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トラスト・ミー

 今にして思えば、何を血迷ったのかと思う。後にニュースでも大きく取り上げられ、解説で目にしたその金融詐欺の仕組みは、本当にお粗末なものだった。どうしてそんなにも多くの被害者が出たのか、不思議でならないというのが正直な感想だ。

 それでもその詐欺に、何百人もの人が、そして私自身も騙されたのは紛れもない事実だ。

 他の被害者と同じように、私もまた70代の高齢者だ。だが私の頭ははっきりしているし、15年前に定年退職するまで40年近く会社員として働いていて、世間知らずとは程遠いという自負もある。

 高齢者が金融詐欺にひっかかる理由と言えば、老後の生活資金に対する不安がお決まりだが、私には身の丈に合った生活をしていれば心配がない程度の蓄えだってある。それでも騙された。

 仕組みはお粗末でも、手口の部分については、完成度の高いマニュアルが存在するのかもしれない。 そんな想像をしてしまうほど、岡島はごく自然に私に近づいてきた。いや、より正確に言えば、最初に声をかけたのは私の方からだった。

 妻の陽子が三年前に亡くなってから、子供もいない私はマンションで一人暮らしをしている。食事は、もっぱら近所のスーパーのお惣菜だ。一人分の食事を作ったり片付けをするのは面倒だから、というのは言い訳で、今の若い男性たちと違ってそもそも料理をしたことがないのだ。最初は、やかんを探すのにも苦労した。

 一日一回、昼前にスーパーに行き、三食分の食事を仕入れる。味気ないようにも思えるかもしれないが、商品のラインナップは意外と季節ごとに替えられていて、単調な私の毎日に彩を与えてさえくれている。

 そんなスーパーの入り口に、見知らぬ男の姿を初めて見かけたのは去年の秋、秋刀魚の塩焼きが店頭に並び始めた頃だった。

 スーツ姿の男は、通りがかる人たちに笑顔でお辞儀していた。最初は、スーパーのマネージャーかと思った。一週間くらいは、男の前を素通りした。無意識に会釈くらいはしたかもしれないが、言葉を交わすようなことはなかった。

 きっかけは秋雨だった。

 買い物を済ませて、店を出た。朝からの雨が降り止む気配もなくしとしと降っていた。買い物袋を腕にかけて、傘を開いた。傘を上げた先に男が立っていた。無意識の内に声をかけていた。

「毎日、大変だね。中に入れば良いのに」

「仕事ですから。それに、許可なく営業中の店舗に立ち入るのはNGなので」

「ああ、スーパーの人じゃないんだ。じゃあ、毎日こんなところに立って、何してるんだい?」

「私、こういうものです」

 男が差し出した名刺には、ファイナンシャルプランナーの肩書、そして岡島と書かれていた。

「ファイナンシャルプランナーがなんでまた、辻立ちなんか?」

「偉そうに聞こえるかもしれませんが、こういう普通のスーパーに通うような方のお力になりたいと思って、私はファイナンシャルプランナーになったんです」

「それは立派な心掛けだが、それなら立ってるだけじゃなくて、もっと積極的に宣伝しないと駄目だろ」

「そうなんですけど、ここだけの話、勝手に軒先をお借りしているので、あまり派手な宣伝はできないんです。それに、」

「それに?」

「知らない人に声をかけるのが苦手なんです」

 そう言って、恥ずかしそうに笑った岡島に私は好感を覚えた。

 次の日からは、岡島に会うと挨拶するようになった。その内、電子マネーの使い方やら、新しい銀行の制度やらについて、立ち話をするようになった。

 岡島が、その話を切り出してきたのも、そんな立ち話の流れからだった。

「あ、そうだ。室岡さんにこの間、銀行の話させていただきましたけど、もう少しお得なやり方もありますよ」

「投資か?もう、この歳だ、間に合ってるよ」

 少し身構えた私に、岡島は弁解するように顔の前で手を振って言った。

「すみません。そんな投資なんて大げさな話じゃないんです。ここだけの話でもありません。それどころか、有名な話なんで、室岡さんもご存じかもしれない。ファイナンシャルプランナーが改めてお伝えするのもどうかなという気もするくらいなんですが、ふと思い出したので」

「なんだ、怪しげな儲け話でも聞かされるのかと思ったよ」

 本当に申し訳なさそうな岡島の様子に思わず笑った。

「残念ながら、違います。政府系の債券です。利子も2.5%なので銀行に預けているのと、あまり変わりません」

「2.5%もつけば十分じゃないか。リスクは?」

「金融法の関係で元本保証はうたっていませんが、国がバックについているので、実質保証されているのと一緒です。簡単な算数ですが、1,000万円入れれば月2万円強のバックなので、室岡さんの買い物袋に入っているお肉やお魚のランクが一つ上がるくらいですね」

 私は岡島の言葉をいともあっさりと信じた。リスクの低さではなく、リターンの控えめさを強調したこと、そしてそれをイメージしやすい言葉で伝えられたことで、あっけなく私の警戒は解かれた。いや、警戒などそもそもなかったのかもしれない。

 孤独な老人の暮らしの中で、毎日、一言二言道端で言葉を交わすだけの岡島を、私はそれほど信じるようになっていた。いや、信じたいと思うようになっていたと言う方が正しいのかもしれない。認めたくはないが、寂しかったのだ、きっと。

 そこからはあっという間だった。

 一週間後には、私は通帳と印鑑を持って、岡島の事務所だという雑居ビルの一室のソファに座っていた。こじんまりとして質素だが、きちんと整理され清潔な事務所だった。

 岡島の様子もいつも通りだった。天気や前日のプロ野球の結果の話をして、そのトーンのまま資料を使って投資内容について私に説明した。そのまま、手続きは進んだ。あとは、私が書類を最後にもう一度確認して、捺印するだけだった。

「すみません。秘書もいなくて、お茶も出せず」

 私が書類を確認している間に席を立っていた岡島が戻ってきたとき、その手にはペットボトルの水が握られていた。

 ペットボトルをテーブルの上に置くとき、岡島は少し顔を近づけて私に囁いた。

「大丈夫ですよ、信頼していただいて」

 信頼していた。書類も目を通しているふりをしていただけで、ただの時間つぶしのようなものだった。ところが、岡島の「信頼してください」という言葉と、ペットボトルの水が私の記憶を刺激した。

 会社を定年退職した記念に、陽子と二人でインドを旅行した。私はヨーロッパを回りたかったのだが、変わったことが大好きだった陽子の希望だった。

 インドを旅行する前に、くれぐれも水には気を付けるように言われていた。歯磨きも水道の水は使わない。シャワーもできるだけ口から入らないようにする。何を大げさなと思ったが、旅行の間は、さすがにシャワーは別だが、何をするにもペットボトルの水を使った。

 やはり水の衛生には問題があるのだろう。インドではホテルのどこにでもペットボトルの水が置いてあったので、ペットボトルを調達するのに困ることもなかった。

 インドに入って3日目くらいに陽子が言った。

「ねえ、気がついた?」

「何に?」

「水のペットボトルね、どのブランドの奴にもTrustって書いてるの」

 言われてみれば、フレーズは違えど、たしかにラベルの全てにTrustの文字が入っていた。

「水に求められるものが、品質イコール信頼ってことなんだろうな」

 それで話は終わった。ありそうな話だと、何とも思わなかった。

 まさにその夜だ。陽子と私は、ひどい下痢に襲われた。そして、それは1週間という残りの旅行期間ずっと続いた。

 ペットボトルの水が原因だったかどうかは分からない。詰め込んだスケジュールのせいで、疲れもあった。

 それでも私たちは日本に戻ってから、「信じろと自分から言ってくる奴は、信用ならない」という意味で、「インドのペットボトル」というフレーズを使うようになった。

 半分は冗談だ。そういう形で二人で旅の思い出を共有したのだ。

 陽子が死んでから、すっかり忘れていた。その記憶を、岡島の言葉、テーブルの上のペットボトルが思い出させた。

 次の瞬間、私は声を上げていた。

「あ!」

「どうしました?」

「印鑑、持ってくるの忘れた」

「え?」

「申し訳ないけど、明日で良いかな。今日の午後は出かけなきゃいけない用事があるんだ」

 岡島は、何かを確かめるように私の目を正面から覗き込んだ。私にとっては、ひどく長く感じられる時間が流れた。駄目かなと思った。

 だが、岡島は最後ににっこり笑って言った。

「分かりました。じゃあ、明日この時間にお待ちしていますね」

「すまなかったな」

 私はソファから立ち上がると、急ぎ足にならないように気を付けながら、事務所を出た。

 そしてまさにその日の午後、岡島の一味が警察に逮捕された。

 騙されはしたが、幸いなことに被害を出さずに済んだ。ただ、色んな点で自分の弱い部分を見せつけられたような気がして、私は落ち込んだ。だけど、自分の弱さを認めることは、どれだけ残されているのかは分からないが、これからの余生を考えれば良かったのかもしれない。

 元気だった頃の陽子の記憶が鮮明に蘇ったのも嬉しかった。陽子の姿や、話し方、笑い方、しぐさを思い出すと、胸の奥の方が刺激されて、いつ以来だろうかその場所が温かな感情で満たされていくのを私は感じた。

 その一方で、インドのペットボトルの記憶は下腹の奥の方を刺激した。

 そして私は、3日ほど足繫くトイレに通った。


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(お知らせ)

 インド編、短編集を一冊の作品にまとめました。

 ご一読いただければ幸いです。

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