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吉兆

 場所が変わっても、私がやることに変わりはない。グリップをしっかりと握る。ボールに向けてクラブを振り下ろす。ボールを前に飛ばす。そしてひたすら数百ヤード先のホールを目指す。ただ、それだけだ。

 日本であっても、スコットランドであっても、ドバイであっても、それに変わりはない。たとえ、それがインドであってもだ。なぜならゴルフはあくまでもゴルフで、そして私はプロゴルファーなのだから。

 高校卒業後、難関のプロテストを三度目の挑戦で突破したとき、これで全てがうまく行くと思った。日本の女子プロゴルフのレベルが世界的にも上がってきている中で、倍率の高いプロテストを突破することは、ある意味、プロのツアーで優勝することよりも難しい。

 毎年のようにツアー一年目の選手が優勝していることが、それを証明している。そして、その中に、アマチュア時代に私が互角以上の勝負をしてきた選手がいた。だから、プロになって、同じ舞台で再び戦うことができるようにさえなれば、彼女以上の活躍ができるという自信があったのだ。

 だけど、プロの世界は甘くなかった。優勝や、優勝争いはおろか、レギュラーツアーの試合の出場資格を手にすることすら、ままならなかった。気が付けばあっという間に5年という月日が流れていた。一方で、私が勝手にライバル視していた彼女は、その間に日本を飛び出しアメリカツアーに渡り、2勝を挙げた。

 彼女と私では何かが違う。そう認めざるを得なかった。

 それでも、諦めることはなかった。私には私の道があり、いつかこの道もまた新たなステージに繋がっているのだと信じていた。私の心は強い。両親のおかげで頑丈に育った身体よりも強い。それに何より、ゴルフが好きだった。

 ゴルフがもっと上手くなりたい。

 欧州の下部ツアーに参加することにしたのは、少しでも多くの試合に出場したかったことに加え、厳しい環境に身を置くことで自分を鍛えたいという、武者修行的な思いからだった。正直に言えば、アメリカツアーに渡った彼女と、違う道を選びたかったというのもある。

 そうして身を投じたツアー、身の回りの着替え一式とゴルフバッグだけを携えて世界中を飛び回る旅がらすの生活は楽じゃないし、とにかく慌ただしかった。ゴルフが上手くなっているかどうか振り返る余裕もないほどだった。

 だけどゴルフ漬けの生活の日々を送っている実感があった。

 インドは、シンガポール、タイに続く欧州下部ツアーのアジアサーキット第3戦の舞台だった。

 異変を感じたのはシンガポールだった。選手たちがどこかざわつき始めていた。浮足立っていた。最初は、その理由が分からなかった。それが次第に、みんなの会話の端々からインドのせいなのだと分かった。

 私がそうであるように、ヨーロッパを中心に世界中から強い思いを持って参戦し、日々鍛えられているツアーの選手たちは皆たくましい。それまでにも厳しい環境の試合会場はあったが、選手たちが自分のペースやスイングを崩すことはなかった。

 それがなんで、今回に限って?

 私自身は、今回が初インドだったので余計に気になった。

 だから、マレーシア大会の練習ラウンドで一緒になった、ポルトガル人のラリに尋ねた。

「インドってどんなとこ?」

「おー、インド・・・」

 そう絶句した瞬間、ポルトガルの太陽そのままにいつも陽気なラリの顔に、深い影が差すのを私は初めて見た。

 というわけで、ほとんど情報はなく、ただ不安だけはたっぷりに足を踏み入れたインドは、ある意味で期待を裏切らなかった。

 空港の無秩序な混雑、うだるような暑さ、渋滞を超えた渋滞、街中を闊歩する野生動物、世界でも有数の大気汚染で淀んだ空、街中に響き渡るクラクションと夜の野良犬の遠吠え、劣悪な衛生状態。

 気を付けているにも関わらず、体調を崩す選手やスタッフが続出した。気を付けすぎるあまり、ストレスから体調を崩した人もいたのだと思う。それくらい、実際目にするインドと、実際にインドを目にすると真実かもしれないと信じてしまいそうになるインドの都市伝説は圧倒的だった。

 私も到着後二日目には参りかけていた。

 ホテルの部屋の窓から、デリーの街の営みを見ていた。遠く離れた故郷、瀬戸内海の風景を思い出した。涙がこぼれそうになった。奥歯にぐっと力を入れて堪えると、涙がぷつりと断ち切れた。右手で涙の切れ端を拭い。力士のように、両手でパンと一つ柏をうった。

「よし!!」

 気合を入れると、私は街へ繰り出した。

 ホテルを出ると、目についたインド料理店に入り、ローカルの人たちに混ざりバターチキンカレーとナンを食べた。帰り道には、チャイスタンドでチャイを飲み、ギーという成分が入っているらしいバタークッキーを食べた。部屋に帰ると、シャワーを浴びて、ラリが「できれば飲まない方が良いよ」と言っていた、備え付けのペットボトルの水を飲んだ。

 ベッドに大の字に寝ころんだ。そして、天井をにらみつけて呟いた。

「かかってこい」

 私はインドとの勝負に出たのだ。

 怖かった、心がざわついて、押しつぶされてしまいそうだった。眠りは中々私に訪れなかった。それでも、私はぎゅっと目を閉じたまま、大の字になり続けた。

 気が付けば、朝が来ていた。

「あー」

 声を出してみた。喉は痛くなかった。お手洗いに行き、朝の用を足した。お腹にも異常はなさそうだった。

 便座に座ったまま、開け放したままのドアから部屋の中を見た。カーテンの隙間から差し込む強い光が、昨日とはまるで違って見えた。確信した。

 私はインドに勝った。 

 迎えた週末のトーナメント。インドに打ち勝ったという自信が、私を後押ししてくれた。トリッキーではあるが距離が比較的短かいコースが、外国人選手ほど飛距離は出ず、ショットの精度で戦う私に合っていたというのもある。

 いつもなら安全にパーをセーブしに行くような場面でも私は果敢にピンを狙った。全てがうまく行ったわけじゃない。それでも、リスクを立った分多くのバーディーを積み重ねていくことができた。

「あー、そこ、チョットみぎ。つよくうつ。はいる」

 普段は日本人駐在員に付くことが多いという、インド人男性キャディー(インドではキャディーは基本的に男性の職業なのだそうだ)のサンジープとの、ゆるい日本語での会話も良い息抜きになった。私はリーダーボードを駆け上り、優勝争いに名乗りを上げた。

 そして気が付けば、トップで最終日・最終ホールのティーに立っていた。夢にまで見た歓喜の瞬間は目前だった。二位の選手とは二打差。安全に行けば勝ちきれる、そういうシチュエーションだった。

「アンゼン、アンゼン」

 サンジープも繰り返し、そう声をかけてくれた。

 だけど、私は攻めの姿勢を変えるつもりはなかった。最終ホールでも、私は一打目から攻めた。それが裏目に出た。

 ショートカットになる左側の狭いサイドを狙ったティーショットは、深いラフに捕まった。二打目はフェアウェイに出すだけにすれば良かった。分かっていた。だけど、無理にグリーン方向に打ち出した。そして、絶対入れてはいけないバンカーに打ち込んだ。

「あーあ」

 サンジープも頭を抱えた。

 そんなサンジープの様子は見て見ぬふりをして、バンカーに向かった。ボールは砂にめり込み、いわゆる目玉状態になっていた。

 心の中ではかなり凹んでいた。積極的に行ったこと自体を後悔したわけじゃない。ただ、四日間一緒に戦ってきたサンジープの言葉に耳を傾けなかったこと、そしてどこか自分の中でかっこよく勝ってやろうという気持ちがあったということが、きつかった。

 だけど、落ち込んでいる暇はなかった。

 サンドウェッジを片手に、私はバンカーに入った。シューズの底から感じられる砂の感触は硬かった。硬いバンカーは、距離を合わすのが難しい。ちらりと振り返ると、サンジープが拝むように両手を合わせて、私のプレーを見守っていた。

 ここまで来たら最後までいくだけだ。腹を括った。

 まっすぐにピンの方を向いた。足を砂に埋め込んで、足場を整えた。ゆっくりとクラブを振り上げた。ウエッジのフェーズを開いたまま、思い切りクラブを振り下ろして、砂ごとボールをぶっ叩いた。

 ボールを芯でヒットした。砂煙の中からボールがまっすぐに、ピンの方向に浮き上がったのが見えた。だけど、ボールはバンカーの縁に蹴られた。転々と、グリーン横のラフに転がっていった。

 心が折れそうになった。

 サンジープを手で制して、バンカーを自分でならしたのも、一呼吸置きたかったからだった。だけど、バンカーが私がボールを落ち込む前よりもきれいになっても、心を切り替えることはできなかった。

 気が重かった。本当のことを言えば、ボールの場所も確認したくなかった。だけど確認しないわけにはいかなかった。

 力を振り絞って顔を上げた。そして私は見たのだ。羽を広げたクジャクに。

 最初は、ショックから来た幻覚かと思った。でも違った。たしかにそこにはクジャクがいた。そう言えば、インドにはクジャクがいると聞いたことがあった。でも、まさか、ここで目にすることがあるなんて。

 びっくりした。びっくりした後に、力が湧き上がってきた。

 このクジャクは吉兆に違いない。私は、あのボールをラフからカップにねじ込んでやるんだ。

 クラブをギュッと握りしめ、私は一歩一歩踏みしめるように歩き始めた。次の瞬間、サンジープに肩を掴まれた。止まったというより、ひっくり返りそうになった。

 向き直った。サンジープが、口を開きかけていた。

 なんだ、アドバイスか?それともお説教・嫌味?後からいくらでも聞いてやるから、集中力が出ている間に、私にショットさせてくれ。

 にらみつける私を気にする風もなく、平坦な口調でサンジーブが言った。

「クジャク、コブラたべる。クジャクいる、コブラいる」

 さすがに心が折れた。


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