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48歳 真夏の大冒険

 オリンピックに触発されてと言うと怒られるかもしれないが、連日テレビで放送されている選手たちの挑戦する姿が私に影響を及ぼしたのは事実だ。そうでなければ、これまでの48年間で踏み出せなかった一歩を、私があの夜に踏み出せた理由が説明できない。

 踏み出すことができなかった一歩のことは、過ぎ去った月日の長短を問わず、どの一歩もつい一瞬前の出来事のようにはっきりと思い出すことができる。

 例えば、高校生の時の陸上部の夏合宿。一秒でも早く走る。その頃の私にとっては、それが人生の最大の目的だった。だからこそ、朝から延々と続く練習にも耐えていた。むしろ、苦しさは成長を約束してくれるチケットのように感じていた。

 ところが、練習の最後の400メートル走ラストの十本目、カーブを回って最後のストレートに入ったところで私の足は止まった。杯が焼けるように痛かった。疲労の蓄積で足が鉛のように重かった。他にも肉体的な限界を上げればきりがないほどだった。

 だけど私が足を止めたのは、それが理由じゃなかった。心が自分の限界を超えられなかったのだ。そして、陸上の世界では、心の限界を超えられる者だけが次のステージに進むことができる。だから私は陸上を辞めた。

 こんなこともあった。

 大学を卒業して就職した二年目に、私は派遣社員の女性のことが好きになった。彼女に会えるというだけで、出社する度に胸が躍った。彼女の姿を見るだけで、片思いで胸が張り裂けそうだった。

 そんなある日、職場の飲み会の移動途中、浜松町の交差点でたまたま彼女と私だけが赤信号に引っかかった。彼女と二人きりになった。

 隣を見た。彼女と目が合った。告白するチャンスだった。思いは溢れ返らんばかりで、喉の奥までせりあがって来ていた。でも、口を開くことができなかった。正確には、口は開いた。ただ出て来たのは思いの丈を込めた言葉ではなく、その場の空気を薄めるようなどうでも良い軽口だった。

 結局、彼女から直接、振られる権利すら永遠に失われた。彼女はそれから三年後に、私の先輩と結婚した。

 あのとき這いつくばってでも400メートルを走り切っていれば、彼女に告白できていたらどうなっただろう?それでもきっと、私の人生が大きく変わることはなかっただろう。この歳になれば、さすがに自分の分くらいはわきまえているつもりだ。

 だけど、この歳になってもまだ、心の奥にその場面が残っているのだ。小さな棘のように刺さっているのだ。そのことが引け目になって、自分の子供たちにさえ、情けなくも、自分の気持ちをまっすぐに伝えることを躊躇してしまうのだ。

 少なくとも、あの時に一歩を踏み出すことができていたら、こんな思いはしなくて良かったはずだ。私の中でくすぶり続けていたそんなもやもやに、オリンピック選手たちの勇気が火をつけた。湧き上がった爆発的な衝動が、私の背中を押した。そして私は一歩を踏み出した。

 つまりはそういうことなのだ。

 その夜、仕事から単身赴任先のアパートに帰った時には、予兆なんて何もなかった。部屋の鍵を下駄箱のフックにぶら下げて、脱いだシャツは洗濯機に放り込みズボンをハンガーにかけると、下着姿になって手洗いとうがいをした。全てはいつも通りで、無意識のルーチンだった。

 それから用を足すためにトイレに入った。この時も考えたことと言えば、どうせ手を洗うんだったら、先に用を足しておけばよかったということくらいだった。

 パンツを下ろして便座に腰かけた。用は小の方だったのだけれど便座を使用したのは、行先を間違えた小がトイレを汚さないようにと言う配慮からだった。と言うか、結婚以来の嫁さんの指導がパブロフの犬のように反射神経に刷り込まれていたというだけだった。

 小をするという行為もまた、当然のことながら純粋に肉体的な反応なので、つまりこの時点でもまだ、私の意識は覚醒していなかった。

 トイレは用を足してしまえば長居をする場所ではない。後は立ち上がり、パンツを上げ、水を流し、その場を立ち去るだけだった。そのはずだった。だがその瞬間、神が気まぐれを起こした。そして、それが私の目に留まった。

 ビデだった。ウォシュレットのビデ洗浄ボタンだった。

 もちろんそれまでに、その存在には気が付いていた。お尻洗いの方には毎日大変お世話になっている。お尻洗いボタンの反対側にある、水流調節ボタンも体調によって活用している。だけど、その中間にあるビデ洗浄ボタンの上はいつも素通りだった。

 このボタンを押したら何が起きるんだろうかと、気になることはあった。いや、今回は正直に告白しよう。ビデ洗浄ボタンの上を、視線が、指が素通りする度に気になっていた。すごく気になっていた。

 だけど押せなかった。

 そんなことあるわけないのだけれど、すごく痛いことになったどうしようという恐れがあった。女性用の機能を使うということに対する、申し訳なさ、恥ずかしさ、背徳感があった。そんなこんなの感情がごちゃまぜになって、一歩を踏み出すことができなかった。この夜までは。

 だけどパリでは熱戦が繰り広げられていた。毎日のように選手たちの勇気を目に焼き付けていた。そして、私の心に火が付いた。

 それでも身体はすぐには動かなかった。爆発的な衝動が湧き上がる一方で、心の中の逡巡・葛藤が私を羽交い絞めにした。私は個室の中で戦った。オリンピックの選手たちとは違って、誰からも応援も尊敬もされない孤独な戦いだった。だけど私にとっては必要な戦いだった。乗り越えないといけない壁だった。

 歯を食いしばり、うなり声を上げ、私は震える指を少しずつボタンに向けて伸ばした。3センチ、2センチ、1センチ。

 最後の瞬間、私が打ち破った殻は、打ち破ってしまえば拍子抜けするほどに薄く、そして脆かった。勢い余って、私は殻の向こう側に転げ出た。そしてその先、目の前にボタンがあった。

 ボタンを押した。

 私は、ついに一歩を踏み出したのだ!!

 時間の流れが緩やかになった。お尻洗浄の時よりも柔らかな機械の動作音が聞こえた。そして、その瞬間が訪れた。

 いつもとは違う場所が、ちょろっと濡れただけだった。


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