25 夜明け
「無事だったようで何よりです」
洞窟の出口で再会したナナキは、笑顔で私を迎えた。
「いやあの全然無事じゃないんですけど……」
アイシアの体と融合しているこの状態のどこが無事だというのだ、こいつは。
「大丈夫ですよ。アイシア嬢の体はよほど相性がいいのか、しっかり魂が馴染んでいますね。これなら問題ないと思います」
「大問題でしょう! 人の体を乗っ取っちゃってるんですよ!? アイシアさんの魂はどこへ行っちゃったんですか!?」
さっきから心の中でアイシアに呼びかけているが、全く反応がない。まさか私の魂が入ってしまったせいで、アイシアの魂は体の外に弾き出されてしまったのではないだろうか。
最悪の事態を想像していると、ナナキは首を左右に振った。
「消えてはいません。他人の魂が急に入ってきたため、一時的に眠ったような状態になっているだけです。いずれ何かの刺激で目覚めるでしょうから、それまではアイシア嬢のふりをしていてください」
ということは、まだ花嫁の代理を継続しなければならないのか?
「元の人形の体はどうしたんですか? 私が出ていけばアイシアさんの意識が戻ると思うんですけど」
私が入っていた体は盗賊に持ち逃げされてしまった。あれを奪い返せば私の魂はアイシアから出ていけるのではないだろうか。
「ああ、あれは壊れてしまいました」
「はあ!?」
軽い口調で答えるナナキに、私は語気を荒げた。
「そのままだと怪しまれるので、砕いて川に流しておきました」
ナナキの説明によると、盗賊は逃げ出し、魂の抜けた人形はボロボロになってしまったそうだ。そんなものが現場に残っていると、内偵に来ているユーリスたちに余計な詮索をされかねないので、証拠隠滅のために人形を粉砕して川へ投棄したらしい。
完全犯罪の手口かよ。
これが本物の人体だったらとんでもないサイコホラーだ。
「じゃあ、元に戻る体がなくなってるじゃないですか!」
私に詰め寄られても、ナナキは平然とした態度を崩さない。
「もともと君の目的は元の世界に戻ることだったでしょう? その条件として召喚主である僕の命令に従ってもらっていたわけです。今回の依頼達成の条件は『レイオール伯爵夫人の身代わりを務めること』です。期間は『身代わりが必要なくなるまで』、この意味がわかりますか?」
「確か、アイシアさんの実家から資金を借りて財政を立て直すまでは仮面夫婦を演じる予定……でしたよね」
「当初の予定はそうでした。ですが、こうして盗賊が一掃されれば鉱山の採掘も近々再開されるでしょう。そうなれば資金難もじきに解消されるはずです。ただし、もっと早くに『身代わりが必要なくなる』とは思いませんか?」
ナナキの言葉の意味に、私はようやく気づいた。
「確かに……そうですね、伯爵夫妻が仮面夫婦ではなく、本当の夫婦になれば私はもう必要なくなります」
そう、レイオール伯爵とアイシアが互いに愛し合えば、もう身代わりはいらなくなるのだ。そして、すでに二人とも良好な関係を築いているようなので、本当の夫婦になるのも時間の問題だと思う。
「そういうことです。見たところ、それが一番早く達成されそうですね」
ナナキもそれは同意見らしい。財政の立て直しなど、夫婦で仲良く取り組めばよいのだ。
「でも、だったらなおさら私がアイシアさんでないことを説明する必要があるんじゃないですか? このまま伯爵を騙すなんて……」
「その場合、君が元は幽霊だということから説明しなければなりませんよ。契約内容が違うとこじれてしまったら、依頼達成にならないかもしれません。ここは穏便に済ませた方がいいでしょうね」
そうは言ってもお人好しの伯爵を騙すのは気が引ける。もともと非常に騙されやすい人だからこそ、余計に。
溜息をつきながら私が考えあぐねていると、洞窟の出口から複数の足音が響いてきた。
その中でも背の高い人影が、足早に駆け寄ってくる。
「――アイシア!」
息を切らせて駆けてくるのはレイオール伯だった。
そういえば伯爵にとって、アイシアは誘拐されて行方不明という状態のままだったのだ。さらわれた妻を見つけて、彼は私――というよりアイシアの手を握りしめた。
「良かった……無事だったんですね」
安堵の息をつくと、彼はそのまま手を引いて、腕の中にアイシアの小さな体を抱きしめた。
「は……だ、旦那様……」
思わず伯爵と言いかけて、私は呼び方を修正した。ひとまずここはアイシアのふりをしなくてはいけない。アイシアが実際には何と呼んでいるのか知らないが。
そこで私はふと気づいた。
盗賊が逃げる時に連れ去ったのは偽物であると伯爵は知っていたはずではないだろうか? 何しろ目の前でさらわれたのだから。
そして、その盗賊の逃げた先で再会した「アイシア」は、普通なら偽物の方だと判断するのではないか?
周囲にユーリスの部下たちもいるので、伯爵は私が本物でも偽物でも演技をしているのかもしれない。いったいどちらのつもりで接しているのだろうか。
「あの、旦那様……私がどちらか見分けがついていますか?」
周りに聞こえないよう、伯爵の耳元でささやくように問いかけると、彼は私を抱きしめたまま答えた。
「ええ、もちろんですよ」
本当に?
本当だろうな?
答えが曖昧で、結局どちらだと思っているのかわからない。
もう少し尋ねたいところだったが、
「さあ、帰りましょう。私たちの家へ」
満面の笑みでそう言われると、これ以上問いただすことはできなかった。
気づけばいつの間にか夜は明け始めていた。
山の端にかかる朝日がまばゆく差し込み、伯爵の嬉しげな笑顔を赤く染め上げていた。
まるで喜びに頬を紅潮させているかのように。
来た時の馬車で帰るはずだったが、肝心の御者が盗賊の一味で、しかも重傷を負っているので、すんなりと帰路につくわけにもいかなかった。
他にも救出した子供の手当てをしたり、捕えた盗賊たちを移送する準備など、事後処理はなかなかに多い。悪者をやっつければめでたしめでたしというわけにもいかないのだ。
責任者である伯爵があれこれ指示を出して忙しくしている合間に、いつの間にか合流していたユーリスが私の元へやってきた。
「どういうつもりですか?」
もはや執事の仮面を剥いだ彼は、眼鏡の奥の細い目をさらに鋭くさせて尋問する。
「あなたは偽物の方でしょう。この期に及んでまだ身代わりを続けるんですか?」
もともと少なかった遠慮を完全にゼロにして、彼は問いただす。
「あなたにとってもその方が都合がいいんじゃないの? いくら内偵のためとは言っても、狂言で伯爵夫人を誘拐したんだから」
ユーリスは私がアイシアのふりをして伯爵を騙していることを咎めているようだが、自分こそもっと非道なことをしているではないか。お前にだけは言われたくない。
「正体を明かした以上、もう執事は辞めますよ。伯爵に知られたところで何も困りません。それよりも伯爵夫人を詐称する方が問題でしょう」
こいつはもしかして私を罪人としてしょっ引くつもりではないだろうな?
伯爵に内緒でアイシアのふりをするのは、確かに貴族を詐称しているということにもなる。現代日本における詐欺罪とは違って、この封建社会では貴族の名を騙るのはもしかするとかなりの重罪なのかもしれない。
何と答えようかと思考をめぐらせていると、後ろでやり取りを見ていたナナキが私たちの間に割って入った。
「あなたがアイシア嬢を偽装誘拐したのは、伯爵を釘づけにするためだったのでしょう?」
その言葉に、ユーリスは一瞬顔をしかめた。それが肯定と見て、ナナキは続ける。
「もともと伯爵は不在がちでしたから、その間に少しずつ調査はしていたのでしょうが、あまり大々的にはできないでしょうからね。そこでこの機会に夫人を『誘拐』することで伯爵に屋敷を確実に空けさせ、その隙に密貿易の証拠を捜索しようとした――といったところでしょうか」
伯爵は慈悲深く、思い立ったらすぐに行動する人だ。偽物だと知っているのに、私を心配して夜中に馬を飛ばしてきたことからもそれはわかる。だから本物の花嫁がさらわれれば、自ら鉱山に乗り込むことは簡単に予測できただろう。ユーリスはそんな伯爵の性格を利用したのだ。
「領主は王から直々に領内の自治を認められています。あなたがいくら宰相府から内偵に来たと言っても、正式な王命もなしに強制捜査をすれば、下手をすれば罪に問われるのはあなたの方ですよ。実際、伯爵は無実だったのですからね」
この国の内情は知らないが、歴史上、王と宰相は必ずしも一枚岩ではない。もしかしたら伯爵が国王派で、宰相がその力を削ぐためにユーリスを派遣したということも考えられる。そうであれば、伯爵が無実である以上、王が宰相派の出過ぎた行動を不快に思い、ユーリスを罰する可能性だってあるのだ。
「……私を脅すつもりですか?」
ユーリスは低く声を押し出した。これまで場を仕切っていた彼にしてみれば、ここで怪しい術師風情に牽制されるなど不愉快以外の何物でもないだろう。
「まさか、とんでもない。ただ、アイシア嬢が正式に伯爵夫人に戻るには少し時間が必要でしてね。それまでの間、黙っていてほしいだけですよ」
ナナキはぬけぬけとそんなことを言う。誰がどう見ても脅迫していただろう、あんたは。
「このまま私は王都に戻って顛末を報告しなければなりません。あとはあなた方で好きなようになさってください」
ユーリスは忌々しげに吐き捨てると、その場を去った。ここはお互い黙っているということで決着したわけだ。
「さて、そろそろ戻りましょうか。今日のところは僕も同行しますから、心配いりませんよ」
まだ短い付き合いではあるが、私はすでに学んでいる。
ナナキの「心配いらない」を信用してはいけないということを。
せっかく事件が片付いたのに、まだアイシアのふりをするという気の重い仕事が残っていることを思い出し、私は深い溜息をついた。




