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ナイスセーブ・バッドエアー

 海外駐在員の妻くらいお気楽で結構なものはないと良く聞くが、ふざけるなと言いたい。

 旦那の給与や住宅などの待遇が日本勤務時より恵まれていたり、外に働きに出ていないこと、日本からだと行きにくい場所を旅行する機会が多いことなどから、そう言う論調が生まれていることは理解できる。否定もしない。

 だけど、それ以外の海外で生活することの大変さにも目を向けて欲しい。

 まず、言葉が通じない。その土地の言葉を覚えれば良いというのは正論だが、そんな簡単なことじゃない。買い物一つするにしても、毎日身振り手振りとスマホの画面を見せながら、必死の思いでコミュニケーションを取らないといけないのだ。

 子供がいれば、日本に帰った時に苦労することが無いよう、学校探しから日々の勉強のサポートまで日本の数倍のパワーを費やさないといけないし、子供がいなければ、旦那が会社に行っている間、異国の地で一人ぼっちの心細い時間を送らないといけない。

 そもそも、旦那は一定の希望や適性があって海外駐在することになったのかもしれないが、だからと言ってその妻が同様とは限らない。嫌々帯同している駐在員妻だっていっぱいいるのだ。

 しかも、海外駐在と一言で言うが、駐在員先だって色々だ。ニューヨークやパリみたいな超当たりや、シンガポールや台湾のような住みやすいことでよく知られた国なら良いが、異国の地どうこう以前にローカルの人たちにすら生活することが大変な場所だってあるのだ。インドみたいに。

 そう、私はインド駐在員妻なのだ。

 何、インドって?インドでも駐在員妻って呼んでいただいてよろしいのですか?その他地域の駐在員奥様方に申し訳ないので、インドだけ特例で僻地要員サポーターって呼び変えていただいても構いません事よ。って、なんで苦労してるこっちの方がへりくだらなきゃいけないんだって、どんどん話が変な方向にずれて行ってしまっているが、つまりはそう言うことなのだ。

 そう言うことなのだから、旦那が会社・子供が学校に行っている間に、同じインド駐在員妻、あるいは僻地要員サポーター、さらにあるいは被害者友の会会員を家に呼んで、アッサムティーでティーパーティーとしゃれこんでも、引け目を感じる必要なんてない。まるでない。

 そんなことをつらつらと考えながらティーを準備していると、部屋の中を芳醇な香りが漂い始めた。うーん、インドの紅茶はやっぱり素晴らしい。

「どうかした?」

 佳菜江さんの声で我に返った。

「え、私、何か変でしたか?」

「うん。なんか、ブツブツ、いらいら、にやにやしてた」

「あ、各種思い出し笑いですかね。はは」

 適当にごまかしながら、テーブルにティーセットと佳菜江さんが持ってきてくれたギーというインドの溶かしバターで作ったクッキーを並べて、佳菜江さんの向かいのソファに腰を下ろした。

 白いロングスカートとベージュの袖なしニットをコーディネートした佳菜江さんは相変わらず美しかった。ほう、と思わずため息をつきそうになった。

 我ながら、私の思考には落ち着きがない。小学校一年生の息子の健太の通知表に書かれた、「もう少し落ち着きましょう」も私のせいなんじゃないかと落ち込みかけたが、これ以上変なやつだと思われないようにぐっと堪えた。

 佳菜江さんとは日本人会の茶道教室で知り合った。

 第一印象は、インドっぽくない人だというものだった。それは、私とは正反対の雰囲気を醸し出しているということだ。甚だ遺憾ながら、私は、「亜紀ちゃんって、インドでも全然やって行けそうだよね」と言われることが多いのだ。だから、佳菜江さんに近づいた。

 インドでもやって行けそうな私は、人の懐に飛び込むのが得意だ。佳菜江さんともすぐに友達になって、今では、お互いの家を行き来する仲だ。

 親しくなってから分かったのだけれど、佳菜江さんは単にインドっぽくないだけじゃなくて、実際にニューヨークとロンドンで生活したことがあった。しかも、旦那さんの帯同だけじゃなくて、ニューヨークは佳菜江さん自身の赴任で、そこで旦那さんと知り合い結婚したということだった。

「インドにも良いところはたくさんあるわよ」

 インドの文句に明け暮れる私をたしなめる佳菜江さんの言葉には、ニューヨークとロンドンを知る人だからこその、重みと余裕があった。しかも、この若くて美しい佳菜江さんは、私より年齢が10歳も上なのだ。返す返す、世の中と言うものは不公平だ。

「佳菜江さんのその若さ・美しさには、何か秘訣みたいなのがあるんですか?」

 どうせ変なやつだと思われたからという開き直りから、どうせならばと、私は前から聞きかかった質問を口にした。

「特別なことなんて何もしてないわ。美容品にもこだわりがないし。強いて言えば、健康的な食事と睡眠を心がけてるくらい。そもそも、そう言ってもらえるのは嬉しいけど、自分ではみんなと変わらないって思ってるし。もし違いがあるとしたら、私には子供がいないからじゃない」

「いいえ、子供くらいじゃ割りが合いません」

「割りが合わないって・・・」

 苦笑を浮かべた佳菜江さんだったが、ふと思い出したように言葉を繋いだ。

「・・・、恋愛かな」

「恋愛?」

「うん。恋愛してると、綺麗になりたいって言うホルモンが分泌されて、それがひょっとしたら私の場合は良い方に出てるのかもって」

 それは意外な言葉だった。

 佳菜江さんは綺麗な女性だ。だけど、それはどこか恋愛とは結び付かないタイプの美しさのように私には感じられていたのだ。だから私は驚いた。思わず声を出しそうになるくらい。声はなんとか飲み込んだ。だけど、そうすると、飲み込みました感が出るのが私と言う人間だ。もちろん聡明な、佳菜江さんはそのことにすぐに気が付いた。

「びっくりした?」

「はい。佳菜江さんのイメージと違ったので。まあ、私の勝手なイメージですけど」

 正直に答えた。嘘が付けない人間なので、嘘はつかないことにしているのだ。

「ううん、そのイメージは当たってる。私、自分自身は恋愛と縁がないから。でもね、子供の頃から恋愛に対する憧れが強いの。自分ではそのギャップを埋めることができないから、小説とか映画のラブストーリをたくさん読んだり観たりして、それで主人公に自分を投影して。馬鹿みたいだけど、この方法だとどんな恋愛でもいくらでも体験可能だから、私の中にはいつでも恋愛ホルモンが溢れてるってわけ」 

「ああ、そういうことですか」

「そう、ジョギングは身体の健康に、恋愛は心の健康と美容に」

「なるほど、佳菜江さんの方法なら浮気だってオッケーですしね」

 次の瞬間、佳菜江さんの顔に影が差すのを見て、私は自分が地雷を踏んだことを知った。踏まなくても良い地雷ほど踏む、それもまた私と言う人間なのだ。

 佳菜江さんは、いきなり思い詰めたような表情で私に詰め寄って来た。

「亜紀ちゃん。ごめん、聞いて。私、実は好きな人ができたの」

「え、好きな人って、旦那さん以外にですか?」

 聞くまでもない質問を発しながら、その日の佳菜江さんの様子が部屋に入ってきたときからいつもと違っていたことを、頭の片隅で思い返した。

「ええ・・・」

「お相手の方は日本人ですか?」

「同じテニスクラブに通ってる、イギリス人」

「聞きづらい質問ですが、その方とはそう言うご関係に・・・?」

「そんな関係じゃない。何度かテニスの後にランチしたくらい。でも多分、向こうはそういう期待をしてると思う。それで、実は今度ディナーに誘われてて。どうしようかと・・・」

 女性の相談は、ほぼ百パーセント相談ではなくて、自分が正しいと考えている答えが正しいことを確認してもらいたいだけだ。と言うのは、知ったかぶりの男が言うことで、悔しいかな事実なのだけれど、この時の佳菜江さんははっきりと迷っていた。

 恋愛に憧れがあって、だけど恋愛の経験が少ない佳菜江さんは、誰にも相談することができず、悩んでいたのだ。苦しんでいたのだ、きっと。本当だったら、私がもっと異変に気が付くべきだった。それをへらへらと、いつも自分の話ばかりして。

 何とかせねば・・・。

 考えがまとまるより先に、気が付くと私は走り出していた。

「ちょ、ちょっと亜紀ちゃんどうしたの!?」

「佳菜江さん、こっちに来てください」

 私はかつてない毅然とした態度で、佳菜江さんを窓際に呼び寄せた。

「見てください」

 おずおずと私の横に立った佳菜江さんに、私は窓からの景色を指さした。5階の部屋の窓からは、いつものように汚れた空気にくすんだデリーの街並みが広がっていた。

「佳菜江さん、言いましたよね。恋愛はジョギングと同じだって。たしかにジョギングは身体に良いかもしれません。でも、どんなジョギングもそうとは限りません。例えば、この街でもジョギングをしてる人はたくさんいますけど、この空気の中でジョギングするのが身体に良いって思いますか?絶対悪いですよね。ほんと、何のためのジョギングなんだって突っ込みたいくらいです。それと一緒です。恋愛にも心と美容に良い恋愛と、心と美容をむしばんでしまう恋愛があるんです。いま、佳菜江さんが踏み出そうとしているのは、悪い方の奴です。私は、この街で佳菜江さんにジョギングして欲しくないです」

「この街のジョギングと同じ?私の恋愛が・・・」

 我ながら訳の分かったような分からないような説明だった。でも私は本気だった。だからなのだ、佳菜江さんは私の言葉を噛みしめるようにうつむいた。そして、再び顔を上げたとき、佳菜江さんの表情からは憑き物が落ちていた。

「亜紀ちゃん、私、この街では走れない」

「はい、どうしても走りたかったら、屋内ジムにしてください」

 最後の例えも、上手いようでまるで上手くなかった。

 だがしかし、私とインドのジョギングはこうして一人の素敵な女性の人生を転落から救った。のだった。


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