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東の城が落ちた  作者: 中山ヨウスケ
 第三部  竜のための協奏曲
51/64

51  母親であるということ

 ――まずは私が無責任な母親だったことを、あなたに謝らないといけないわね。あなたを生んだのは、確か二十三のときだったかしら。少し遅い出産よね……でも私はそんなこと負い目に思っていないわ。痛みの中であなたの産声を聞いた時、ちゃんと母性というものを感じたの。心臓に陽光が宿るような、ほのかで、でもはっきりとした暖かさを。


 夫はスタッカートン家の復権に必死だった。もちろん普通なら、代々器楽隊を務めている家系なんだから、宮廷での立場なんてほとんど保証されているようなものなのよ。でも私たちの代は違った。面倒な政略闘争があったの。特にひどかったのは、夫が祖父の隠し子だという根拠もない噂が広まったことね……もちろんそれは作り話よ? けれどその噂があまりにも浸透するものだから、知らぬ間に真実へと変わってしまったの。私は未だに、一体誰がそんな噂を流したのか分からないでいるわ。あまり政治には詳しくないし、夫と彼の父とが、一体どういう関係だったのかを、私はほとんど知らなかったから。


 でも、そんなこと何の言い訳にもならないわよね……あなたが居なくなった日のことを話しましょうか。ごめんなさいね、とても辛い話になってしまうけど、これは伝えないといけない事なの。そうしないと、私は罪に溺れたままあなたと接せねばいけないから。どうか許してほしいわ。


 ……隠し子の噂が広まってしばらく、夫は毎日のように家で頭を抱えていた。私はそれを傍で見ていて、でも何もしてあげられなかった。人によっては、夫を「スタッカートン家の恥」とまで言って、屋敷に心無い手紙まで送って来たのよ? 私はもちろん、「読まなくていいのよ」と言ったわ。でも夫は言うことを聞かなかった。やって来る手紙に律儀な返答まで書いて、自分が正当な後継者だと、証拠も示せないのに意地で言い張ったのよ。当然周りの反応は良くなかった。しまいにはいたずらなのか、屋敷に七面鳥の骨が投げ込まれたわ。それである晩、夫は私に気づかれないためか、夜中にこっそりと庭に出て、その骨を土に埋めていた。でも私はちゃんと見ていたの。庭に散った骨を、夫が悲しそうに拾って、そのままじっとうずくまるのを。窓から見えた彼は、そのまま夜に溶けてしまうんじゃないかってくらい、存在感が薄かったわ。


 それから数か月後、鬱になって白髪が目立つようになった夫が、私を書斎に呼び出した。今でも鮮明に思い出せる。夜のことだったわ。夫は机で物書きをしていて、でも私が部屋に来ると、すぐにペンを止めた。そして顔を上げて、私にこう言ったの。


「大事な話がある」


 夫の顔は真剣そのものだった。でもそのあと、書斎に灯るロウソクがかすかに揺れて、夫の顔も不気味に揺れ動いたの。私はその揺らぎを見て、これはきっと、彼の煮え切れない感情を暗に示しているんだわって、そう思った。だから私は訊いたわ。「言いにくい話なんでしょ」って。


「そうだとも、やはりヒレンには全て見透かされているね」


 夫はそう言って笑った。けれども愛想笑いだとすぐに分かった。夫には癖があるのよ。愛想笑いの時、顔をそっと傾ける癖が。だから私には、その笑顔が彼の気遣いだと完全に分かっていたの。


 夫はその後、私に他愛もない話をした。最近の仕事のこと、王都での舞踏会のこと、愛する子供たちのこと……でもその最後に彼は、風を受けたロウソクみたいに、ぱっと笑顔を消して、うつむきながらこう呟いたの。


「私は最近、自分が父上の息子ではないという気がしてきたよ。周りには恥さらしと罵られ、宮殿からの税収拠出もなくなって、もうスタッカートン家は完全に威信を失ってしまった。私はどうすればいい? 何をすればいい? 教えてくれないかヒレン。私にはお前しか頼れる人間がいない」


 夫は悲しそうに言った。きっと私に答えを求めていたんだと思う。でも私は何も言えなかった。不自然に身じろぎながら、黙っていることしか出来なかったの。


「悪いね、こんなこと訊いて」


 夫はそう言って立ち上がった。どうやら私を困らせたことに責任を感じているみたいだった。そのための償いか、彼は私の目の前にやって来て、その冷たい手を私の両肩に置いた。まるで冬の庭に放置した鉄のように、固くて冷たい手のひらだった。私はその温度を感じて、ああ夫は悲しんでいるんだなって、身に染みて感じたわ。


「悩んでいることがあったら言っていいのよ?」私はそう言って夫を見上げた。


「なら私の話を聞いてくれ」夫はなぜか微笑みながら言った。「最近よく考えるのさ。このまま私が一家の威信を損なって、子供たちに迷惑をかける事になれば、私は一体どうやってカルメンとパルトに詫びればいいのかと。答えが分からないんだ。まるで料理をする時の君みたいだよ。なんの具材を使うのか分からなくって、慌てて――」


「あなた」私は夫の言葉を遮って言った。「私のことなんかどうでもいいのよ。子供たちが第一だわ。例えスタッカートン家がどうなろうとも、子供たちだけは絶対に傷つけてはいけないの。あなたにだってそれは分かるでしょう? 家柄なんて気にしてないわ。そもそもあなたの妻でなければ、私は単なる服屋の娘だったのよ?」


 夫がどういうことで苦しみ、その苦しみはどうすれば癒えるのか、私には一切見当がつかなかった。けれど諦める事も出来なかった。私には、身を呈して子供を身籠った女として、それ相応の覚悟があったの。だから夫を見捨てはしなかった。必死に慰めの言葉をかけた。でも結局、彼は笑ってくれなかった。むしろ余計に悲しみを深めて、その晩は一睡もせずに、私の横でずっと窓の月を眺めていたの……


 次の日が全ての始まりだった。夫はその日、眠気をこらえて朝から書斎で仕事をしていた。でも途中で集中力が切れたのか、彼は庭に出て散歩をした。私はその時、ちょうど庭で草木の手入れをしていたから、休憩する夫を遠目から眺めることが出来た。でも思いのほか見ていて楽しい光景ではなかったわ。彼はずっと背中を曲げて、地面を見ながら寂しそうに歩いていたの。


 あまり思い出したくないのだけれど、夫は庭で矢に撃たれたわ。あまりにも突然で、私は倒れた夫に駆けつけようかと思った。けれど自分も撃たれる気がして、やっぱりためらってしまった。だから黙って見ていたの。自分の夫が苦しみ悶える姿を、黙って見ていたの……今思えば、私は彼を助けに駆けつけるべきだったわ。でも当時の私には勇気がなかった。そのための勇気が欠けていた。だから見ていることしか出来なかった。私は弱い女なのよ。


 しばらくして、私は子供たちをこの屋敷に留めてはおけないと思った。このままではきっと、私も私の子供たちも、何者かに命を狙われてしまう。私はあなたたちを守らないといけない気がして、屋敷を出る準備を始めた。袋にありったけの食べ者と洋服、お金を詰めて、あなたとパルトにも同じ事をするように言った。もちろんあなたは不思議がったわ。「どうしてそんなことするの?」って、無垢な顔で聞いたの。でも私はあの時、「旅行に行くのよ」としか答えられなかった。ごめんなさいね。正直言うと、慌てるあまりに冷静な判断が出来なかったのよ。そりゃ、今であれば、他に手段があったんじゃないかって思えるわよ? でも当時は、そんなこと考えてる余裕なんてこれっぽっちもなかった。幸い女中はみんな解雇されていたし、屋敷を出るなら早い方がいいと思ったのよ。何もせず屋敷に残って、訳も分からず殺されるよりかは、絶対にマシなんじゃないかと思ったわ。当時の私は心配性だったのよ。


 私はあなたとパルトを連れて屋敷を出た。そしていくつかの家を回って、泊めてくれないかと頼み込んだ。でもどの家もダメだった。みんな、私がヒレン・スタッカートンだと名乗った瞬間に、手のひらを返して私たちを追い払ったの。だから泊めてもらうのは諦めたわ。その日は仕方なく貧民街で野宿をしたの。頑張って火を焚いて、街のはずれに三人で集まって、持ってきたチーズをちょっとずつ食べたわよね。でもその暮らしだって、長くはもたなかった。一週間たって、いよいよ食糧が尽きた私たちは、希望を込めて屋敷に戻った。でもその希望はすぐに散った。屋敷は知らない男たちに占拠されていて、中では何やら会議が行われているみたいだった。だから私は屋敷に戻るのを諦めて、再び貧民街に戻っていった。


 でも現実は残酷ね。その日は貧民街さえ優しくなかったわ。夜、私たち三人は街のはずれで暖も取れずに、きつく身を寄せ合っていた。隣に住んでいた人が炎の音に文句を言ったから、火を焚くことが出来なかったの。当時はもう十一月で、風を遮る建物がない貧民街は、身に染みるほど寒かったわ。私たちは袋に入れてきた薄い布にくるまって、そのまま暗い夜を過ごした。けれども誰かが突然話しかけてきて、私たちにこう言った。


「見ない顔だな、どこのもんだ」


 何も知らない私は、男に本名を教えてしまった。「ヒレン・スタッカートンです」と、何も考えずに答えてしまったの。後悔してもし切れないわね。男の表情はすぐに豹変したわ。彼は屈んで私の頭に手を置くと、そのまま「貴族なんて珍しいな」と呟いた。


「やめてくださいっ」


 私は訴えるように言った。でも男は言うことを聞かなかった。余っている左手にナイフをちらつかせて、顔に吐息がかかるくらいの距離で、「言う事を聞け」と脅した。そしてこうも言った。


「持ってる物品全部持ってこい。暖かい場所に連れて行ってやる」


 私は男の言葉で察しがついた。このままどこかに連れて行かれて、きっとこの男に襲われるのだろう、と。私はどうするべきか悩んだ。でも運命は待ってくれなかった。悩み切る前に男が私を立ち上がらせて、そのままこう吐き捨てたの。


「ガキは置いてけ。抱けないからな」


 男はそう言って私の手を握り、そのままぐいと引っ張った。私はとっさにあなたの顔が見たくなって、一瞬のうちに後ろを振り返った。今でも覚えてるわ。地面に四肢をついて、悲哀にまみれた表情でこちらを見る、あなたの夜闇に濡れた顔を。私はあなたを守れなかった。助けられなかった。むしろ私があなたを苦しめた。今でも昨日の事のように悔やんでいるわ。あの時夫に駆け寄っていれば、おとなしく屋敷にこもっていれば、貧民街なんかに行かなければ、男に名前なんて明かしていなければ、体を売ってでも稼いでいれば……


 その日、男に連れて行かれた晩を、私は必死で耐えた。どんな屈辱にも文句ひとつ言わなかった。そして三日くらい経って、私はようやく男たちから解放された。私は必死に走って、あなたたちを置いて来た貧民街のはずれに向かった。綺麗事なんて無しに、泣きながら走ったわ。お願いします神様、どうか娘を、息子を、どこにも連れて行かないで下さいって、そう祈っていたわ。けれども現実は違った。元居た場所に、あなたたちはいなかったの。


 私は吹っ切れてしまった。器楽隊の練習に戻って、ヒレン・スタッカートンとして第二の人生を始めればいいんだって、そう思ってしまった。もちろん、あなたたちを失ったのはとても苦しい事なのよ? 苦しいし辛いし認めがたい事だったのよ? でもね、もうきっと二人は私の手の届く場所には居ないし、だったら一旦忘れた方が楽になれるんじゃないかって、そう思ったの。申し訳ないわね。でもそれが真実なのよ。私はそれ以降、平然と器楽隊の練習に参加して、適当な職を見つけて、適当に生きたわ。でもこれだけは言わせて。常にあなたのことは脳裏にあったの。それだけは信じて欲しいわ。私は腐っても、あなたの母親だったんだから――


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[良い点] この小説の面白みの一つは、登場人物に弱いところがあることだと勝手に感じてます。お父さんを見捨て、カルメンたちを失ってしまったお母さん。後悔だらけの生き方に、不思議と共感できます…… [気に…
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