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とけない

 朝の通勤は誰にだって憂鬱だ。それが月曜日、しかも雨降りの朝だったら憂鬱を超えてもはや悲惨だ。そしてそれが、その日の朝カーテンを開けたときに私に突き付けられた現実だった。

 もちろん現実を変えることなんてできない。ただそれなら、せめて過酷な現実を呪う言葉の一つも口にしたかった。ところが、そんな時に二十代後半女性が口にできる適当な言葉が日本語にはなかった。

 これがアメリカだったら、きっとFで始まる罵りの言葉を吐き捨てるのだろう。

 アメリカのキャリアウーマン風女性が思わず口にするFワードは、言い方次第ではスタイリッシュにもユーモラスにもなる。そういう映画の幕開けもいかにもありそうだ。

 Fワードを日本語に直訳すれば、「ちくしょう」だろうか。でも、この言葉は日本人職業女性にはよろしくない。道義的な意味ではなくて、「ちくしょう」は言葉として江戸臭であったり少年ジャンプ臭であったりが強すぎるのだ。

 というわけで、やり場のない憂鬱を抱えたまま、私は傘を差して家を出た。傘を叩く雨のリズムは断続的で、吐く息は白かった。テンションを上げる余地なんて、ほぼ皆無だった。ただ、全くゼロでも無かった。実は一つだけあった。

 トートバッグの中に、週末に図書館で借りた小説が入っていた。

 通勤時の読書は、通勤時のと言うよりも、私の日々の生活の中における数少ない愉しみだ。

 最寄駅の浜田山から会社がある虎ノ門まで、渋谷乗り換えで30分、往復で一時間。この毎日一時間の読書タイムは、私にとって通勤時のと言うよりも、日々の生活における数少ない愉しみだ。

 活字中毒の私は、ジャンルを問わず小説ならなんでも読む。ただ、通勤のお供としてはミステリー、特に一日の往復で完結するような短編ミステリーが一番のお気に入りだ。

 通勤の時に謎が大きく膨らみ、帰りの電車の中で鮮やかに解決へと一気に収斂する。そんなミステリーが読めた一日なら、言う事なしだ。それだけで通勤や会社での嫌なことも忘れられる。

 最後の謎解きの場面を読んでいる途中で浜田山に着いてしまうこともある。そんな時は、プラットホームのベンチで最後まで本を読む。足早に行きかう人たちの間で、一人時間を気にせず文字を追う。それもまたお気に入りのシチュエーションだ。

 で、正にそんな一日をもたらしてくれそうな本を日曜日に図書館で借り出していた。

 実力派のミステリー作家たちが、同窓会という同じテーマで競作した短編集。出版されてすぐに話題となっていて、ずっと読みたかったのだがずっと貸出中で、長らく予約リクエストをかけていたその本の、私の順番がようやく週末に巡ってきたのだ。

 駅の入り口で傘に付いた雨滴を飛ばした。スカートの裾が少し濡れていたけれど、先月おろした通勤用の長靴のおかげで不快な足の濡れはなかった。オリーブ色の長靴は、控えめだけど可愛いし、少し奮発して買って良かった。

 最高とまではいかないけれど、悪くない朝だった。

 ポジティブな感じのまま改札を通り、階段を上って電車を待つ人の列に並んだ。この調子なら座れるかな。なんて淡い希望を抱きながら、プラットホームに滑り込んできた電車に乗り込んだが、さすがに空いているシートはなかった。

 とは言え、混み具合はいつも通りで、傘とバッグを腕にかけて単行本を開くのには何の支障もなかった。 

 革製のブックカバーをつけた表紙をめくり、目次に目を通した。作品のタイトルと、競作する作者の名前が並んでいた。最後に登場する伊坂幸太郎を含めて、私のお気に入りや有名な作家ばかりだったが、一番目の物語の作者だけは名前を知らなかった。

 こういうときにがっかりする人もいるかもしれないが、私は興味をそそられる方のタイプの人間だ。今まで知らなかった作家に巡り合うチャンス。しかもこのメンバーの一員に抜擢されるなら余計にだ。

 私はワクワクしながら、小説を読み始めた。

 最初の3行で惹きつけられた。

 ホテルでアルバイトする主人公の女子大生は、あるとき高校の同窓会というパーティーのサーブに入る。ごくごく普通な感じで始まり進んでいくパーティーだったが、彼女は次第にその同窓会に違和感を覚え始める、という設定だった。

 まず、同窓生や恩師が主人公じゃないというのに意表をつかれた。文章に独特なリズムがあった。何より、短く読んだだけで、主人公の女子大生が感じた理由の分からない違和感がリアルに伝わってきた。

 すぐに本の世界に入って行けた。一瞬だけこちらの世界に戻ってきたのは、電車が次の西永福に到着した時に、目の前に座っていた同じ年代の女性が席を立ったからだった。

 これで座って読書にますます集中出来る。一時間前にカーテンを開けたときからすると、信じられないくらい良い朝になった。

 そこから私は予期せぬ幸福を噛み締めながら本を読み進めた。短編だからと言うことを差し引いても物語はテンポ良く次から次へと展開して行き、先が読めない次のページを捲るのが待ち切れないほどだった。

 物語の中盤、会場にいる同窓生たちがお互いの名前を知らないことに主人公が気がついた場面でミステリーの膨らみは頂点に達した。この謎の着地点を見届けたい。良質なミステリーを読む時にだけ湧き上がる快感と言っても良い感情が私を満たした。

 その感情をグッと堪えて本を閉じたのは、お楽しみを帰り道までとっておきたかったからだ。とは言え葛藤があった。その一方で快感を焦らすようなゾクゾクする感触もあった。

 電車がスピードを落とした。気がつけば終点の渋谷の一つ前、神泉まで来ていた。

 降りる準備をしないといけないなと思いながら出口の方を見た。一人の女性と目が合った。

 知り合いではなかったが、どこか見覚えのある顔だった。あれ誰だったっけ、と少しだけ考えて、すぐにそれが西永福で席を立った女性だったと思い出した。

 彼女は労わりかけてくるような笑顔を浮かべて、たしかに私に向かって小さくお辞儀をしながら電車から降りて行った。

 一泊置いて、疑問がこみあげて来た。

 え、ひょっとして彼女は電車を降りるために席を立ったんじゃなくて、私に席を譲ってくれた?なんで!?

 いくら何でもお年寄りと間違われたわけはないし、援助や配慮が必要な人が身に着けるヘルプマークに似たデザインのグッズも身に着けてない。助けが必要な人を示すバッチをつけてもいない。本に熱中してたから?いや、それはさすがに親切すぎる。え、私にほのかな思いを寄せてるのかも?思えば、女子高時代に後輩から告白されたこともあった。いや、妊娠か?たしかに健康診断では去年より二キロほどのスケールアップが確認された。

 たしかにミステリーは好きだ。だけどそれは、自分とは一定の距離が置けて、最後にすっきりと謎が解き明かされるミステリーに限定される。いや、って言うか、誰かこの私のもやもや感を何とかしてくれ。

 誰かが何とかしてくれるはずもなかった。

 でも、いや、え、あ、あの???解けないの?この謎は解けないの?

「謎と飲み薬は解(溶)けるに限ります」

 パニックになり過ぎて、訳の分からない落語のオチを思いついた。


***********************

(お知らせ)

 インド編、短編集を一冊の作品にまとめました。

 ご一読いただければ幸いです。

 作品名:「おつかれナマステ」

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