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欠落

「俺、身体の中になんとかっていうタンパク質を作る酵素みたいなやつが、ないらしいんだよね」

 朝ごはんを作っていると、そんなことを言いながら孝之がダイニングに入って来た。

「え?なんで、そんなこと分かったの?」

 孝之は何気ない感じだったが、内容が内容だけにぎょっとして料理する手が止まった。

「この間の健康診断でさ、先輩が腫瘍マーカーはやっといた方が良いって言うから、試しに申し込んでみたんだよ。そしたら、一つ普通よりやたらと低い値があって」

「低いと良くないの?」

「いや、高い方が腫瘍の可能性があるってマーカーなんだけど、低すぎるのはそれはそれで異常らしい」

「それって大丈夫なの?」

「うーん、まあ大丈夫らしいよ」

 恋愛感情なんていうものはとっくにどっか行ってしまったし、伴侶と呼べば背中が痒くなるが、とは言え人生の相方であることには違いない。私は心配になって尋ねたが、どうにも緊張感のない答えが返ってきた。

 それなら最初から聞かせてくれるなよと、少し腹が立った。腹は立ったが、誰かがフォローしてくれるわけでもないので、自分で前向きに切り替えることにした。

「まあ、それでも、そうやって自分の身体のことが分かっていればなんかの時に、ああそう言えばって気がつくこともあるかも知れないから、やっぱり健康診断って大事だね」

「そうだな。ところでさ」

「うん」

「今日の朝御飯ってなに?」

 孝之の中ではこの話はどうやら終わったようだった。

「鯖の塩焼きだけど」

「えーー、トーストじゃないの?朝はコーヒーがないと、なんか目が覚めないんだよな」

 子供のように口をとがらせる。

「別に鯖を食べてから、食後にコーヒー飲んだら良いじゃない」

「いや、それはやっぱり違うんだよ。トーストと合わせて飲むコーヒーが美味しいんだよ。マリアージュだよ、マリアージュ」

「昨日はトーストだったでしょ。トーストが悪いわけじゃないけど、やっぱり和食の方が健康には良いし」

「健康は問題無し。健康診断の結果もばっちりだったし」

 さっきは、人を心配させるようなしておいて勝手なものだ。

 孝之は最終的に渋々と鯖の塩焼きを食べ始めたが、スーパーで美味しそうな鯖を選んで、手間をかけて準備をしたというのに甲斐がないとがっかりした。

 少しダウンな気持ちで、私もテーブルに着いて鯖の塩焼きに箸をつけた。美味しかった。魚の脂身ってどうしてこんなに美味しいんだろう。これで健康にも良いって言うんだから最高だ。

 孝之との結婚の成否に関しては大きなクエスチョンマークが絶賛点灯中だったが、日本人に生まれたことは、本当に良かったと思った。

「ところで今週の土曜日だけどさ、町田のアウトレット行かない?」

 そう言えばといういかにも自然な、つまりはわざとらしく自然な感じで孝之が切り出してきたのは、私が最後の鯖片を口に運んだときだった。

「なんか買うものあったっけ?」

「綾、薄手のコートが欲しいって言ってただろ。それに、」

「それに?」

「いや、この間言ってたアイアンあっただろ、ゴルフの新しく出た。たまたま今、それの試打会をやってるらしいんだよ。アウトレットの店舗で」

 気持ち良いくらいに下心が丸見えだった。

 切り出そう切り出そうとタイミングを見計らっていたに違いなかった。こうなってくると、酵素の話も情報共有というよりも、心配させることによって少しでも話を自分が思う方向にもっていきたいという浅はかな戦略が疑われた。

 ま、良いか、というよりそう来るならこっちにも考えがあると、私はこの間雑誌で見た、お値段以上というよりはお値段+アルファなコートのお店が町田のアウトレットにあったかを思い出そうとした。

 そんなことを知る由もない孝之は、私が記憶の底を必死でさらっている間も、ゴルフのスコアにいかに今の自分が使っているアイアンが悪影響を与えているか、そして新しいアイアンに買い替えることでどのような改善が期待されるかを、言い訳がましさを隠そうともせず、まくし立てていた。

 夫婦すれ違いの、穏やかな朝の時間が流れた。

「あ!」

 平穏を破ったのは、突然の孝之の大声だった。

「え、どうかした!?」

「忘れてた。今日、始業前に集まって月末のゴルフの打ち合わせしようって言われてたんだ。やば、もう会社行くわ。あ、あと、今日、飲み会だから、晩御飯いらないから」

 そういうと隆之は食べ散らかした鯖とお味噌汁とご飯の器をそのままに、慌ただしくダイニングから出て行き、その十秒後、玄関のドアがバタンと勢いよく閉められる音が廊下の方から聞こえて来た。

 全ては一瞬の出来事だった。

 あまりの急な展開に、呆気に取られた。

 しばらくして、鍵を閉める音が聞こえなかったことに気付き、玄関まで足を運び鍵を閉めた。ダイニングルームに戻ると、自分の分と孝之の分の食器を下げて流しで洗い、乾かすために食洗器の中に並べた。

 お湯を沸かし、お茶を入れてダイニングテーブルに戻った。お茶を一口すすり、一息つくと、ようやく落ち着いた。怒りが湧いてきた。

 そして心の中で毒づいた。

 あんたに欠落してるのは名もなき酵素なんかじゃなくて、朝ごはんを作ってる私と漁師さんと鯖への感謝の気持ちだよ。


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