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コソコソタイム

 2点リードで迎えた8回の裏、横浜ベイブルースに大ピンチが訪れた。

 7回まで好投を続けてきた先発ピッチャーの東原に代えて、中継ぎピッチャーの先山を投入して逃げ切りを図ったのだが、これが裏目に出た。

 三振と内野ゴロで簡単にツーアウトを取ってから、先山の投球が一変、そこから四球・ヒット・四球で満塁。しかもバッターボックスに昨年のリーグ三冠王、東京スパルタクスの若き主砲、四番村下を迎えるという絶体絶命のピンチを迎えることになってしまった。

 8回まで重苦しい雰囲気が続いていただけに、ホームの一塁側スタンド応援団は大盛り上がりで、お馴染みの傘を開いての東京音頭の大合唱が始まった。

 ベイブルースファンの俺には胃が痛くなるような展開だった。

 先山は一杯一杯に見えた。ピッチャーを代えるべきなんじゃと思いながら三塁側ベンチを見たが、監督が出てくる気配はなかった。その代わりにというのでもないだろうが、キャッチャーの戸祭がタイムを取った。

 マウンドの先山の元に駆け寄る戸祭に目をやりながら、俺は隣で一緒に応援している和彦に話しかけた。

「これ、ピッチャー代えたほうが良くないか?」

「代えるって言ったって誰に?」

 ゲームが中断しているうちにビールを買おうと考えたのだろう。お気に入りの売り子の女の子を目で探しながら、いかにも興味なさげに和彦は応えた。

「バッターが左の村下なんだから、ピッチャーも左の方が良い」

「左の中継ぎって言ったって、うちには坂口の一枚しかないだろう。駄目だよ。こんな痺れる場面じゃあ。たしかに良い球投げるけど、経験がなさ過ぎる」

「経験だけあったって、球威もコントロールもないんじゃあ、しょうがないだろ」

「まあ、そう言うなよ。たしかにヤスは全盛期の頃とは比べものにならないけど、それでも今でも経験がある平均以上の中継ぎだ。それに昔はだいぶ世話になったんだから、温かい目で見守ってやるべきだろ。あ、お姉さーん!ビール一つ!」

 和彦の言わんとすることも良く分かった。だが、これまでのシーズンもヤスこと先山に関しては十分に温かい目で見守って来たつもりだ。シーズンも大詰めを迎えて、今年はポストシーズンに進む可能性が残されている。ここは勝ちに徹して欲しかった。

 きっとそう思っていたのは俺だけじゃなかった。と言うか、かなりのファンがそう思っていたはずだ。

 そんな俺たちの気持ちを知ってか知らずか、マウンドでは、先山と戸祭がグローブで口元を隠し、顔を寄せて密談を始めていた。

 その様子を見ていて、以前から気になっていたことを思い出した。

「あれ、何の為なんだろうな?」

「あれって?」

「あのグローブで口を隠すやつ」

「何の為って、あれは何を話してるか、相手にバレないようにしてるんだろ」

 口の周りにビールの泡をつけた和彦が、何を当たり前のことを、という表情で答えた。

「それは分かってるよ」

「じゃあ、何だよ」

「あんな離れたとこで話してるのに、口の動きなんか読めるか?いかにも大事な話してますって感じ醸し出してるけど、ゲーム中断して余計な時間がかかってるだけだろ」

「いや、このゲーム中に一拍おくコソコソタイムも含めて、野球だから」

「モグモグタイムみたいに言うな。それにさ、言いたくないけどさ」

「うん、何?」

「ヤスなんて、どうせストレートとツーシームしかないんだから、そんな大した作戦なんてないだろ。それなら、もったいつけないでさっさと勝負して、結果はどうあれスッキリさせてくれって話だよ」

「その2種類しかない球種をいかに活かすかっていう作戦会議。もしくは、その2種類しかない球種でどう攻めてくるんだって、疑心暗鬼にさせる心理戦だよ、心理戦」

 和彦は、もっともらしいことを言うと、すぐにビールを一口煽った。いかにも喉が乾いてしょうがないと言う風に振る舞っていたが、実際のところは、あまりに適当な自分の発言を口の中から流し去りたかったに違いなかった。

 その証拠に、ビールを飲み干すと和彦は、俺から顔を逸らすためだけに、わざとらしさ満点の熱い視線をグラウンドに向けている振りをした。

 突っ込もうかとも思ったが、あまりに意志の強そうな和彦の横顔に、それ以上の交信は断念せざるを得なかった。手持ち無沙汰になって、飲みたくもないビールの飲み残しに口をつけた。

 ぬるくなったビールを飲みながらマウンドの二人を見るのは、野外劇場で不条理劇を見せられるようなどこか不思議な経験だった。

 実際には数分だったのだろう。それでも俺には永遠に続くように感じられた、大観衆のど真ん中での密談という特殊な作戦会議は終了させたのは、マウンドに近づいてゲームの再開を促した主審だった。

 戸祭が自分の持ち場であるホームベース後方に戻ると、スパルタクスファンの応援のボルテージはさらに上がった。

 その応援を受け流すように、戸祭は心なしかいつもよりゆっくりとキャッチャーマスクをかぶると、腰を下ろしてミットを構えた。この辺りはベテランの味うだなと、俺は感心した。

 戸祭の準備が整ったタイミングで主審がプレイをコールすると、村下がまるで侍のようにすっとバットを立てて、ヒッティングピーズを取った。そのとき、ほんの一瞬だけ、でも確かに両チームの大歓声が途切れて満員のスタジアムに沈黙が訪れた。

 俺の耳の奥で、俺が飲み込んだ唾の音がゴクリと大きく鳴り響いた。

 マウンドの先山がセットポジションから投球動作に入った。軸足である右足に体重を乗せ、そこから一気に体重移動しながら大きく足を踏み出した。弓を引き絞るように、腕を力強く後ろに引いて、目一杯胸を張る。そして全ての力を解放するように、白球が真っ直ぐに放たれた。

 糸を引くような渾身のストレート。いや、ブレーキがかかり、ボールはホームベースの手前で減速した。ヤスの決め球のツーシームだった。タイミングを外された村下の身体が前に泳がされて体勢が崩れかけた。だがボールが高かった。

 何とか踏みとどまった村下は、その勢いのままバットをボールに叩きつけた。

 ガシャんとバットとボールが衝突する音が聞こえた。次の瞬間、まるでコマ送りのスローモーションのようだったスタジアムが時間を取り戻した。

 そこからはあっという間だった。

 センターとライトのど真ん中を真っ二つにボールが破って行った。3人のランナーが本当にあっさりと生還した。二塁上で雄たけびを上げる村下、歓喜するスパルタクス応援団をどこか冷めた気持ちで見ながら、俺は和彦に訊かずにはいられなかった。

「ほんと、あのコソコソタイム必要だった?」

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