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ニギニギ・スターマン

 タージ・マハルは、おそらくインドで一番有名な観光地だ。イスラム教・ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、死去した妻ムムターズ・マハルの「後世に残る墓を作って欲しい」という遺言に基づき、21年という長い年月をかけて建立した。

 白大理石の霊廟は、その四方が約100メートル、四隅に有する塔とドームを冠する本体の高さはそれぞれ40メートル、60メートルを超えるなど巨大だ。だがそれ以上に印象的なのは、その完璧すぎるほどのシンメトリーだろう。

 コンピューターはおろか建設機械もなかったその時代に、どうやってそこまで完全に左右対称な霊廟を作り上げることができたのか。その問いに答えようとすると、技術的な説明だけでは十分でなく、そこまでの完璧さに固執したシャー・ジャハーンの執念に行きつく。

 だからなのだ、「世界で一番美しい墓」と称されるタージ・マハルが、そこを訪れる人々の心に、感動だけでなく畏怖の念までも呼び起こすのは。実際、タージ・マハルの前に立った私の胸にも、それに近い感情が浮かび上がった、はずだ。浮かび上がったと、思う。

 ないのだ。その瞬間の記憶が。その直前に起きた衝撃的な事件、その事件から来た動揺が、その貴重な体験の記憶をかき消してしまった。

 私がタージ・マハルを訪れたのは、週末を挟んでのインド出張のときだった。来てもらった以上は少しでもインドのことを好きになってもらいたいという心遣いから、現地の日本人出向者が誘ってくれたのだ。

 ところで、私のタージ・マハル訪問には出向者以外にも同行者がいた。

 スターマンだ。

 どうしてそんな所に、仕事ともインドともまるで関係のない、ベイスターズのマスコットキャラクターがいたのかということだが、それには理由がある。

 出張が多い私は、ここ数年、出張先で美しい景色や珍しいものを見かけたり、美味しいものを食べたりするときは、写真を撮って妻と娘にLINEに送るようにしている。

 こんなこともあったという情報共有や、元気に出張していますという生存確認程度のもので、別に何かの反応を期待して始めたわけじゃなかった。期待して始めたわけではなかったのだけれど、当初は本当に全く何も反応がなかった。

 それは、もの足りないというか、もの寂しかった。ああ、本当は反応してもらいたかったんだなと、思い知らされた。打ちひしがれた。

 そんなある日、私がリビングのテレビでベイスターズの試合結果を確認していると、たまたま通りがかった娘が、映像の中に登場したスターマンを見て、「この、ハムスター可愛い」と言った。何気ない一言だった。ただの感想だ。実際、娘はその一言を発しただけで、立ち止まることもなくテレビの前から立ち去った。

 だが、これだと思った。

 その翌週、佐賀に出張した私は、出張にキーホルダーについている小さなスターマンぬいぐるみを同行させた。その夜、夕食で訪れた居酒屋で呼子のイカの生け造りと地酒を頼むと、いつものように運ばれてきた料理の写真を撮った。ただいつもと違ったのは、写真の片隅にスターマンを映り込ませたことだった。

 そして、写真を確認した時点で私は既に満足していた。いつもより面白い写真が撮れたし、なんだか旅の道連れができたような気がして嬉しかったのだ。一応LINEでその写真を送ったが、そのことも忘れて、次の瞬間には料理に舌鼓を打っていた。

 ところが、日本酒を一合飲み干す前にスマホが震えた。手に取って画面を開くと、娘からの返信だった。

「そのハムスターが食べてる、イカ美味しそう!!」

 今度は私の胸が震えた。

 この時からスターマンの、私の出張用のブリーフケースの小物入れを寝床にした、冒険の日々が始まった。まあ冒険と言っても出張先なので、基本的には地方都市の名物料理と一緒にツーショットみたいなやつが大きかったわけだが、初めての海外出張先は中々にアドベンチャーだった。

 それが、インドだった。そして訪れたタージ・マハルで悲劇は起きた。

 デリーから車で4時間、到着した私たちを迎えたのは西部劇に出てくるような山高帽をかぶったちょび髭のガイドだった。

「タージ・マハルはセキュリティの関係で、荷物の持ち込みが厳しく制限されています。水以外の飲食物はアメでも没収されるし、三脚やナイフ、本もNGなので、荷物は水と財布、スマホ等、最小限にしてください」

 彼は確かにそう言った。もちろん、私はその言いつけに従い余計な荷物は車に置いて出た。実際、小ぶりな斜めかけバッグに残ったのは、最小限の荷物だけだった。水・財布・スマホ、そしてスターマンだ。

 電動シャトルバスで5分ほど敷地を走った。気温は40度近くあったが、緑が多く、湿度が低いこともあって頬にあたる風が気持ち良かった。入口のチケット売り場に到着すると、そこには長い行列ができていたが、ガイドがあらかじめチケットを買ってくれていたので、私たちはそのまま入場ゲートに並ぶことができた。

 行列は日本ほどスムーズに進まなかった。だが、前日に出張目的の仕事を無事に終えていたこともあり、それもまた異国の地を旅している感を楽しめて苦にならなかった。ゆっくりと進んでいる間に、荷物と身体チェックが別のラインになっているというような、仕組みを確認できたのも良かった。

 そして、私の番が来た。私は学習していた通り、バッグを荷物チェックのレーンに載せ、自分は身体チェックのレーンを進んだ。私が身体チェックのゲートまで来たとき、大きなブザー音が鳴った。一瞬ぎょっとした。だが、何があるわけでもなく、そのままゲートを通過することができた。

 少しほっとして、同時に何のためのチェックなんだと苦笑交じりで、右隣のレーンに向かいバッグをピックアップしようとした。すると制服に身を包んだ屈強な兵士が、私のカバンを手にこちらを見ていた。

 私が歩み寄ると。

「オープン」

 平たい命令口調で、鞄を開けるように指示された。問題はないはずなので、特に心配せず鞄を開けた。兵士は鞄の中をチェックし、鞄の中に手を入れた。そして鞄の中から出て来た兵士の手にはスターマンが握られていた。

「ノトイ」

 兵士が断言した。

「ノトイ?」

 聞き返して、気がついた。「ノトイ」は「ノー、トイ」なのだと。食べ物やナイフは持ち込みを禁止する理由が分かっていたので、その理屈で勝手におもちゃは問題ないと決めつけていた。というか、スターマンが持ち込めないなんて、思いもしなかった。

 兵士は、私が状況の理解に時間がかかっていることなどお構いなしに、話はこれで終わりだとばかりに向き直り、私のところから立ち去ろうとした。その先に、没収されたライターやらお菓子屋らが無造作に放り込まれたボックスが置かれていた。

 そのとき、兵士に握られたままのスターマンと目が合った。恐怖で震えているように見えた。私は兵士に詰め寄って、必死で説明した。

「ノー、デンジャー!ノー、デンジャー!」

 兵士はいかにもめんどくさそうに私を見返した。おそらく二三秒、でも私にとってはとても長く感じられる時間が過ぎた。兵士の顔に諦めたような表情が浮かんだ。そして次の瞬間、私の目の前で信じられないような出来事が起こった。

 兵士がスターマンを手にした右手を私の目の前に突き出した。そして、その良く日焼けした大きな手が、ニギニギとスターマンを握りつぶした。

「OK。ノー、デンジャー」

 そして兵士はスターマンを私に投げ寄こした。

 動揺から上手くキャッチできなくて何度かお手玉したが、何とか地面に落とさずに手のひらに収めることができた。私はスターマンをポケットに匿うと、これ以上トラブルに巻き込まれないよう足早にその場を離れた。

 人目につかない木陰まで移動すると、私はスターマンをポケットの中から取り出して、お手拭き用のウェットティッシュでスターマンの身体を拭いた。深い意味はなかった。ただ、スターマンをきれいにすることで、全てをなかったことにしたかったのだと思う。

 そして、スターマンの様子を確かめた。

 当たり前だが、スターマンはいつものようにニッコリと笑っていた。でも、その目の奥に、私はスターマンが負った深い心の傷を見たような気がした。

 思わずもらい泣きした。


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 ご一読いただければ幸いです。

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