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再会

 いつかそんなことがあるかもしれないと考えたことは一度ならずあった。それでも実際に封筒の表に書かれたその名前を見た瞬間、私の心臓は強く大きな鼓動を一つ打った。

 市役所の一角にある作業室は、抑えたボリュームで地元の放送局のラジオが流れているだけで、開封して処理される封筒の紙の音が彩りを添えているほどに静かだった。

 自分の鼓動が聞こえてしまったんじゃないかと、隣で作業する和子さんの方に目を向けたが、和子さんはラジオでかかっていた数年前のヒット曲を口ずさみながら作業に集中していた。

 私は、自分が手にした封筒に目を落として、見覚えのある筆跡で書かれた名前を確かめた。

 鮫島和樹。そこに書かれていたのは、やはり、十年前に別れた恋人の名前だった。

 私が一樹と出会ったのは上京して進学した大学の散歩サークルだった。

 素朴な人だなというのが第一印象だった。どこか垢抜けていなくて、東京に馴染んでいなくて。私自身がそうだったので、親近感を覚えた。だからサークルの初めてのイベントで浅草寺周辺を探索した時に、私の方から声をかけた。

「ご出身は、どちらですか?」

 和樹は一瞬驚いたような表情を浮かべ、その表情を恥ずかしそうな微笑みで包み直すと、「東京なんです」とよく通る小さな声で答えた。

 そんなやり取りをきっかけに、サークルで会えば言葉を交わすようになり、映画の好みが同じことが分かると一緒に映画を観に行くようになり、そして自然に私たちは付き合い始めた。

 和樹は私にとって初めての彼氏であり、初めて男女の関係を持った相手だった。それは、和樹にとっても同じだった。

 二人で初めての夜を私のアパートで過ごし、何度かそういうことが繰り返され、気がつけば私たちは同棲していた。そう話せば、大恋愛のように聞こえるかもしれない。だけど私たちの同棲は、まるでおままごとの延長のような穏やかな同棲だった。

 東京の片隅で私たちが求め合っていたのは、人物や肉体ではなく、落ち着ける空間だったのかもしれない。

 大学を卒業して私が島に戻り公務員になることになっても、そういう雰囲気が変わることはなかった。

 離れ離れになることを嘆き悲しむでもなく、相手にしがみつくようなことなんてあるわけもなく、ただ手を繋いで歩いてきた道の先にそれぞれ行先が違う分かれ道が来ると、私たちは自然にその手を解いた。

 部屋を引き払う前の日の夜、私たちは小さなテーブルを挟んで鍋をつついた。

「元気で頑張ってね」

 と、和樹は言った。その顔には微笑みが浮かんでいた。最後の場面が寂しいものにならないよう、気を遣ってくれているのが透けて見える微笑みだった。

「うん、和樹も」

 そして私も同じ微笑みを返した。

 翌朝、部屋の玄関で見送ったのが和樹を見た最後だった。和樹は一度も振り返らなかった。私も、呼びかけることもなくドアを閉めた。

 公務員になった私の島での生活は、ごくごく普通だった。社会人として一応は仕事をきちんとこなし、仕事が終われば子供時代からの友人たちとつるみ、恋愛の経験も人並みに重ねた。

 不足が無いという意味では満足な日々を送ってきた。ただ、そんな毎日の中でも、私の中にはいつも和樹がいた。

 もともと存在感が強い人ではなかったから目立ちはしない。でも、ふとした瞬間に辺りを見回すと、隅っこの方でニコニコと笑いながら座っているのだ。

 それでも東京を離れてからの10年間で、和樹に連絡を取ろうと思ったことはなかった。当時は今ほどSNSが一般的ではなかったから連絡先が分からないというのはあった。

 だけど、それが決定的な理由でないことは、誰よりも私自身が分かっていた。連絡先が本当に知りたければ、多少は手間がかかるかも知れないが、まだやりとりにある大学時代の友人に確認すれば良いだけのことだ。

 それをしなかったというのは結局のところ、私が、そうすることを望まなかったということなのだ。そして、私が連絡を受けていないということはつまり、和樹もそうなのだ。

 それが何故なのか、和樹に関しては、私にその答えを知る由はない。

 私自身に関してはどうだろう。

 美しい思い出とまでは行かなくても、大切な若かりし頃の一ページだったはずだ。後味の悪い別れ方をしたわけでもない。それなのにどうして?

 いや、違う。それだからこそ、私は和樹に連絡を取らなかった。

 再会することで、変わってしまった和樹に幻滅したり、私が変わってしまったことで和樹に幻滅されるのを恐れて。あるいは、その逆で、あのとき和樹と別れたことを後悔してしまうんじゃないかと恐れて。

 和樹の名前と住所が記された封筒を手に立ち尽くした。すごく長い時間に感じた。だけど、息苦しさに耐えかねて封筒から目を逸らすと、和子さんはさっきと同じ曲を口ずさんでいた。

 そのシチュエーションに、訳もなく背中を押された。そのきっかけを逃すわけにはいかなかった。

 私は使い慣れたペーパーナイフで封筒を開けた。心の逡巡を嘲笑うように、三年間の担当で身に付いた技術が、滞りなく作業を進めた。

 封筒の中から、三つ折りのワンストップ制度の申請書を取り出した。

 申請書を開き、貼付されたマイナンバーカードのコピーの記載内容と申請内容を確認する。そこまでが一連の作業だ。

 だが、道具を使わずに自分の手で直接作業しようとすると、申請用紙を通じて動揺を直接感じた。それでも何とか、汗ばんだ震える手で申請用紙を開いた。

 白黒の小さなコピー。でも、はっきりとあの日から10年後の和樹がそこにいた。

 一瞬息が詰まった。でも、すぐに息を吐き出した。膝の力が抜けた。

 そこに写っていたのは、10年分歳を取った、でも私が知っている和樹だった。

 ぎこちない小さな笑顔。頼りない、それと同時に優しさが滲み出る雰囲気。和樹は何も変わっていなかった。

 実際に和樹と再会を果たした。どんな感情が湧き上がって来るのか、私はどこか第三者のような感覚で見守っていた。

 どちらかと言えば期待より覚悟の方が強かった。だから余計に私は嬉しくなった。

 私の胸の奥から湧き上がって来た感情は、本当に純粋な、和樹と再会できたことに対する喜びと和樹に幸せになって欲しいという応援の気持ちだったのだ。

 思わず笑みがこぼれた。ただならぬ気配を感じたのか、和子さんが訝しげな視線を送って来ているのが分かったが、それも気にならなかった。

 和樹が返礼品に選んだのは魚の干物だった。うちの島には、全国的にも有名な和牛だってあるというのに。色んな意味で肉食でないところも変わっていないのに違いない。

 温かな気持ちになった。和希との思い出を良い形で残すことができてホッとした。

 そしてそれと同時に、まあ和樹である必要もなかったなと、そっちの意味でもホッとした。

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