅されるみたいな理想的な感じで」
「気配だけで、そんなとこまで分かるの?」
「分かるんだよ。笑いのおきるテンポとか強弱で」
「・・・絶対、フットサルよりメインにやってたよね」
志保の当てこすりは無視して話を続けた。
「そうこうしている内に、俺たちの出番が近づいてくる。さあ、やってやるぞって、気合が入る。アドレナリンが出て来る。で、そこで、気が付くんだよ。あれ、ネタができてない!!って」
「そこでぇ?さすがに遅すぎない?」
「空を飛ぶわけじゃないけど、そこは夢だから。とにかく、ネタができてないんだよ。それで、焦り始めるんだけど、ネタがすぐに思いつくわけもない。お笑いって簡単なようで、すごく精密だから。
そこから焦りはどんどん膨れ上があっていく。そのまま、遂に前のコンビのネタが終わる。出囃子って言う、オープニングの音楽が流れ始める。もちろんネタはまだ出来てない。でもしょうがないから、足を踏み出す。舞台の真ん中のセンターマイクに向かって歩いて行きながら、わあ、どうしようどうしようってパニックになる」
「で?」
「で、そこで目が覚めた」
「うーん。それは、たしかに嫌な夢だね。具体的じゃないんだけど、ずんって重くって。目を覚まして、夢だったって分かってホッとしても、まだ嫌な感じだけは残ってて。たしかに、さっきはそんな感じだったね」
やはり同じような夢の経験は誰にでもあるのだろう。志保の言葉には実感がこもっていて、さっきまでの揶揄する感じはまるでなかった。
「そうそう」
俺も素直に合いの手を打った。
「でもさ、」
突然トーンを変えて、志保が続けた。
「うん」
「夢の設定だって、まるで何の脈略もないわけじゃなくて、無意識なんだけどそう言う設定を呼び起こしているきっかけみたいなのがあると思うんだよね。不安の種みたいなやつが。あと、優先順位も」
「あるだろうね」
「フロイトの夢判断を持ち出すにはベタ過ぎるけど、今回の漫才の夢を見たのだって、先週末にM-1の決勝戦を見た影響があるんじゃないかって思うんだよ」
「なるほど」
「そう考えたらさ。弘之、最近、仕事が忙しい忙しいって大変そうだから、ちょっと心配してたんだけど。まあ、仕事の場面より先に漫才が夢に出てくるくらいなら、まあ平和なわが家だなって、ちょっと安心した」
「それは違うんだろ。仕事のストレスだってかなり・・・」
志保の言葉に反射的に反論しかけた。ただ、言葉を口にするまでの間の思考が、俺の考えを改めさせた。
「いや、まあ、たしかにそうかもな」
今年も平和に年末を迎えられて良かったなと思った。
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