つば九郎によろしく
地球の歩き方に裏切られた。それも二度。
インド赴任が決まった時、すぐに地球の歩き方を買った。別に他の旅行雑誌でも良かったのだが、3年以上改訂版が発売されていなかった。需要が少ないのは分かるが、コロナを挟んだこの3年の世界の変化は激しい。
やっぱり、僻地には地球の歩き方だな、とこれから自分が赴く土地を貶める形で、地球の歩き方の評価を持ち上げた。
学生時代以来三十年近くぶりに買った地球の歩き方は、ページこそずいぶんとカラフルになっていたものの、黄色い表紙に情報量の多さを感じさせる厚みは昔ながらで、安心感があった。
暮らすことが決まっていたのは、日本人が多く住むデリー近郊のグルガオンという街だった。この厚みなら、グルガオンの情報もかなり手に入るだろう、勝手にそう決めつけた。ただ、ドタバタしていて、ようやく目を通すことができたのは、結局赴任日のフライトの機上だった。
シートベルト着用サインが消えるとすぐに、ドリンクサービスで白ワインを頼み、鞄から地球の歩き方を取り出した。
グルガオンを目次で調べた。地理的なこともあり、デリーの次の掲載だった。なんだか嬉しくて、ページを捲る手にも勢いが付いた。勢いが付きすぎて、グルガオンを行き過ぎた。
今度は最初のページから、ゆっくり一ページ一ページを確認しながら進んだ。グルガオンを見つけた。グルガオンのページは、見開き一ページだけだった。
ショックだった。元から決して軽いとは言えない、地球の歩き方の重量が二倍になったような気がした。ただ、打ちひしがれている場合じゃなかった。気力を振り絞って、ほんと舐めつくすように、ページの隅から隅まで目を通した。
どれだけ詳しく目を通しても、見開き一ページに掲載された情報には、限りがあった。ただ、枠外の小文字で書かれたエリアに有用そうな情報を見つけることができた。
日本人ご用達と書かれたモールが紹介されていた。しかも、そのモールは私が入居することになっていたサービスアパートメントのすぐ近くだった。少しだけだけど、気力が戻った。ただ、そうなると急に今度は、そのモールに一秒でも早く足を運ばないといけないという、偏執的な衝動に駆られた。
翌日の日曜日、はやる気持ちを抑えながら、私は地球の歩き方を片手にサービスアパートメントを出た。そこから徒歩15分。モールに至るまでの道のりは、覚悟以上のひどさだった。
砂っぽい空気。舗装されていない道路。野良犬、野良牛、なんだか分からない野良動物。あちこちにある空き地はゴミだらけ。さすがにこれはない、と思った。悪い夢だと思い込もうとした。視界に入る全部を見ないことにして、目指すモールに全神経を傾けた。
そうして、ようやくたどり着いたモールは、日本の一昔前の商業ビルのような感じだった。それでも周囲の道は舗装されていたし、駐車場にも街中ではあまり目にしないような高級車がたくさん停まっていた。
気分が高揚したというよりも、なんだかこの場所をベースに自分の新しい生活が始まるような気がした。いや、外の世界ではなく、この場所を自分のインド生活のベースにしようと決めた。そうすると、気が引き締まる感じがした。深呼吸をして、足を踏み入れた。
次の瞬間、膝から崩れ落ちた。
何と言うか、暗かった。店内が。物理的に照明が足りていないだけじゃなくて、雰囲気が暗かった。そのモールを構成する全ての要素が、くすんで見えた。怪しく見えた。
これはきつかった。勝手な思い込みで、このモールをこれからの生活の象徴に祭り上げてしまっていたせいで、衝撃が半端じゃなかった。
それでも気持ちを奮い立たせて、モール内を徘徊した。すると状況が次第に明らかになった。
そのモールには、私がこよなく愛してやまない、南大沢のアウトレットモールのような、非日常的なリゾート感は皆無だった。ただ、食事にしても食材にしても、日用品にしても、日本人が生きていく上での必要なものは最低限揃っていた。
答えを突きつけられたような気がした。
これからは、どう生きていくかじゃなくて、生きていくことを目的に生きていくんだ。
変な覚悟が固まった。
覚悟が固まるとお腹が減っていることに気が付いた。目についた韓国料理のお店に入った。席に座って、とりあえずビールを頼んだ。すると、気のせいか韓国人の店員は一瞬こわばったような表情を浮かべ、そして私を奥の個室に通した。
一人で使うには落ち着かないほど広い個室だった。椅子の上でもじもじしていると、お茶が入っていそうな、中身が見えない陶器のコップでビールが運ばれてきた。
チジミを注文してから、ビールに口を付けた。少し生ぬるいビールと、ビールには合わない唇の感触で赴任前に聞いた話を思い出した。
インドでは飲食店でのアルコールの提供にはライセンスが必要で、そのライセンスはかなり高額らしい。そのせいで、ライセンスを取らずに、こっそりとお酒を出している飲食店も少なくないという話だった。
いきなり入った店が、もぐりだった。モールの怪しさが、いや増した。
ネガティブなことばかりを並べ立てたが、それでも結局私は、毎週末そのモールに通うようになった。インドで、最低限のものが揃っているということが、どれだけありがたいことか思い知らされるのに、時間なんてまるでかからなかった。
しかも、雰囲気の暗さこそ第一印象から変わることはなかったが、通えば通うほどにモールには新たな発見があった。勝手にモールを見直した。地球の歩き方には心の中で謝った。
数多くの発見の中でもびっくりしたのは、モールの片隅に日本人の子供向けの塾があったことだった。土曜日の午前中にモールに足を運ぶと、リュックサックやランドセルを背負った日本人の子供の姿を良く見かけた。
最初は、親の都合でインドに連れて来られた子供たちや、子供たちをインドで育てることになった親は、大変だろうなと同情した。実際、子供たちと一緒にモールに足を運んでいるお父さん、お母さんの顔には、私の顔にも刻まれているのだろう影が映し出されていた。
だけど子供たちは違った。
子供たちからは、生活環境の厳しい土地で暮らしているという、悲壮感や後ろ向きな感じがまるでしなかった。彼らは、みんな真っすぐに前を見て、ただ目の前の一瞬を全力で楽しんでいた。
その健全な明るさは眩しくて、そして私に力を与えてくれた。ありがたかった。一人一人の子供にアメでも配ってあげたいほどだった。日本人会報に不審者の注意書きが出回るといけないので、それはぐっと我慢したが、モールに足を運ぶと子供たちの様子ややり取りに自然と目が行った。
そんなわけで子供たちの顔も大体覚えたのだが、その中に、私がお気に入りの凸凹コンビがいた。
一人は、身体が大きくて、わんぱくそうなガキ大将。もう一人は色白でメガネをかけていて、いかにも勉強ができそうな感じの男の子だった。小学校の高学年くらいだろうその二人組は、いつも子供たちだけでモールの塾に通ってきていた。
私はこの二人を、私は勝手にジャイ太とデキ夫と呼んでいた。ジャイ太とデキ夫は、見ているだけでもまるで二昔前の漫画みたいで楽しかったのだが、聞こえてくる会話がまた面白かった。
大体いつもジャイ太が大きな声で、どうでも良い話を始めて、それに対してデキ夫が冷静なトーンで返事をすると言った流れで会話は進むのだが、その内容や、いつまでたっても嚙み合わないやり取りが私のツボだったのだ。
その日も、私がモールの入り口のロビーでスマホで仕事のメールをチェックしていると、エスカレーターの方からジャイ太の声が聞こえて来た。
「だから、昨日の夜食べたフルーツが良くなかったみたいで、またお腹がピーピーなんだよ」
「それ前も言ってたよね。フルーツは水と野菜ほどじゃないけど、気を付けた方が良いって、先生がいつも言ってるじゃないか」
デキ夫の声は大きくはないけど、良く通る。
「だって、うまいんだからしょうがないだろ」
「でも、それでお腹が痛くなって、お腹が痛くなるだけじゃなくて、もっと重い病気になったらどうするんだよ」
「そんなの心配ないよ。そういうときはコーセー物質飲めば一発だ」
「君は知らないだろうけど、抗生物質って言うのは、悪い菌だけじゃなくて良い菌だって殺しちゃうんだぞ。いつもいつも抗生物資になんて頼ってたら、逆に身体に悪いよ」
至極もっともな、しかも友達思いの発言だった。
ところが、ああ、一点の曇りもないって言うのはこういうことなんだとハッとさせられるくらい、ほんと一点の曇りもなく、ジャイ太はデキ夫の言葉を笑い飛ばした。
「大丈夫だよ、そんなの。ヤクルト飲んどきゃ」
たしかにヤクルトは美味しいし、身体にも良い。ヤクルトの球団マスコット、つば九郎にいたっては年俸のほとんどをヤクルトで受け取っているほどだ。
とは言え、インドの生活は過酷だ。大の大人である私だって、もがき苦しみながら、何とか日々の生活を生き延びているのだ。それなのに、この子供たちは、あんな心もとないほどにちっぽけなヤクルト一つを武器に、そんな世界に立ち向かっていこうとしているのだ。
頼もしくて、いじらしくて泣けた。