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キューピット

 和弘と私のキューピットが誰かと言えば、それはやはりインドということになる。

 インドは人じゃない。という意見はもっともだが、それ以外に考えられないのだから仕方がない。結婚式の披露宴でも、式場の人にお願いして特別にチャイを出してもらったと言えば、どれだけ私が真面目にそう考えているかということを信じてもらえるだろうか。

 そもそも私たちはインドで出会った。二人とも大学の卒業旅行で、滞在先が同じデリーの駅前のユースホステルだったのだ。

 和弘も私も、リュックサック一つ背負ったバックパッカーだった。自分で言うのも何だが、大学の卒業旅行の行先にインドを選ぶというのは、あまり社交的で普通の感覚を持って人がすることじゃない。もっと言えば、それは偏屈な変わり者がすることだ。

 そんな偏屈な変わり者同士であれば、異国の地で出会ったとしても、親しくなろうと思うどころか敬遠しそうなものだ。海外にまで来て、日本人とつるむのなんてみっともない。実際、普通の状況であれば、私たちはそう考えたことだろう。

 だけどインドは、私たちのそんな軽薄なプライドを許してくれるほど、甘くなかった。

 最初のきっかけは、空気だった。あまり知られていないことだが、インド、特に北インドの大気汚染は世界でも有数の深刻さだ。中でも、伝統的な焼き畑が広く行われる11月の大気汚染は普通に生活するのが難しいくらいにひどい。

 私たちがインドを訪れたのは12月だったが、それでも街を歩けば、常に景色はうっすらとスモッグに覆われていて、一日中咳が止まらなくなるほどだった。

 その日も市内の観光をしている間、私はスカーフで鼻と口を隠していた。それでも、喉のイガイガ感は抑えきれず、早く部屋に戻ってペットボトルの水でうがいしたくてたまらなかった。というわけで、ユースホステルに戻り、足早にレセプションの前を通り過ぎようとしたのだが、そこで見過ごせない状況に出くわした。

 いかにも日本人らしき若い男性が、レセプションの前で本当に苦しそうにむせ返っていたのだ。そう、それが和弘だった。

 空気のきれいな信州の田舎で生まれ育ち、煙草も吸わない和弘は、完全な大気汚染バージンだった(まあ、そんな言葉があればということだが)。

 あまりに苦しそうな和弘を見て、さすがの私も同胞としてほって置けなかった。

「これ、どうぞ。ちょっとだけですが、楽になりますよ」

 そう言って私は、前の日にレセプションの人に教えてもらって近くのドラッグストアで購入したドロップを和弘に差し出した。

「あ、ありがとう」

 和弘は素直に受け取った。

 見知らぬ人に親切にする。見知らぬ人の厚意を受け取る。それだけでも、変人の私たちにとっては奇跡なことではあるのだが、その場面はそれだけのことだった。すぐにお互いに居心地の悪さを感じ、そのままそそくさと別れた。

 でも、それだけでは終わらなかった。

 その夜のことだ。

 夜中に私が目を覚ましたのは、寒気のせいだった。デリーの冬は意外と寒い。寒さから夜中に目を覚ましたのはそれが初めてじゃなかった。

 私はブランケットの中にくるまった。同部屋のニュージーランド人の女の子の寝息を聞きながら、私は身体が温まるのを待った。だが、昨日まではうまく行っていたその方法が、その夜は機能しなかった。しばらくして、私は寒気が身体の中から来ていることに気がついた。というか、下腹がすごく傷んだ。

 這う這うの体で、トイレに向かった。廊下の窓から満月が見えた。月明かりの中、廊下に飾られた破壊神シヴァの絵が浮かび上がっていた。幻想的な光景だった。もちろん、幻想的な雰囲気に浸っている余裕なんてなかった。

 やっとの思いで、トイレにたどり着いた。

 私の階にトイレに個室は二つあった。その内の一つは壊れていて使用できなかった。つまり唯一の個室のドアに手をかけた。使用中だった。

 もはや、別の階に移動する力は私に残されていなかった。万事休す。どういうキャラクターだかはよく知らないが、シヴァが私を嘲笑い高嗤う絵が頭の中に思い浮かんだ。絶望的な気分だった。

 ドアに手をつき、崩れ落ちそうになる身体を何とか支えた。ところが次の瞬間、まるで手を通じて私の念が通じでもしたように、鍵がかかっていたはずのドアが開いた。

 和弘がいた。

 私が滞在していたユースホステルは部屋とシャワールームが男性用と女性用で区別されていたが、階毎に設置された共同トイレは男女共用だったのだ。

「あ、」

「あ、」

 お互いに気まずかった、はずだ。少なくとも和弘はそうだったに違いない。でも、私にはそんな気まずさを噛みしめる猶予が残されていなかった。

「ごめんなさい!」

 和弘を押しのけて個室に駆け込んだ。間一髪だった。流れ落ちるように、下腹の痛みが抜け去った後も、しばらくの間、痛みの記憶で震えていた。深呼吸をするのに最適な場所だとはとても言えなかったが、深呼吸を繰り返した。

 ようやく、落ち着きを取り戻すと、後始末を済ませて。個室から出た。

 和弘が立っていた。

 今度は私も気まずかった。色んな、音とかも聞こえてしまったはずだった

「あの、」

 こういう場合に何を話しかければ良いのか見当もつかず、それでも何となく言い訳めいた口調で口を開きかけた。

「ごめん、ちょっとどいて!」

 ところが、今度は私が和弘に押しのけられた。そして、間髪入れずに、扉の向こうからさっき和弘が耳にしたのと同じであろう音が耳に飛び込んできた。

 恥ずかしかった。が、長続きしなかった。忘れ去ってしまうにはあまりに記憶が生々しい、痛みが下腹に戻ってきたのだ。もどって来るや否や、猛烈な痛みだった。とても我慢できなかった。

 何も考えず、気がつけばノックしていた。

「すみません!私も、駄目そうです!」

 すぐに水を流す音が聞こえた。和弘が立っていた。

 「どうぞ」

 いったんは放出しても、まだ落ち着きを取り戻すまでには至っていなかったのだろう。表情は冴えず、ベルトも止まっていなかった。それでも、和弘は個室を譲ってくれた。

 そして私は、今回は押しのけることなく、個室に入りピンチを脱した。

 だけど、案の定、落ち着く間はなかった。

 ノックされた。

「ごめん、いいかな!」

 和弘の声が聞こえた。

 結局そんなことが、4ターンほど続いた。ラリーが開始されて、時間にしては三十分後くらいだろうか、ようやく一息付ける程度にまでは回復した私と和弘は、それでもトイレから離れるのは怖くて、二人で廊下に腰を下ろして、並んで座っていた。

「変な話だけどさ」

 和弘が切り出した。

「こっちのトイレットペーパーって、日本のやつほど柔らかくないから、すごく擦れて痛くない?」

「痛いです。でも、こっちって基本的には紙で拭くんじゃなくて、トイレの横に付いてるホースを使って、水洗いするんですよね」

「ああ、あのインド版ウォシュレットだよね。それはそうなんだけど、あれ使った?」

「使ってません。やっぱりちょっと抵抗があって」

「だよね。でも、痛いんだよな、お尻。多分まだ、しばらくトイレ通いは続くだろうし」

「困りましたね・・・」

「よし!」

 下腹に不安を抱える者にしては破格の力強さで和弘が声を発した。

「どうかしましたか?」

「次の俺の番が巡ってきたら、俺、インド版ウォシュレット試してみる」

「俺の番って・・・」

 その表現が笑えた。でも、笑い事ではなく和弘の次の番はすぐにやってきた。

「じゃあ、行ってくる!」

 月明かりを背中に浴びながら個室に入っていく和弘の背中は、馬鹿らしくも男らしかった。

 扉が閉まり、鍵がかかり、何度も耳にした音が聞こえた。でも、トイレットペーパーの回ることは聞こえて来なかった。その代わり、一瞬の躊躇のような間の後に、耳慣れない水の放出音が聞こえた。そして、トイレットペーパーの音に続き、和弘が足を引きずるように出て来た。

「どうでした?」

「水量が凄すぎて、お尻が洗えたって言うより、足がびしょびしょに濡れた」

 今にも泣きだしそうな情けない顔で和弘が言った。さっきの男らしさとのギャップが良いなと思った。

 そして私たちは一夜を共にした。色っぽい意味ではなくて、ただ単に物理的にトイレの前で。

 日本に帰って、私たちは付き合い始めた。そこから結婚が決まるまでは早かった。

 気が合ったというのは大きかったが、それ以上に、最初にお互いの恥ずかしい部分をさらけ出しあったのが大きかったと思う。実際あの一晩は、その点に関して言えば、結婚生活十年に匹敵すると言っても過言ではないほどの濃密さを包含していた。

 そういうことだ。つまりインドは、ただ単に出会いの場所というだけでなく、私たちがお互いのことをそこまで急激に分かりあえるきっかけを与えてくれたのだ。

 断言できる。和弘と私にとってのキューピットは間違いなくインドだ。私はインドに対して、そのことをとても感謝している。どれだけ感謝しても、十分ではないほどだ。

  でも、新婚旅行はハワイに行った。


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