26 休息
屋敷に戻ってきた時にはもうすでに日が高くなっていた。
それでも一晩中起きていたため、体が睡眠を欲している。
元の人形の体は眠らなくても問題なかったが、今は生身である。本体のアイシアが眠くなっているのだろう。私も意識がだいぶぼんやりしてきた。これで目が覚めたらアイシアの意識も戻っていれば良いのだが。
帰宅して、身支度を整えてから、私は寝室に戻った。
「今日は疲れたでしょう。一日ゆっくり休んでください」
そう言って、伯爵は妻をいたわる。
「伯……旦那様も休んだ方が良いと思いますけど」
つい伯爵と呼びそうになるのを何とか修正する。今の私はアイシアなのだ。そして妻のふりだけでなく、私自身としても伯爵の身を案じてしまう。
もともと疲れたような彼の顔が、今はいっそうやつれているように見える。心労と疲労でさらに十歳くらい老け込んだのではないだろうか。若い新妻を向かえた花婿にはとうてい見えない。
「まだ昼間ですよ?」
伯爵はやんわりと断ろうとする。これは徹夜明けでまだ仕事をするつもりだな。
一応は社会人をやっていた私から言わせると、徹夜で仕事をしてもかえってはかどらない。適度に休憩や仮眠を取らないと、作業効率が落ちるのだ。まして二十代も半ばを過ぎると、一気に体に無理がきかなくなる。私の実年齢より上の伯爵なら、なおさらだろう。
「少しくらい昼寝してもいいんじゃないですか?」
再び休息を勧めると、伯爵はゆっくり頷いた。
「そうですか。では少しだけ」
そう言うと、伯爵は私の手を包み込むように握ったまま、ベッドに体を預けた。
その結果、手を取り合ったままベッドの上で見つめ合う体勢になってしまった。
違う。
そうじゃない。
抗議したくても、微笑みながら見つめてくる伯爵の嬉しげな目を見ると、むやみに突き放すことはできなかった。
それに、確かソーシャが言っていたではないか。アイシアが私と交代してから、夫婦は毎晩寝室をともにしていると。ここで変に拒絶したらすぐに疑われてしまう。
だが、ここでこのままアイシアに無断で私が伯爵との仲を深めて良いものだろうか。
いや、それ以前に、心身ともに疲れ切っている伯爵は本当の意味で休まなければダメだろう。
「あの……旦那様はどうやって私たちを見分けているのですか?」
とりあえず気をそらすためにも私は尋ねた。
いや、実際には見分けられていないのだが。それでも鉱山で再会した時にはやたら自信満々だったので、何か根拠はあるのだろう。
「ああ、それは温かさですよ」
「温かさ?」
「ええ。二人はそっくりで声にも違いはありませんが、触れた時の温もりが違うんですよ。手に触れればすぐにわかります」
そう言いながら、伯爵は取った手をさらに強く握りしめてきた。
この状況に恥ずかしさでいっそう目がくらむが、ふとそれどころではないことに気づいた。
自分の平熱は高くも低くもなく普通だったが、人形に魂を入れられてからの体温などわからない。だが、実際に触って違いがわかるほど、人形は体温が低かったか、アイシアの平熱が高かったのだろう。生身でない人形の体温が低いのは無理もないとは思うが。
そして、「違いに気づいていた」ということは――
「……ということは、もしかしてこっそり入れ替わっていたの、気づいてたんですね」
アイシアは夫に内緒でちょっとイケナイことをするのを楽しんでいたようだが、実際にはとっくにバレていたということだ。
「ええ、そうですね。ここ何日かはずっとあなただったんでしょう?」
大きな手のひらが頬を撫でる。そして背中に回った腕がアイシアの体を抱き寄せる。密着した体に直接、彼の温もりが伝わってくる。
「あなたの温もりを間違えたりはしませんよ」
伯爵は耳元でそうささやいた。
これは、かなり、まずい、のでは、ないか。
体が硬直して思考が小間切れになる。
顔が近い。近すぎる。しかも昼間なので、カーテンを閉ざしても室内は明るく、あまりまじまじと見たことのなかった伯爵の顔がはっきりと見える。
――よく見ると伯爵、結構顔がいいな。
こんな人と毎晩ともに過ごしていたら、たとえ年齢差がダブルスコアでもアイシアがずいぶんのぼせてしまうのもわかる気がする。
いや、そんなことを言っている場合ではない。
心臓が早鐘を打ち、いっそう体温が上がる。人形の体でも疑似的に動悸を感じたりはしたが、生身の体ではやはり感覚がずいぶん違う気がする。
耳元に熱い吐息が届く。
めまいがして、視界がぼやける。さらに何か細かい靄のようなものまで見える。これは追い詰められた状況で見る幻覚だろうか。
黒い塊が舞うように伯爵を取り囲む。
これは――蝶?
ひらひらと舞う黒い蝶が、まばゆい光の粉を散らす。これは鱗粉だろうか?
その光にいざなわれるように、伯爵のまぶたはゆっくりと閉ざされた。
「は、伯爵!?」
うっかり呼び方が戻ってしまったが、すでに相手は聞いていなかった。
伯爵を覗き込むと、すうすうと顔に似合わない可愛らしい寝息が聞こえてくる。
――まさかの寝オチかよ!
とても気持ちよさそうに熟睡する彼の寝顔に、私は脱力した。
すると、不意に背後に気配を感じた。
「ああ、無事でしたか」
振り返った先にいたのは、悠然と微笑むナナキだった。
「ナナキさん!? 何でここに!?」
「不測の事態が起こらないよう、蝶を潜ませて注意していたんですよ」
蝶はソーシャの本体だが、それを支配するのは主であるナナキだ。蝶は追跡用のGPS機能だけでなく、監視機能までついているらしい。
つまり、それはいわゆる覗きではないのか?
実際、おかげで私は危機を脱することはできたが、ナナキの行動は、冷静に考えれば新婚夫婦の寝室に隠しカメラを仕掛けていたようなものだ。
実は一番危ない奴はこいつなのではないだろうか。
今さらながらに私は嫌な予感を覚えた。
「おかげで、真贋の見分けについてはかなり参考になりました。次に人形を作る際は体温にも気をつけないといけませんね」
こんな時でもナナキは何やら学習をしていたらしい。
確かに触ればバレてしまうようでは身代わりの意味がなくなってしまう。
本来、夫である伯爵には隠す必要もないはずだったのだが、こんなふうに密かに入れ替わる場合、接触の機会の多い花嫁はすぐに真贋を見破られてしまう。
見た目や声だけでなく、体温もコピーできるようにしてもらわねば。
「早いところ新しい人形を作ってください。いつまでも他人の体に入っているわけにもいきませんから」
私が出ていけば、アイシアは目を覚ますかもしれない。
このまま夫婦のふりをするのは実に心臓に悪い。そもそも私は経験値がゼロなのだ。すぐにボロが出るし、それ以上にアイシア本人にも悪い。自分の体を他人が勝手に使って、夫婦の仲を深めるなど、気分の良いことではないだろう。
「そうですね。――でもまあ、その必要もなさそうですけど」
私の言葉に、ナナキは短くそれだけ返した。
気づいたら更新が結構止まっていました。すみません。
区切りの良いところまでもう少しなので、そこまでは一気に上げたいと思っています。




