09 前夜祭
宮殿の食堂から胃をくすぐるような匂いが漏れてくる。それもそのはず、ここ大食堂では、先遣隊を送り出すための盛大な宴会が執り行われているのだ。贅の限りを尽くした料理の数々は、先遣隊を高揚させるのに充分であった。特にカルメンは、運ばれてくる料理にこれでもかと目を輝かせている。彼女の興奮も無理はない。貧民街出身のこの女にとって、今日は初めての〝ご馳走〟なのだ。
「これは、何……?」そう言ってカルメンが、赤い殻の生き物をつんつんと指で突いた。
「ロブスターだよ。遠くの海でしか獲れない貴重品だ」宴会に同席している国王も、好奇心旺盛なカルメンを見て満足げだ。
「食べていいの?」
「当たり前だろう。食べるために持ってき――」
王がセリフを言い終わる前に、カルメンはもうロブスターにかじりついていた。だが彼女はマナーを知らない。殻ごと食らいついたせいで、ゴリゴリという、ちょっと痛々しい咀嚼音が聞こえてくる。
「スタッカートンさん、ロブスターは殻の中の白い部分を食べるんですよ?」
シスターであるヘレナ・フランセルが、溶けてしまいそうなほどやさしい声で注意する。彼女はその細く美しい華奢な手で、丁寧にロブスターの殻を剥いていた。
「いや、殻も全然いけるよ」もぐもぐと音を立てながら、カルメンがこもった声で言う。
「口に物を入れたまま喋るな、行儀が悪い」メルテンス家の騎士ヘンクが、そう言ってカルメンを注意した。
「貴族は黙ってろよ。食事くらい好き勝手にしたいんだ僕は」早速ヘンクに文句を言われ、カルメンはどうやらご機嫌斜めだ。
やっぱり、ついさっき集まったばかりの先遣隊なので、まだお互いの溝は深いようだ。しかし王はこの愉快なやり取りが大変気に入ってるようで、終始頬を緩めながら、先遣隊のメンバーを嬉しそうに眺めていた。
「さあて、今日は食えるだけ食って英気を養ってくれ、先遣隊の者たちよ!」
「ああ、そうさせてもらうよ国王」
そう言ってロブスターを豪快にくわえたのは、盗賊の長ドレイクだ。なんと、たった一口でもうロブスターを食べ終えてしまっている。だが大食漢の賊長は物足りなかったようだ。彼はさらなる要求を口にした。
「酒はないのか酒は? やってらんねえよ酒がなくちゃ」ドレイクはそう言ってワイングラスを高く持ち上げた。
「ありますよ、ドレイク様。こちらが上物のワインでございます」
ちょうど近くにいた執事が、ボトルのコルクをきゅぽんと抜いて、ワインをグラスに注いでいった。すぐに豊満なぶどうの香りが漂い、鼻から頭に抜けていく。
「なんかすまないな、横柄な態度を取っちゃって。こんなすぐに出てくるとは思わなかったよ」
「いえいえ。私も長いこと執事をやっておりますが、あんなおいしそうにロブスターを頬張る人、初めて目にしましたよ。素晴らしい食べっぷりでした」
「はっは、そうかそうか。まあ食いもんには目がなくてな!」
「ふんっ、その体じゃそうなるだろうな」そう言って賊長ドレイクをあざ笑ったのは、真面目な軍部大臣ダグラスであった。
「おいおい大臣さんよ……そうやって皮肉ばかり言ってないで、もっと宴会を楽しんだらどうだ?」一口ワインを飲み込んで、ドレイクがぼそっと愚痴をこぼす。
「何を言ってる、むしろ私は呑気なお前たちが心配でならない。命を落とす可能性もあるんだ。よくもまあそんなお気楽でいられるな。羨ましいよ」
どこか気難しい大臣ダグラスは、ワインの入ったグラスを指でつまんで、それをふらふらと優雅に揺らした。あたかも熟練のソムリエのように、グラスの縁に鼻を近づけ、その香りをじっくりと味わっているようだ。
「あ、それ僕もやる!」突然叫んだカルメンが、ワイングラスを手に取って大臣の手つきを真似した。どこまでも無垢なこの少女は、まるでいびきでもかくかのようにして、大胆に匂いを嗅いでみせる。
「そんな音立てちゃいけませんよ……こうやって手で仰いで嗅ぐんです、カルメンさん」
彼女の隣に座っているヘレナが、カルメンの手首をそっと掴み、仰ぐ仕草を教えてあげた。この微笑ましい光景がずっと続けば、先遣隊も楽な仕事と言えるだろう。だがしかし、残念ながらそう上手く物事は進まない。
「お楽しみのところ申し訳ないが、アストランへの偵察について、私から説明させてもらうよ」
場を仕切り直すように、大臣ダグラスが手を挙げて先遣隊の注目を引いた。律儀な彼は背筋をピンと伸ばし、一度咳払いをしてから次のように語る。
「我々は、恐らく王都に直進してくるだろう敵兵との衝突を避けるために、迂回してアストランに向かわなければならない。そのため普通なら二週間の旅路も、我々の場合一か月かかってしまう。加えて、道中盗賊や敵兵に出くわす可能性もゼロではない。常に用心が必要だ」
「さすが軍部大臣、よく作戦を練っておる」王陛下がそう言って拍手をした。
「別に大したことはしていませんよ」
「そうやって謙遜するな。君の仕事ぶりには驚かされてばかりだよ」そう言って王は嬉しそうにダグラスを褒め称えた。しかしその後、突然顔を暗くする。「そういえば、話は変わるがダグラスくん。敵が使う新種の魔法とやらの件、知ってるかね?」
「いえ、存じ上げておりませんが……」王の突然の質問に、ダグラスは一瞬目を見開いた。
「おっと、それは意外だね」
王陛下の口調が一気に落ち着きを取り戻す。それまで我が物顔でロブスターを貪り食っていたカルメンも、気を利かせてか咀嚼音を抑えた。
「ねえ王様、魔法なんて神話の作り話じゃないの?」ロブスターを飲み込みながら、カルメンが王に訊いた。「僕だって治癒魔法の存在くらいは知ってるけど、それ以外の魔法があるって話は聞かないよ?」
「ああそうとも、君の言う通りだよ」王陛下はゆっくりと頷いた。「はるか昔に魔法を操った人間たちは、もうこの国にはおらん。治癒魔法だけが現代に受け継がれているのは、ここにいるみんなも周知の事実じゃろう」
「ええもちろん、知っていますとも」大臣ダグラスが相槌を打って王の言葉に応じた。
「しかし、それはあくまで我が国の神話での話だ。外国のことは、私も知らん。もしかしたら外国では、まだ魔法が残っていて、それを戦争に使っておるかもしれん。聞くところによると帝国では、『ジョウキキカン』なんていう、おかしな名前の魔法が発明されたらしい」
「なんだよそのネーミング。センスを疑うぜ」ドレイクがそう言って、残りのワインを一気に口へ含んだ。
「……まあセンスは別としてだな、なんとその魔法を使えば、人の力を使わなくても車輪さえあれば、大量の人間をはるばる何百キロも運べてしまうらしい」
「なにそれ! 僕も乗ってみたいんだけど!」カルメンが無邪気に叫ぶ。
「喜んでいる場合ではない」はしゃぐ彼女に水を差したのは、騎士ヘンク・メルテンスだ。「帝国の魔術は我が国のはるか先を行っている。治癒術師しかいない我が国は、一体どうするべきか……」
さっきまでの雰囲気と打って変わって、鉛が溶けたかのような冷たい沈黙が、宮殿の食堂へなだれ込む。そんな暗い空気を察してか、賊長ドレイクがこう言って先遣隊を励ました。
「みんな元気出せよ。案じてばかりでもいけないさ。どんなに悩んでも、明日に出発するという計画は変わらないんだ。とりあえず希望を持とう。な?」
「我々と違ってお前は本当に楽観的だな……」軍部大臣ダグラスが、そう言ってまたもドレイクに毒づいた。
「お言葉だけど大臣、盗賊なんてお気楽じゃなきゃやってけないんだよ」そう言ってドレイクが口をへの字に曲げる。「こちとら完全歩合制なもんでね」
「そうかそうか。まあ、お前みたいな奴が一人いるだけで、隊の士気も変わってくる。みんなもこの犯罪者の言葉を、野暮にしちゃいけないよ」
「お、たまには良いこと言うんだな」
「だからそういう一言が余計なんだ」
二人の会話はどこかぎこちない。先遣隊の関係も、まだまだ発展途上のようだ。
言わずもがな、どんな旅にも不穏な空気はつきものである。先遣隊の旅路なんて、今はほとんど五里霧中だ。実際、このあと先遣隊を襲ういくつもの悲劇など、彼らは知るよしもない。通称「東の城」と呼ばれるアストランは、遠い遠い道の先だ。普通ならそれなりに心の準備が必要だろう。しかし時間は待ってくれない。出発はいよいよ明日である。