44 先遣隊よ進め
惨状の知らせが指令所に来た時、ダグラスは机に広げられた地図の前で、一人座って頭を抱えていた。遠くから聞こえる剣の音で、なんとなく自軍が劣勢であることは察していたし、もう勝利の希望は絶えているのだと理解もしていた。だがそれでも、劣勢の知らせをちゃんとその耳で聞くまでは、そんな想像受け入れるわけにはいかなかった。どこかにまだ、望みの欠片があるのではと、心の奥底で信じていたのだ。しかし現実は酷である。そんな希望もすぐに打ち砕かれてしまうのだから。
「敵兵がすぐそこまで来ている」
メリッサが指令所の扉を静かに開け、首を横に振りながらそう言った。彼女の大剣を垂れる赤い鮮血は、ダグラスを青ざめさせるのに充分だった。
「そうか……」ダグラスはため息をつき、そのあと両手で顔を覆った。
「ルッセルフはもうじき敵の手に落ちます。逃げた方がいいかと」
「分かってるさ……」
ダグラスがそう言ってメリッサを見上げる。彼には理解ができなかった。なぜこの女は正気を保っていられるのだ? なぜそんなに真っすぐ立っていられるのだ? ダグラスの疑問は、どこか怒りに似た感情だった。こいつは、この馬鹿みたいに冷静な女は、果たして私の葛藤を理解しているのか? ダグラスは唇を噛んだ。そしてこうも思った。このまま感情をぶちまけてしまいたい、と。だが彼は軍部大臣である。上司として、理性を捨てるわけにはいかない。彼は沸き起こる感情を抑え、しかし震えた唇からはその片鱗を覗かせて、静かにこう言った。
「さっき王陛下から伝書が来た。ポルモートまで後退しろと。そしてポルモートに王国の全兵力を結集させ、帝国軍を討つ、と」
「ではやはり撤退するんですね」
メリッサはまたも冷静に答えた。しかしダグラスにとっては、その冷静な口調がどこかぶっきらぼうに聞こえてならなかった。
「ああそうさ……全く。まただよ。また負けたよ。ロイドの死にさえ報うことが出来なかった」
ダグラスはそう言って、机にどんと拳を振り下ろした。顔には悔しさが滲み、噛んだ唇からは血が出ている。机の上のカップが倒れ、地図が水に濡れた。
「撤退をするならなるべく早くお願いします。無駄に部下を死なせたくないので」
「いいさ、好きにしろ。撤退すればいいんだろう? だったらそうしてくれ」
「……どうしてそんなに投げやりなのですか?」
「簡単だよ。意気消沈してるのさ。正気を失ってるんだ」
「……本当に正気を失っている人間は、自分が正気を失っているなんて言わないと思うのですが」
「またお得意の冗談かい?」
「いいえ、違います。私は至極真面目に言っています。ダグラス様は正気を失ってなどいない。だから元気を出してください。ポルモートに行けばたくさんの騎士たちが居ます。彼らが必ず力になってくれるでしょう」
「希望は捨てるなと、そう言いたいのか?」
「ええ、その通りです」
「……分かったよ。馬車を手配してくれ。生き残っている人間をポルモートに運ぶ」
「承知いたしました。素早いご決断に感謝申し上げます」
メリッサはそう言って素早く一礼し、そのまま指令所を出た。
一人になってようやく、ダグラスは自らの過ちを悟った。今は彼女の言っていることが正しい。感情的になるのは間違いなのだ。グラスはそう思い、深く自省した。だが彼も人間だ。怒りを覚えれば頭に血が上るし、大切な人間を失えば涙が出る。彼はずっとそれをこらえてきた。隊長として、大臣として、人の上に立つものとして、弱いところを見せるわけにはいかなかった。だから涙をこらえる必要があった。だがその我慢ももう限界である。先遣隊隊長、ハーバーマス・ダグラスは、馬車が来るまでの数分間、指令所の中で静かに涙を流した。
◇◇◇
昼前、最初千人弱いた避難民も、ルッセルフを出るころには百人ほどに減っていた。森を走る馬車は悲しみの巣窟と化し、ポルモートまでの六日間の旅路は、皆が想像していたより何倍も辛いものとなった。そしてそれは、先遣隊にも言えることである。ルッセルフを出発してすぐ、同じ馬車の荷台に乗っていた四人は、ヘレナ・フランセルの死の知らせを受けて、全員一気に憔悴した。
「死ぬのを見たのか?」
ドレイクがカルメンに訊くと、全身傷だらけの彼女は、黙って小さく頷いた。しばらくは誰も何も喋ることが出来ず、先遣隊を乗せた馬車は、悲しみの運び屋と言った方が適切であった。
「こうやって希望は絶えて行くんだ。順番に順番に、我々が悲しみ切るのも待たずに……」
ダグラスが小声で呟いた。その響きはまるで、ダグラスの体に残っていた生気が、言葉と共に抜けていくかのようだ。
「変な事を言うなよダグラス。俺たちはまだ戦えるだろ?」ドレイクがそう言って彼を慰める。
「お前もそんなことを思うのか?」ダグラスはそう言って顔に悲哀を滲ませた。
「どうしてそんな事訊く?」
「そんなこと言われても……私には分からないんだ。戦えるのか、戦えないのか……」
「お前、なんかおかしいぞ。大丈夫か? いつものダグラスはもっとこう……シャキッとしてるのに」
ドレイクはそう言って小さく笑ったが、落ち込んだ軍部大臣は何の反応も見せなかった。森を抜ける馬車は、彼らを揺らしながら順調にポルモートへと進んでいく。しかし彼らの感情は、未だ半分ルッセルフに置き去りにされていた。先遣隊が再び言葉を失う。それはまるで、沈黙が一つの荷物として荷台に積まれているかのような光景だった。
正午になって、森にも強い日光が差し込み始めた。しかしそれも彼らの心を照らすには至らず、太陽も泣く泣く雲の裏に隠れてしまう。曇天が空を支配し、木漏れ日が消えた。森は日没前のように暗くなり、芽吹く緑は少しずつ色彩を失っていく。
「ねえこれ……」長い沈黙を断ち切って、カルメンが口を開いた「ダグラスのでしょ?」
そう言って彼女が差し出したのは、綻んで切れ味を失った一本のサーベルであった。ダグラスはそれを見てすぐ、一瞬目を見開いたのだが、それがあの修道女の遺品だと思うと悲しく感じられて、逆に絶望が膨れ上がった。
「……ヘレナが持っていたのか?」ダグラスがカルメンの目を見て訊いた。
「うん。これで僕を守ってくれたんだ。命を懸けて」
「そうか……貰っていいのか?」
「当たり前じゃん。ダグラスのでしょ?」
「そうだが、お前が持っていてもいいんだぞ」
「いいよ、僕は短剣じゃないと上手く戦えないから」
「そうか、なら受け取っておくよ」
そう言ってダグラスはサーベルを手に取った。握った瞬間、冷たい金属の温度が彼の手を伝う。
「諦めるな」突然ドレイクが言った。「諦めるなダグラス」
「どうしたんだ急に」驚いたダグラスが、サーベルを握ったまま言う。
「分からない。でもそのサーベルを見るとな、やっぱり諦めたらいけない気がするんだ」
「……言いたい事は分かるが、私は何も出来なかったんだ」
「だったらなおさら諦めちゃダメだろ。俺は思うよ、まだ戦えるって。正直自分は剣も扱えないし、先遣隊の中じゃ足を引っ張ってばかりだ。カルメンを泣かせたりもした」
そう言ってドレイクは、隣に座るカルメンの肩に右手を置いた。カルメンは驚いて背筋を伸ばし、ドレイクを見る。彼女の目に入ったドレイクの顔には、クマが浮かんでいて、唇もただれていた。しかしその目線だけは、一種のハリを持って、先遣隊の各員を真っすぐ見つめている。
「あの日、何の因果か知らないが、俺たち五人が偶然にもこうやって集められたんだ。運命だよ。他の誰でもなくて、この五人だった。最初は誰もお互いを知らなかったし、信じてもいなかった。でも今俺たちは、こうやって同じ馬車に乗って、同じ日に戦って、同じ日に泣いてる。奇跡だ。なあ、そう思うだろ? ここで諦めたら、ヘレナは何のためにサーベルを握ったんだ? そしてお前は、何のためにサーベルをヘレナに託したんだ? 思い出せダグラス。あの日お前はなんて言った? 俺は覚えてるぞ。『必ず助けに行く』と、お前はそう言った。『この私が言っているんだから必ず助けに行く』って、そう言った。でも助けられなかった。お前は約束を果たせなかった。だから今ここに、あいつのサーベルがある。だったらどうするべきだ? 何もせずのうのうと戦いから逃げるのか? 剣の握り方しか知らないくせに、必死で助けを信じて森の中を生き延びたあいつの覚悟を、何も考えずに無駄にするのか? 違うだろ? お前はそんな人間じゃないだろう? 軍部隊人のハーバーマス・ダグラス様だろ? だったら諦めんなよ! 戦えよ! 俺も戦うから。なあ、ヘンクもそう思うだろ? カルメンもそう思うだろ?」
「ああ、もちろん」
ヘンクがそう言って小さく笑う。それに続いてカルメンも、黙ったまま小さく頷いた。
「ほら、お前は一人じゃない。三人……いや四人も仲間がいる。まあ俺は、お前の命令がなくちゃ何の仕事も出来ない能無しだが、だからこそお前が必要なんだ。ダグラスが諦めたら、先遣隊はバラバラになる。違うか?」
「……口だけは良く動くな」
そう言ってダグラスが顔を上げる。疲れ切ってやつれているが、その視線はちゃんとドレイクに向けられていた。
「先遣隊はこんなもんじゃないだろ?」
そう言ってドレイクは、あぐらをかいてにやりと笑った。




