54 全軍突撃
戦いの準備は着々と進められていた。まず、城は敵を迎え撃つ最後の拠点として、大量の武具、食料、人員が搬入された。さらに六階のバルコニーが演奏場に改められ、数十脚の椅子が綺麗に並べられた。また、城の八階には槍砲が準備され、竜に突き刺さるその瞬間を、今か今かと待っている。
城の最上階、巨大な鐘がある見張り台では、ダグラスが遠くを見て敵兵の到来を監視していた。今のところ地平線に異常は見られない。ダグラスの役目は、敵があの地平線を越えてきたときに、号令としてこの鐘を鳴らすことである。そのためにダグラスは、朝からずっと見張り台にこもって、地平線の遠くをずっと眺めていた。
器楽隊はバルコニーの椅子に黙って座っていた。隊員たちは各々楽器を握り、皆緊張の面持ちを浮かべている。サリーはそんな彼らの先頭に立って、器楽隊の指揮棒を固く握っていた。以前はチェロを奏でていた彼女も、隊長になってからは長らく指揮者である。もちろん最初は慣れなかった。だが今では、指揮者としての貫禄の方がむしろ様になっている。
「みなさん」木箱の上に立って、サリーは器楽隊の面々に声をかけた。「我々は長らく王国文化の象徴でした。その音色は宮廷を包み込み、様々な舞台に華々しい演奏を添え、人々に安寧をもたらしてきました。しかし今日、我々に課された使命は、そんな生半可なものではありません。そう、王国を救う事であります。かつてない大命と言ってもよいでしょう。その完遂のため、我々は決して臆することなく、どんな戦禍が眼前に広がろうとも、その音を止めてはなりません」
サリーの言葉に、器楽隊の面々は黙って頷いた。午後二時、真っすぐ日が差すバルコニーは、普段なら暖かい休息の場所である。しかし今日だけはまるっきり様子が違う。正面に見えるパルメアの大地、そしてポルモートの守衛所は、戦乱を前に騎士たちで溢れかえっているのだ。戦いの予感はすでに街中を包み込み、不気味な静寂がポルモートを支配していた。
「上手く出来るでしょうか……」
不安を隠せないヒレン・スタッカートンは、椅子に座りながら隣にいる器楽隊員に訊いた。
「大丈夫ですよ。今までたくさん練習してきたでしょう?」
オーボエを握るヒレンの友人は、そう言って彼女を励ました。しかしヒレンはいまだぎこちない様子で、そわそわと椅子に座り直している。
「心配なんです。もうこれ以上、娘に迷惑をかけられないと思うと……」そう言ってヒレンは口ごもった。
「そんなことばかり考えていると、演奏の方がおろそかになってしまいますよ?」
「じゃあ私にどうしろと? 娘の事を忘れて楽器を吹けと?」
「そんなことは言ってませんよ。一度落ち着いて。ほら、深呼吸ですよ。大きく深呼吸をしてください」
友人にせかされて、うつむいたヒレンが大きく息を吸う。しかし緊張の表れか、彼女の吐息はぶるぶると震えていた。今頃になって急に、フルートが固くゴツゴツした異物のように感じられてくる。
「自分の娘が戦っているところなんて、見たくないんです」
それはヒレンの本音であった。そう、母親としての隠せない慈愛なのだ。自分の娘が竜に立ち向かい、命を削って身を傷つけるところなど、一体どこの誰が見たがるだろうか。しかしこれもまた宿命。今のヒレンに出来ることは、ひたすら笛を吹き、その音色で娘を後押しすることなのだ。
「ねえ」隣に座る友人は、そう言ってヒレンの膝に手を置いた。「今まで一緒に練習してきたでしょう? そのことを忘れちゃいけないわ。私たちだって、みんな恐怖を抱えながら今ここにいるのよ? 怖がっているのはあなただけじゃない。もちろん、あなたの置かれた状況はとても苦しいものだろうけど、一緒に頑張りましょう? 私たちに出来ることは、笛を鳴らすことだけなんだから」
友人はそう言って笑みを見せると、「頑張りましょう」と小声で言った。友人の言葉に励まされ、ヒレンの緊張も段々とほぐれてくる。フルートを握る手は未だ汗ばんでいるが、開いた瞳孔は決意の表れなのだ。ヒレン・スタッカートンは唾をのみ込み、自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
◇◇◇
城の最上階、大地を俯瞰する見張り台では、ダグラスが地平線の先をずっと睨んでいた。雲の影が大地を這い、降り注ぐ陽光に城の影が伸びる。草原と青空を分かつ地平線は、わずかに丸みを帯びて遠くの方に寝そべっていた。風が吹く度に髪がなびき、涼感が肌を伝う。
「なあダグラス、まだ敵影は見当たらないのか?」
声の主はドレイクであった。彼は階段を使ってここに来たらしく、ハアハアと苦しそうに息を切らしている。
「この絶景がずっと続けばいいんだがな」そう言ってダグラスは腕を組んだ。
「あんたの言う通りだよ。しっかし綺麗だな。一度叫んでみたいねえ」両手を広げたドレイクが、全身に風を感じながら呟く。
「馬鹿はよせ。すぐに竜があの地平線を越えてくるさ」
「ふうん、あんたはいつも真面目だなあ」
弾むように笑ったドレイクは、そう言ってダグラスの右肩に手を置いた。二人は並んでパルメアの大地を眺め、そのまましばらく黙り込む。この絶景を目にすれば、誰だって大自然に浸りたくなるものだ。
「なあ大臣さん」突然ドレイクが口を開いた。「お前が居なくなったら俺が先遣隊の隊長になるって件、あれから色々と考えてみたんだ」
意味深なドレイクの言葉を聞いて、ダグラスが不思議そうに首を傾げた。
「ついにお前も気が変わったのか?」そう言ってダグラスがドレイクと目を合わせる。
「うーん、気が変わったと言うより、ヘンクとカルメンが頭によぎったんだ。カルメンはまだまだ子供だし、ヘンクはまあ、色々と気難しいだろ? もちろん二人とも最高の仲間だぜ? でもまあ、やっぱり俺が最年長だし、責任取んなきゃいけないのかなって」
「いい心がけだと思うよ。しかしね、たぶんお前が隊長になることはない。なぜなら私は竜を倒すまで死なないからね」
「ほう?」
「少なくとも今日、私は必ずパルメア王国を勝利させる。それまでは何があってもこの心臓は止められん」
「分かったよ。その覚悟、俺も受け止めておく」
ドレイクはそう言ってダグラスの背中を叩くと、そのまま階段を下りて配置場所に戻っていった。
そこから十分、ダグラスはパルメアの大地を眺めて緊張を落ち着かせた。真下のバルコニーには槍砲が整備され、さらにその下のバルコニーでは、器楽隊が楽器を握って整列している。地上にある守衛所では、メリッサ率いる騎士団の男たちが、馬にまたがって鐘の音を待っていた。
いきなりの突風――それは戦乱の前兆である。突如吹いたその風は、城の頂上に立つ旗をパタパタと揺らした。バルコニーにも風が吹き、器楽隊員の髪が横になびく。騎士団が乗る馬のしっぽも、風に吹かれてわずかに揺れた。
「嫌な風だな」馬に乗ったメリッサが、髪留めをしながらそう呟く。
ぽちゃ、ぽちゃ。地面の水たまりにリズムよく波が出来た。しばらくして、ドン、ドン、という低い音が、大地をかすかに揺らしていく。まるで世界全体が太鼓の上に乗っかっているかのようだ。その低く鈍い音は、じっくりじっくり大きさを増す。揺れも徐々に強くなり、馬に乗るメリッサは違和感を覚えた。
「来たか……」
メリッサが呟く。またも不気味な風。冷や汗が首を垂れる。揺れはさらに強くなり、城にもその震えが伝わった。バルコニーに座るヒレンが、揺れを感じてぎゅっとフルートを握る。木箱に立つサリーもまた、同様に揺れを感じて後ろを振り向いた。二人の視線の先には、美しいパルメアの大地がある。何の変哲もない、色鮮やかな緑の大地が……
突然、地平線が火を吹いた。見張り台に立つダグラスには、その火炎がまるで大地の噴火のように見えた。次の瞬間、竜が地平線から姿を現し、同時に大量の帝国兵が大地を越えてくる。ダグラスは近くにぶら下がっていた綱を握ると、それを目一杯引っ張った。すると鐘が左右に揺れ、その音色がポルモートに緊張をもたらす。
「用意はいいか野郎ども!」守衛所の前にいるメリッサが、馬に乗りながら怒号を上げた。「失敗は許されない! 我らは歴史あるポルモート騎士団! 必ずや帝国を打ちのめし、我らの街を意地でも死守する! お前ら覚悟はいいか! 剣を持て! 手綱を引け! 勝利のために叫べ!」
腹の底から出た声で、メリッサが団員たちに呼びかけた。間もなく街の正門が開き、殺気立ったポルモートの騎士たちが姿を現す。その先頭にいるメリッサ・へオンは、大剣を空に掲げると、にやりと笑って手綱を引いた。
「全軍、突撃せよ!」
彼女の掛け声とともに、騎士団が大声を上げて草原へと飛び出していく。馬の足音がすぐに大地を埋め尽くし、大軍は地平線へと駆けて行った。対するは竜を率いた帝国軍。いよいよ舞台は整った。いくつもの思いが交差して、戦いは今熱気を帯びる。さあ臆するな、勝利を信じて突き進め! ポルモートは最後の希望、決して諦めてはならぬ。




