50 愛は忘却を超えて
器楽隊が先遣隊と広間で謁見している最中、カルメン・スタッカートンにはとても気がかりなことがあった。自分の目の前にいる三十人の集団の中に、自分の母親がいるのではないか、と思ったのだ。実際、彼女がサリーとひと悶着をしたとき、カルメンは母親の存在ばかりを考えていた。自分の名前を言えば、器楽隊にいる母が僕に気づいてくれるかもしれない。彼女はそんな淡い期待を抱き、器楽隊の前にやって来たのである。そしてその期待は、決して間違ってなどいなかった。
謁見が終了し、器楽隊が広間を出ようとした時である。器楽隊の中から一人の女性が、何やら気まずそうに声を上げた。
「あの、サリーさん」
緊張が感じられる女性の声に、器楽隊隊長は立ち止まって応じた。
「誰です? 今私を呼んだのは」
「わ、私です、ヒレンです」
声の主は、フルートを担当している四十二歳の器楽隊員だった。彼女はひらひらとしたドレスを身に纏って、そのまま隊の先頭へ駆け出てくる。
「一体どうし――」
「あなたは、カルメンって言うの?」
彼女はサリーの言葉を遮ってそう言った。その表情は、四十の女には似合わぬ動揺と好奇心が混在した顔である。見開いた目は、カルメンを腫れ物にでも触るかのように見つめ、口は漏れてくる愛情を飲み込んで堪えるかのように、ぐっとつぐまれていた。
女性がカルメンに近づいていく。その足取りはとても早く、まるでカルメンに迫るかのようだった。だがいざカルメンを正面にすると、さすがの彼女も緊張で体を硬直させる。
「カルメン・スタッカートンって言うの?」
彼女は膝を曲げ、カルメンと目線の高さを合わせた。そして先遣隊剣士の目をじっと見つめ、涙と笑みの間をさまようかのような表情を浮かべる。
「母さん?」
カルメンは震えた声で訊いた。いや、「訊く」という表現はふさわしくないだろう。彼女の言う「母さん?」は、一種の確認であった。目の前にいるこの女性――記憶に残る母の輪郭をかすかに留めている、この美しい女性――が、本当に自分の母親であるのか、すぐには信じられなかったのだ。
しかし、その不信感もすぐに消え去った。女性がカルメンに抱きついたのだ。そう、カルメンにとっては記憶の彼方にいる女性だとしても、母親の方からしてみれば、一度腹に宿した愛娘である。
「すみません……本当に……」
女性はなぜか敬語で謝った。どこかに壁を感じさせる言葉遣いである。しかし抱擁だけは例外的に、この愛娘をぎゅっと抱きしめていた。一方カルメンは困惑している。震えた視線で女性と目を合わせ、次の瞬間には広間のどこかに答えでも飾られているのか、逃げ惑うように辺りを見回した。そうして最後、また視線を下に戻すと、この母親の潤んだ目に、早々と言葉を奪われるのだ。
「ヒレン」
そう言って母親を呼んだのは、器楽隊隊長のサリーであった。彼女は慎重に言葉を選びながら、悲痛に泣くフルート担当にそっと声をかけた。
「あなたの娘なのですね?」
「ええ……」女性は立ち上がり、体をサリーに向けてから答えた。
「そうですか……先ほどは蔑むような事を言ってしまい、申し訳ありません」
「いいえ、全て私が招いたことです。若い頃の責任意識が、ひどく希薄だったために……」
「大丈夫ですよ。むしろ私がもう少し気を遣うべきでした」そう言ってサリーは一度頭を下げた。そしてこうも言った。「もし必要なら、あなたは一度、その子とお話をしたらどうです?」
「はい、お願いします」女性は体を前に乗り出して即答した。
「分かりました。ではハーバーマス様、ヒレンとその子を、どうか二人きりにさせてあげてください」
「分かった。ではヒレンと言ったね、君はカルメンと城の書斎に行きなさい」
「はい、お気遣い感謝いたします……えっとでも、その、書斎というのは……」
「カルメン、君が案内してやれ」
「え? あっ、うん……」
カルメンの返事にはいくばくかの躊躇が感じられた。自分の母親を前にして、己の心臓を握られているかのような、強いもどかしさを感じたのだ。しかし今は、自分でこの事態に整理をつけるしかない。カルメンは唾を呑んで心を落ち着かせると、そのまま母親を書斎へと引き連れていった。
◇◇◇
昼前の書斎は暗かった。どうやら太陽が雲隠れしているようだ。部屋には相変わらず古書の匂いが漂っていて、静けさが二者間の壁をはっきりと浮き彫りにしている。カルメンとその母親は、向き合うようにして椅子に座った。しばらくはお互い何も喋らない。親子とは思えぬ慎重な腹の探り合いを続けている。それでも途中、ヒレン・スタッカートンは意を決して何かを言おうとした。しかしカルメンのうつむく姿を見て、その決意もすぐに消えてしまう。
「ねえ」長い沈黙のあと、カルメンが小声で呟いた。「……覚えてるの? 僕のこと」
カルメンの問いに、ヒレンはしばし黙り込んだ。もちろんカルメンのことは覚えている。なんてったって自分の娘だ。その愛おしい顔も、耳をくすぐるような甲高い声も、全て脳裏に刻み込まれている。だが全てが記憶と同じわけではない。人称は「僕」に変わり、性格はどこかツンとしている。自分の懐に居た頃のおとなしい口調は、もうその面影を残していないのだ。
「変わったのね」ヒレンは静かに言った。「昔とは大違いよ」
彼女の言葉遣いは、まるで単語の一つ一つを丁寧に噛み締めているみたいだった。愛娘の成長を前に、彼女は何とも言えぬ感慨に浸っているのだ。だがその感動も長くは続かない。すぐにヒレンはうつむいて、そのあと細々とした口調でこう言った。
「ねえ、あの日のこと……あなたが家を出ていった日のこと……」
そう言ってヒレンは、自分がカルメンを失った日のことを語った。それは遡ること数年前、不変に思えた日常を裂いた、彼女の人生で最も罪深い一日である。




