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夫婦いびき

 別にそのことで文句を言われるのはそれが初めてじゃなかったし、もっと理不尽な言いがかりをつけられたことだって何度もあったわけだから、表面的に謝ってさっさとやり過ごしてしまえば良かった。

 それは分かっていた。分かっていたし、今までずっとそうしてきた。

 それなのに、何故かその時に限って、それができなかった。なんか貴子の言葉・言い方、全部に対してイラっと来た。

「ほんと、あんたのいびき何とかしてくれない?ガーゴー、ガーゴーって、睡眠妨害の域を超えて、もうDVなんだけど。ああ、DVはドメスティック・バイオレンス、家庭内暴力の略ね」

「知ってるよ、それくらい。って言うか、たしかに最近は仕事も忙しくて疲れてるし、そのせいもあって昨日はいつもよりお酒も飲んだから、いびきはかいてたかもしれない。

 でも、それは寝る前から分かってたから、ちゃんとお前が買ってきたマウステープだって貼って寝てただろ」

 その少し前から、寝ている時に動悸がしたり、急に体が火照ったりすることもあった。少し前に雑誌の特集で目にした男の更年期という奴の影響もあったのかも知れない。

 それでもこの時点では、私の言葉のトーンは。まだ反論と言うよりは言い訳のそれだった。

 ところが、私のその言葉に、貴子はまるで大舞台女優のように大げさにかぶりを振り、絶望的な表情を浮かべながら、さらに言葉を重ねて来た。

「ああ、そのマウスシールの話は止めて!あれは、私の過去一の失敗。

 鼻呼吸になるマウスシールはいびきにも効果があるって話を聞いたから試しに買ってみたら、いびきが止まらないどころか、出口が狭まったせいで音が篭ってるのか、重低音っていうか地響きが増幅されて、むしろ前よりひどくなるなんて、ほんと最悪。

 百万歩譲って、これは私のミスだとして、でも結局これだって、あんたのいびきのせいで睡眠不足が続いてるから、判断が鈍ったからだからね」

 その瞬間の、貴子の鼻にかけた薄ら笑いで、とうとう私の堪忍袋の尾が切れた。これを言ってはおしまいだ。言うまい言うまいとしていた言葉が、つい溢れ出た。

「そこまで言うなら言うけどな。いびきの被害を受けてるのはそっちだけじゃないからな」

「はあ?どういうことよ?」

「こっちもお前のいびきの被害を受けてるってことだよ」

「何バカなこと言ってるのよ」

「何がバカだ。純然たる事実だよ。睡眠妨害はお互い様だ。って言うか旦那のいびき被害の話は良く聞いても、女房のいびき被害の話なんて聞いたことがないから、こっちの方がよっぽどひどい話だろ」

 これまで我慢してきた分、一度切り出すと止まらなくなった。

「ふん!どうせ大方、自分のいびきで目を覚まして、それを私のせいにしてるってオチでしょ。

 いびきかきの上に、ボケまで加わってるんだから、ほんと手の施しようがないわ」

「誰がボケてるって?ふざけるな!自分のいびきとお前のいびきなんて、それこそ寝てても聞き分けられるよ」

「へえ、そこまで言うなら証拠見せなさいよ」

「言われるまでもなく、証拠にしてやろうと、この間スマホで録音しようと思ったんだよ。ところがスマホを立ち上げると、気配を察していびきが止まるんだよ」

「あら」

 この時だけ、貴子の顔に素直な驚きの表情が浮かんだ。

「私もこの間スマホで録音しようとしたら、あんたのいびきが止まったのよ」

 結局のところ、貴子と私は似た者夫婦なのだ。

 似た者夫婦だからと言って、諍いが止むことはなかった。いや、似た者夫婦だからこそ、諍い合うのだ。

 で、お互いに一歩引くということも出来なかった。

「じゃあ、白黒はっきりつけようじゃないか」

「上等よ!どうやって!?」

「寝る前にスマホ遠セットして一部始終を録音したら良い」

「そんなの、何時間も聞いてられないわよ」

「音がした時だけ録音する設定にしとけば良いんだよ」

「ふん!そんなのもちろん知ってたわよ。わざと知らない振りをして、引き返すチャンスを上げたのに、後から後悔しないでよ」

「お前こそ、後悔するなよ!!」

 もちろん、すごく後悔してた。

 もし、録音を聞いて、私のイビキだけが聞こえてきたら、貴子はほら見たことかと、勝ち誇ってさらなる罵詈雑言を浴びせられるに違いなかった。

 生意気にも自分に楯突いてきたという理由で、しばらくは機嫌が悪くなることも容易に想定された。

 一方で、仮に貴子のいびきしか録音されていなかったら、私ごときに恥をかかされたと、無期限な不機嫌が確定だった。

 下手したら熟年前離婚の危機だった。

 終わりの見えない貴子の不機嫌にも、やもめ暮らしにも私が耐えられるはずがなかった。

 つまり、この時点で私の負けは確定だったのだ。

 そして憂鬱な時間が流れ、あっという間に夜が来た。

「小細工しないでちゃんとセットしなさいよ」

 昼間の話は忘れてくれていないかという私の淡い希望はもちろん空しく破れ、私は辛気臭いため息を一つ吐くと、スマホをセットして私は横になった。

 眠れそうになかった。

 一方で、しばらくもしない内に、隣から貴子の寝息が聞こえてきた。向こうは余裕のようだった。

 まあ、いざとなれば、謝り倒し続ければ、いつかは許してくれるだろう。そう開き直った。開き直るしかなかった。

 それでも、そんなふうに覚悟を決めると、気が付くとというよりも静かに、私にも眠りが訪れていた。

「どうだったのか、聞かせなさいよ!」

 次の日の朝は、テンション全開の貴子の声で飛び起きた。

「朝から元気だな…」

「証拠隠滅するんじゃないかって気が気じゃないのよ」

 どこかワクワクさえしているような貴子に、抗う気力もなかった。私は、言われるがままに枕もとのスマホを取り上げた。

「良いか?再生するぞ」

「ええ」

 スイッチを押した。アプリが起動した。

 スマホの画面を息を呑んで二人で見つめた。数秒の静寂の後に、微かな音が聞こえてきた。

 少しすると、はっきりと聞き取れた。いびきじゃなかった。寝言だった。

「うるさーい!」

 貴子の声が聞こえた。

 続いて私の声が聞こえた。

「ごめんなさーい!」


*************************************

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