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世界中の男子は辞書を引く

 若い女性のインド一人旅というと、ずいぶんと変わっているか失恋の傷を癒すための(もしくは自暴自棄になっての)傷心旅行というイメージがあるかもしれない。

 私には自分が変わっているのかどうかは分からない。ただ、三か月前に街角で泣き崩れるような派手な失恋をしたのは事実だ。

 インドに何を求めたのかも分からない。たぶんインドじゃなくても、どこでも良かったのだろう。敦との思い出に染まっていない、住み慣れた街以外のどこかであれば。そもそも、インド旅行を手配した頃の記憶が定かでない。

 ふと我に返ったのは、インド・デリーに向かう機上だった。

 私は今、何をしようとしてるんだったっけ?そう、インドに向かってるんだ。インド?なんで?インドぉ~!!?

 叫びこそしなかったが、私はかなり動揺し、後悔した。思考停止期の自分(あるいは、そんな自分にインドを勧めた旅行代理店の担当者)を呪いもした。でも、いかに激しく私が後悔し、誰かを呪ったところで、デリーを目指して飛び立った飛行機が、その進路を変えることはなかった(当たり前だ)。

 そして、デリー到着の三日後。これ以上ないというくらいに食べ物には注意していたにも関わらず、細菌性の下痢に襲われ、安ホテルのトイレから丸一日出れない状況に陥り、ただひたすら窓の外から聞こえる野良犬の鳴き声に耳を傾ける時間を送っていたときに、私の呪いは頂点に達した。

 そのパワーはすさまじく、飛行機の針路は代えられなかったかもしれないが、敦か旅行代理店の担当者のどちらかが日本で原因不明の下痢になったかもしれない、と思ったほどだ。というか、そうでもしないとどうにも収まりがつかなかったので、そう思うことにした。

 ところが、デリー滞在予定の一週間が過ぎるころには、私の失恋の傷はすっかり癒えていた。正確には、そんなことどうでも良くなった。もっと言えば、人生の大概のことはどうでも良くなっていた。

 結局のところ、失恋をした若い女性はインドを目指すべきなのだろう。 

 帰国の前日、私はホテルのマネージャーに教えてもらったお気に入りの街角のチャイスタンドでティーを飲みながら、街を行き交う・ただ目的もなく(あるのかもしれないが)立ち尽くす・座りこむ人々を眺めていた。その空間の時間の流れと、砂糖がたっぷりと入ったティーが私の頭をほぐしてくれていた。

 私は悟った。私はこの国をきっとまた訪れる。

 その瞬間の私はおおらかな気分で、きっと他人を受け入れるような表情を浮かべていた。そのせいもあったのだと思う。インドのアクセント感じさせない流ちょうな英語で話しかけて来た老人は、誰にでも声をかけるようなタイプには見えなかった。だから私も、旅先の警戒心を解いて対応することができた。

「日本の方ですか?」

「はい」

「やはりそうでしたか。そうだろうとは思ったのですが、この街には中国や韓国からきている人も多い。私の日本の記憶はかなり古くなってしまっている。もし間違っていたら恥ずかしいし、それ以上に失礼になると思って、躊躇していました」

 そう言うと老人は、私の向かいの席を手で指し示し、相席の許可を求めて来た。とても上品な、そして自然なふるまいだった。

「日本に行かれたことがあるんですか?」

 私の同意を確認してから席に着いた老人に、尋ねたのは私の方だった。

「ええ、1980年代の前半でした。大学を卒業してすぐに、国費で留学したんです。私の専攻は電気工学で、進んだ日本の技術を学ぶようにと」

「40年以上前ですね。私の知らない日本です。当時の日本はどんな感じでしたか?」

「一言で言えば、まるで未来の世界でした。もちろん今では、そのときよりも比較にならないほど進化しているのだと思います。残念ながら、日本を訪れる機会は、その時だけだったので。ただ、インドを出たことがなかった私にとっては、本当に街中が驚きに溢れていました」

「そうなんですね。特に印象に残ったものは何ですか?」

「4つあるんです。日本で初めて体験したことが」

 老人は、日本で数えるときは違うやり方で、四本の指を立てた。

「4つ?」

「はい。まず一つは、エスカレーターです。映画で見たことはありました。でも、実際に動いているエスカレーターに乗ったのは初めてでした。ほら、小さな子供が、エスカレーターに乗るタイミングが分からなくて、手前で逡巡しているシーンが良くありますよね。あの、大人版です。ただでも日本では外国人が少なくて目立つし、でもエスカレーターに飛び乗る勇気は出ないしで、あの時は恥ずかしくて大汗をかきました」

 その場面を想像すると笑えた。恥ずかしかったのは本当なのだろうが、きっと良い思い出なのだろう。老人は笑顔で話を続けた。

「2つ目は、自動販売機です。自動販売機自体も初めてでしたが、それが街中に設置されていて、そこから冷たい飲み物が出てくる。ホットのドリンクも出てくる。ほんとびっくりしました。

 エンジニアとして印象的だったのは、自動ドアです。ドアを電気で開閉するという仕組み自体は、想像することができました。ただ、それが、人が近づいて来るのに合わせてちょうど良いタイミングで開くというのが衝撃でした。

 本当のことを言えば、最初はそれほどでもなかったんです。誰かがどこかで見ていて、ドアを開閉しているんだろうと思っていたので。それがそうでないと大学で一緒に勉強していた日本人から教えられて、後から衝撃を受けました」

 老人の語り口には淀みがなく、恐らくこの話はこれまでにも何度も繰り返されてきたのだろうと、想像がついた。たしかに良くできた話だ。でもそれ以上に、老人の脳裏にその時の場面がはっきりと刻み込まれているのだ。

 私は、私の目の前に座る小柄な老人の若き日の日本滞在、そしてインドに戻って来てからの人生に思いを馳せた。それはきっと、グローバル化とテクノロジーの進化で、地域間格差が薄れて来た今とは比較にならないほど、ドラマティックなものであったに違いない。

 そして、思い出した。

「あ、そう言えば4つでしたよね。最後の一つは何ですか?」

 老人もまた自らの過去を振り返っていたのかもしれない、私の呼びかけに、夢から醒めたように小さく頭を振ってから、老人は答えた。

「英和の辞書で調べたんです。辞書を買うお金はなかったので、日本人の友人に辞書を借りて。そうしたら、彼の辞書のその場所に既に線が引いてあって、お酒を飲みながら笑いあいました」

 その時のことを思い出しているのか、笑顔の中に遠くを見るような目の様子を浮かべて、たどたどしいそれでもはっきりとした日本語で彼は言った。

「フデオロシ」

 男ってやつは。 


*************************************

(お知らせ)

 インド編、短編集を一冊の作品にまとめました。

 ご一読いただければ幸いです。

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