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意味のない犯罪

「先輩は、タバコ吸いませんね」

 お手洗いから帰ってきた川島が隣の席に座りながら口にした言葉は、確認というよりも仕切り直しの合図のようなものだった。独特な甘い香りがしたから、お手洗いついでに電子タバコで一服してきたのだろう。

「ああ、吸わない」

「止めたんですか、それとも最初から吸ってない?」

「最初から吸ってない」

「一回も?」

「一回も」

「本当にただの一回も?」

「ないよ」

「凄いですね」

 煙を吐き出すように、川島が斜め上に呟いた。

「何が?」

「いや、タバコ吸わないって言う人でも、大体は一回くらいは吸ったことがあるもんじゃないですか。特に若い時は、その場の流れとか、ちょっと格好つけたりしてとかで」

「ああ、そういうやつか。たしかに高校の学園祭の打ち上げの時に、男子が集まってカラオケボックスで順番にタバコを吸うみたいなことはあったな。でも、それはルール違反だし、そもそも吸いたいと思わなかったから、俺の番が来ても普通にパスした」

「逆に格好いいですね。自分の考えに一本芯が通ってるって言うか。いかにも先輩らしい。先輩みたいな人は意味のない犯罪で、人生を棒に振ったりすることってなさそうですよね」

 何が逆になのかが良く分からなかった。意味のない犯罪というフレーズも曖昧な感じだった。ところが、そんな曖昧なフレーズが、俺の二十年近く前の記憶を呼び起こした。

「意味のない犯罪だったら、あるよ」

 記憶の縁をなぞるように、つい呟いた。

「え!あるんですか!?」

 元々、川島は大げさなやつだが、この時は本当に意外だったのだろう、通りがかった店員の顔に迷惑そうな表情が浮かぶくらいに、大きな声で反応した。

「聞かせてくださいよ、その話」

 迷惑なやつだなと思ったし、一緒にいて恥ずかしかった。だが川島は周りの様子に気付くそぶりも見せずに、そのままのテンションで俺に話をするよう迫ってきた。

 話をするつもりなんてなかった。言葉が出たのも、川島に聞かせるためというよりも、本当に無意識に漏れただけだ。だけど、川島をなだめるためには話をせざる得ない雰囲気になっていた。

 高校生のときは無視していた場の雰囲気を読む程度には、俺も大人になった。いや、心のどこかで俺はこの話を誰かにしたいと思っていたのかもしれない。そのどちらなのかが分からないまま、とりあえず不承不承といった感じで、今度は記憶のページを捲りながら俺は話始めた。

「田舎だからって言うわけでもないんだろうけど、子供の頃、親父の親父、つまり爺ちゃんと一緒に暮らしてたんだ。婆ちゃんの方が先に死んでて、親父とお袋と爺ちゃんと俺の四人暮らし。で、うちは共働きだったからさ、小さい時から俺はいわゆる爺ちゃん子っていうやつだった。

 爺ちゃんはどちらかというと物静かな人で、一緒に外でキャッチボールしたり、虫取りしたりみたいな、そういうなんて言うか、よくあるタイプの思い出はないんだけど、俺はなついてた。爺ちゃんが一緒にいる部屋で、爺ちゃんが碁を打ってて、その隣で俺が一人で遊んでて、時々なんか爺ちゃんが一言声をかけてくる、そういう感じ、そういう空間が好きだったんだ。

 爺ちゃんも俺のことを可愛いと思ってくれてたんだと思う。俺、少年野球に入ってたんだけど、野球の応援とか手伝いにも来てくれてたし、お袋が忙しい時はお弁当も作ってくれた。ほとんど具が入っていないでっかいおにぎり一個。でも、それが妙に美味かった。

 そんな爺ちゃんが一番好きだった場所が、図書館だったんだ。田舎の小さな町のわりに、立派な図書館があって。レンガつくりの建物、玄関の前には楠の大木。爺ちゃん、週に二回はその図書館に通って、図書館で本を読んで、面白いとそのままその本を借りて帰って来てた。

 もちろん読書が好きだったんだけど、それだけじゃなくて図書館が好きだったんだと思う。分かるんだ。爺ちゃんに連れられて、俺も図書館に良く行ってて、俺もそうだったから。

 爺ちゃんはずっと家にいたけど、やっぱり小学校4年生くらいになると俺にも自分の友達との人間関係とか世界ができてきて、それ以前ほど爺ちゃんと一緒にいることは多くなくなった。それでも、爺ちゃんの側にいるのは好きだった。遊びに行っていない日曜日の夕方とかには、良く爺ちゃんの隣で本を読んだりして。

 だから、中学1年の時、爺ちゃんに胃ガンが見つかった時はショックだった。爺ちゃんは病院が好きじゃなくて、それでもどうにも調子が悪いと渋々検査を受けたときにはもう手遅れだった。もう治る見込みがないと分かって、爺ちゃんは入院せず、家に残ることを選んだ。

 もちろん俺たちに気を使わせないように我慢していたって言うのはあると思うし、歳を取っていた分ガンの進行が緩やかだったのかもしれない。家での爺ちゃんの態度や生活には変化はなかった。だから俺は、それまでと同じように爺ちゃんと接しようと思った。爺ちゃんが重い病気だって信じたくない気持ちもあった。

 だけど、爺ちゃんの近くにいた分、俺には爺ちゃんがゆっくりと確実に弱っていっているのが分かった。なんだか爺ちゃんの輪郭の線が細くなってるみたいな、そんな感じだった。

 できないことも次第に増えていった。遂には、図書館にも歩いていけなくなって本が借りられなくなったから、俺が代わりに借りてきた。大体は爺ちゃんから頼まれた藤沢周平とかだったけど、時々、俺が読んで面白かった時代小説も借りたりして。爺ちゃんも、本が好きだから、ちゃんと読んでくれて。

 そのときもそうだった。リビングの庭に面した一番日当たりの良い場所で、俺が借りてきた宮部みゆきを読んでた爺ちゃんが、俺の方を向いて言ったんだ。『雄二、この本面白いな』、って。

 それが最後だった。その日の夜に、爺ちゃんは容態が急に悪化して、それから三日後に死んだ。

 人の死体を見るのは、通夜の時が初めてだった。棺に入っている爺ちゃんは、使い古された言葉だけど、本当に眠ってるみたいで、今にも起き上がって、元気な頃には日課だった朝の散歩に出て行きそうだった。でも、爺ちゃんは二度と散歩も食事も読書もすることがない。当たり前のそんな事実が、ひどくショックだった。

 で、その瞬間に思い出した。爺ちゃんが宮部みゆきをまだ読み終えてないって。

 爺ちゃんはもう本が読めない。でも、最後の本だけは終わりまで読ませてあげたい、そう思った。田舎の家だから、お通夜も家の大広間だった。俺はお通夜を抜け出してリビングに行くと爺ちゃんが読んでいた宮部みゆきを取って来て、みんなに気付かれないように棺の中に隠した。

 誰にも気づかれることはなかった。そしてそのまま、次の日にお葬式が行われて、図書館の所有物である宮部みゆきは、爺ちゃんと一緒に火葬場で燃やされた」

 俺は、そこでいったん言葉を切った。

 長話をしたのと、爺ちゃんの最後を思い出したことで、ひどく喉が渇いた。

 ところが、俺がグラスに手を伸ばすのを見て、話が終わったと勘違いした川島が、堰を切ったようにまくし立てて来た。

「先輩、それ意味のない犯罪じゃないですよ!お爺ちゃん、死んでしまってたけど、絶対天国でその本を最後まで読んでくれたはずです!俺、そう信じてます!」

 そこまで珍しく一言も口を挟まずに俺の話に耳を傾けていた川島の目は心なしか潤んでいるように見えた。

 俺は慌ててグラスを持っていない方の手で川島を制すと、付け損ねた落語のオチを説明するようなバツの悪さを感じながら、川島に伝えた。

「いや、そこじゃないんだ」

「え?」

「爺ちゃんの葬式が終わって家に帰ってから、俺思い出したんだ。爺ちゃんが読んでた宮部みゆき、上下巻だったって」

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