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男のライセンス

 結論から言えば間違った判断だった。

 大事には至らなかった。だけど、時間を巻き戻せるなら違う道を選ぶことは間違いない。いや、時間を巻き戻せるなら、もっと価値があることに使うか。ってまあ、それはともかくとして、ことの発端は出張用のかばんを買い替えたことだった。

 この半年の間に、シンガポールに続けて三回出張した。ここ数年は海外出張がなかったので、物置きの奥から昔使っていた短期宿泊出張用のビジネスバッグを引っ張り出してきた。使い慣れたバッグは、使う分には問題がなかったのだけれど、久しぶりに見てみると汚れや傷みが目立った。

 今後も同じような出張の機会がありそうだったし、出張手当も出た。それで買い替えを検討し始めた。最近流行りのキャリーケースは個人的に使い回しが悪い印象があり、独立したコンパートメントが二つあって、マチの部分で容量を増やせる前と同じタイプのやつが良いなと思っていた。

 そんなとき、神宮球場に野球を観に行った。外苑前通りのかばん屋の前を通りかかると、たまたまセール中で、ショーウインドウに良さげなビジネスバッグが並んでいた。プレイボールまでには少し時間があった。店に入って、店員に断ってから商品を手に取ってみるとしっかりとした作りだった。

 値段は前の奴よりもかなり張ったのだけれど、自分自身も同程度にランクアップしたはずだと少し甘めに目をつぶって、思い切って購入した。セールと言うことを差し引いても、良い買い物だった。ベイスターズも勝った。総じて良い一日だった。どころか、一年でもそうそうないような良い一日だった。

 ここまでは何の問題もなかった。

 ところで、我が家には一つのルールがある。それは、今まで使っていたのと同じ用途の品物を新しく買った時は古い方の品物は処分するというものだ。以前は、思い入れやら微妙な使い分けやらで、モノを処分することができない夫婦だったのだが、いよいよ我が家の収容の臨界点を超えたことで、二人で決めたのだ。

 このルールも、守るのが難しいことがある。ただ今回は、前のバッグは十分に使っていたし、新しいやつは気に入っていた。悩むことなく、前のバッグを翌週の燃えるゴミの収集日に出すことにして、週末にテレビでイタリアの旅行番組を見ながらバッグの中身を移し替えた。

 こういう出張用のビジネスバッグと言うのは、小物の整理がしやすいようにやたらとポケットが多い。物を入れたまま捨てることが無いよう何回もチェックして、ようやくバッグが空になって捨てる準備が整ったと判断した。

 いや正確には、バッグは完全には空じゃなかったのだけれど、捨てる準備が整ったと判断した。内側のチャック付きのポケットに、成人男性のたしなみとも中年男性の欲望の残骸とも呼べる小物が入ったままになっていた。コンドームだ。

 最初は、バッグから出して捨てようと思ったのだ。

 でも、めんどくさいなと思い直した。

 ゴミ箱までは歩けば数歩の距離だった。それでも、手の中にある懐かしくも何とも言えない手触りのコンドームを捨てるのをめんどくさいと思ったのは、モノがモノである故だった。

 そのまま捨ててしまうと、嫁さんや大学生の娘の目に留まるリスクがあった。そのリスクを避けようとすれば、ティッシュペーパーとかで包み必要があった。

 その手間がめんどくさかった。し、コンドームをティッシュにくるむという行為が、現役を卒業してはや何年と言う50代男性にとっては生々しくて嫌だった。結局、そのままビジネスバッグと一緒にサヨナラすることにした。

 半透明のビニール袋に入れて玄関先に置いて、水曜日の燃えるゴミの日に出しておいて欲しいとお願いした。水曜日に会社から帰ってくると、バッグはなくなっていた。嫁さんの様子にも特に変わったところはなかった。

 それで私の中ではその件は終わりだった。はずだった。

 ところが、それで話は終わらなかった。

 その週末のことだ。エアコンのリモコンの反応が悪かったので、電池を交換した。電池の捨て方が分からなかったので、台所で洗い物をしていた嫁さんに確認した。

「電池って、どう捨てたら良い?」

「ああ、私がやっとくからテーブルの上に置いておいて」

「了解」

「ところでさ、」

 テレビの前に戻りかけた私を嫁さんが呼び止めた。

「この間捨てたカバンの中に変なもの入ってたよ」

 しまったと思った。まさか、そのまま捨てられる状況になっているブリーフケースの中を、わざわざ嫁さんが確認するとは思っていなかった。いや、冷静に考えれば、万事に置いてきちんとした嫁さんが、確認しないはずはなかったのだ。

「ああ、あれね。いや、気が付いてたんだけど」

「ああいうゴミこそ、ちゃんと自分で分別してよね。触るのも気持ち悪いし」

 動揺でついつい言い訳がましい口調になってしまったが、嫁さんの口調には特に含みも感じられなかった。

「いや、それで、あれがカバンに入ってた理由だけど、昔、ほら族旅行のときとかもあのカバン使ってたから、その時に入れたやつが」

「別にいわよ、そんなこと。もし仮に何かあったとしても大昔のことだろうし、気にもならない」

 相手が何も言っていないのに言葉を重ねるのは、こういうシチュエーションで最もやってはならないことだ。だがそれでも、嫁さんの態度に変化はなかった。こう気にされないと逆に寂しいな、などと油断していると、急に嫁さんのトーンが変わって、勝手極まりないがドキッとした。

「それよりさ、」

「はいっ」

 思わず背筋が伸びた。

「なんでもっと前に捨てておかなかったの?出張の時とかにごみ箱に捨ててしまえば簡単でしょ。気が付く機会がゼロではなかっただろうし。それこそ、昔ならともかく、今なんて使い道もないでしょうに」

「たしかに・・・」

 言われてみればその通りだった。あのビジネスバッグを使ったのは久しぶりだったけれど、今回の前最後に使った時には、嫁さんが言うところの使い道はなくなっていたし、まさにその時ホテルでコンドームを発見して、過ぎ去った時代を切なく思い出したことがあった。

 今回は容疑者圏外からだいぶ離れていたために事なきを得たが、これが数年前だったら大きな騒ぎになった可能性も否定できない。どうしてあの時、捨ててしまわなかったのだろう?

「・・・しがみついてたのかな?」

 ポロリと言葉が口から漏れた。

「しがみつく?何に?」

「男であることに。ほら、うちの親父がさあ、免許返納しなくてお袋が困ってただろ。あれもさあ、親父だってもう一回車を運転しようなんて考えはないんだよ。ただ、免許保持者じゃなくなるのが寂しいだけで。免許無くなったら、自分が男じゃなくなるような、そんな気がしてるんじゃないかなぁ。ゴムもそれと一緒でさ、持ってないとなんて言うか、自分が男であることを放棄したみたいな・・・」

 頭に思い浮かんだことをそのまま言葉にしただけだったが、自分でも案外的を得てるんじゃないかと言う気がした。そうなると、親父に免許を返納しろと強く言うのも悪いような気さえしてきた。

「なるほどね。男って大変だし、幼稚よね・・・。あっ、思い出した!」

 どこかしんみりとしかけて、まるでそんな湿っぽさをごまかそうとでもするように、うって変わった明るい口調で嫁さんは言葉を続けた。

「あれ、ブランドがうちで使ってたやつと違ってなかった?」

 誠意の証はハンドバッグに落ち着いた。


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