07 宮殿にてお茶会を
宮殿のそばにあるという礼拝堂では、今日もシスターが静かに祈りを捧げていた。今頃外では茶会の真っ最中だと言うのに、ここだけは神聖な静寂が支配している。シスターはひざまずき、手を合わせ、雪解け水の入った聖杯を見つめた。辺りは暗く、明かりと言えばステンドグラスから注ぐ日光だけである。
「シスター、少し用があるのですが」
礼拝堂の扉が開き、軍部大臣がやって来た。彼の名前はハーバーマス・ダグラス――言わずと知れた軍の最高指導者で、王国の実質的な軍の指揮権は、この男が全て握っている。
「どうされましたかダグラスさん」彼女はぽつりと呟いたが、この礼拝堂では彼女の小さな声でさえ、多分に共鳴して大きくなった。
「シスターに頼みごとがあるのです」ダグラスはそう言って彼女に歩み寄った。
「頼み事ですか? 珍しいですね」
それまでダグラスに背中を向けていたシスターは、祈りをやめて踵を返した。これでようやく二人が向かい合う。
「すみませんね、突然お邪魔してしまって」ダグラスは照れ笑いを浮かべて言った。「お話と言うのは先遣隊の件なのですが、シスターはご存知ですか?」
「ええ、もちろんです」そう言ってシスターは頷いた。
「そうですか、それはよかった。なら話が早い」ダグラスはそう言って手をパンと叩いた。「そのですね、シスターには……」
突然、なぜかダグラスが言葉を詰まらせた。どうやら言いにくいことらしい。シスターはそれを不思議に思ったのか、優しくほほ笑んで大臣に言葉をかける。
「ためらわなくてもいいんですよ。あなたのことですから、しっかり考えた上でここに来られたんでしょう?」
「そうですね。ええ、そうですとも」ダグラスはそう言って、自分を納得させるように何度か頷いた。そして途切れ途切れに言葉をつぐみ、シスターにこう語る。「とても言いにくいのですが、その、シスターにも、先遣隊に、参加して欲しいのです」
ダグラスはそう言ってシスターの目を見た。真摯な気持ちが現れた、直線的で強い視線だ。だがその視線以上に、ダグラスの放った言葉の方が、シスターにとっては衝撃的であった。
――先遣隊に参加してほしい――
いくら器の広いシスターであろうとも、この言葉には戸惑いを隠せなかったようだ。彼女は腹のあたりで両手を組んで、ゆっくりとうつむいた。
「突然のお願いで受け止めきれないのは、私も重々承知しております」ダグラスは慎重に言葉を選びながら、必死に彼女を説得した。「しかし、シスターは数少ない治癒術の使い手ですし、先遣隊には必要不可欠だと思うのです」
「ち、治癒術師など、街を探せば私より腕のあるものがたくさんいると思うのですが……」
「それがそうもいかないのです。思ったより茶会にやってくる民が少なく、先遣隊はまだ一人しか集まっておりません」
「一人? 誰ですか?」
「わたくしです」ダグラスが自分の胸に手を当てて言った。
「ダグラス、さんが?」戸惑いを隠せないシスターは、憐れむような視線でダグラスを見つめた。
「ええ。私ハーバーマス・ダグラスは、この度王から直々の命を受け、先遣隊の隊長に任命されました」
「ということは、アストランに行かれるのですか?」
「はい、そういう事になります。その私が、こうしてシスターに直接お願い申し上げているのです」
ダグラスはそう言って頭を下げた。軍人らしい、洗練された素早いお辞儀である。真っすぐな視線の次にこんなお辞儀を見せられては、さすがのシスターだって言葉をつまらせてしまうだろう。だがそれを分かっていても、ダグラスにはシスターの治癒術が必要だったのだ。
「そんなすぐに、決められることでは、ないと思います」シスターは視線をあちこちに動かしながら言った。「ですからとりあえず、大臣は頭をあげて下さい」
彼女は明らかに動揺していた。宮殿で最も修道服が似合う女、なんて言われているが、その優雅な面影はとっくに失われている。修道服の袖をぎゅっと掴みながら、不自然にふらふらと体を動かしているのだ。
「私が責任をもってシスターをお守りいたします。ですのでどうか、どうかご一考のほどを」
「ええ、考えてはみます。ですがあまり、期待はなさらないで下さい」
「そんな、別に怖がる必要はありませんよ。あなた一人で行くわけじゃない。あまり時間はありませんが、じっくりと考えてみて下さい。よい返事をお待ちしております」
そう言ってダグラスはすぐに引き返してしまった。段々大きくなるシスターの不安に反して、大臣の背中は段々と小さくなる。間もなく礼拝堂はシスターただ一人の場所となり、さっきまでの静寂が、今度は苦悶の象徴として辺りを支配した。ステンドグラスから差す光を受け、シスターの影は礼拝堂の床に長く伸びている。
◇◇◇
王の御前は賑やかである。踊り手たちが透けた衣装をまとって優雅に舞う様は、侵略に怯える国とは思えない。豪勢なシャンデリア、金色の骨董品、宮殿所属の器楽隊による演奏。一見贅の限りを尽くした茶会であるが、王だけはなぜか不機嫌だった。これには理由がある。一向に先遣隊を志す人間がやってこないためだ。五人いれば充分だと、ついさっき、食堂での討議で威勢よく表明したものの、現実はそんなに甘くなかった。しまいには堪忍袋の緒が切れて、近くにいた軍部大臣を王権で隊長に任命してしまったのだ。もしこのまま先遣隊が集まらなければ、王の指導力にも疑問が生まれてしまうだろう。王陛下にしてみれば、それだけはどうしても避けたかった。
だがその心配も、とある女の声によってすぐに絶やされる運命である。
「たあのもーす!」
品のある広間に亀裂を入れたのは、甲高い女の声だった。大扉をバンと開け、一人の少女が躊躇なく広間に乗り込んでくる。彼女は王の御前へ一直線、カーペッドの上を泥まみれのブーツで歩きながら、声高らかにこう言った。
「カルメン・スタッカートン、今ここに参上申す!」
「誰だ無礼者!」王の側近が声を上げる。
「無礼者とは失礼な! 先遣隊を募ってるのはお前らだろう? 来てやったんだから感謝しろ!」
彼女はそう言って短剣を天高く掲げた。その先端がシャンデリアの明かりでギラっと光る。それまで不機嫌だった王は、驚いて椅子から腰を上げ、殺気立つ女にこう言った。
「やっと来たぞ! やはり私の考えは間違ってなどいなかった。さあ家名を言ってみよ、勇敢な女!」
「家名? 馬鹿言え、僕は貧民街の出身だ。そんな大層なもん持ってないさ」
彼女の発言を受け、周囲にどよめきが起こる。その場にいた王の側近が、衛兵に命令を下した。
「下賤者を捕らえろ! 貧民街の女など王の御前にふさわしくない!」
側近の命令を受け、周囲にいた衛兵が剣を構えた。全部で五名、全員剣で火を灯せるだけの実力者だ。しかし恐れる必要はない。カルメン・スタッカートン――貧民街最強の剣術使いである。宮廷の騎士など足元にも及ばない。さあやってしまえ孤高の剣士よ、奴らに強さというものを見せてやるのだ!
女はすぐに動き出した。短剣一本、装備なし。だがこの女、一人で賊を抹殺した恐るべき剣の使い手。まず一人目、胸を一刺し。二人目、バク宙がてら股間を一蹴り。着地と同時に三人目を踏み、その場で旋回して四人目を斬る――さあ、残るはあと一人だ。周りで湧き起こる悲鳴の中、スタッカートンはにやりと笑う。
「僕がこいつに勝ったら、先遣隊に入ってもいいよね、王様さん?」
一体誰がこの女を止められよう! 残された一人の騎士が、後退しながら剣を構えた。その表情には恐怖が浮かび、剣を持つ手は震えている。
「貴族を斬るのは気持ちがいいねっ!」
女が走り出す。二人はすぐ相まみえた。女の錆びた短剣と、男の砥がれたサーベルが、ぶつかってカンッと鳴る。女の動きは凄まじい。吸うように腕を引き、吐くように剣を振るのだ。男は防戦一方、すぐ壁に追い詰められ、息もつかぬあいだに短剣が首に触れた。その時男が感じたのは、錆びた剣の冷たくてザラザラした感触と、冷や汗の生ぬるい温度だけである。
「お前だけは殺さないでやるよ」
女剣士が耳元で囁いた。過呼吸になって壁にもたれていた衛兵は、呆気に取られて地面に腰を落とす。
「王様、答えを教えてくれよ。僕は先遣隊に入って良いのかい?」女が大声で問う。王は震えた声でそれに応じた。
「あ、ああ、もちろんだとも!」
こうして最後、豪勢な広間に残ったのは、倒れた五人の男と人々の戦慄、そして女の高らかな笑い声だけである。