38 転落と逃避
先遣隊率いる馬車の大群は、草原を抜けて森に入っていた。夜明けを前にして、淡いオレンジ色が空に広がっている。しかし依然森は暗く、大量の小石が転がる森の道を、馬車は音を立てながら駆けていった。
カルメンは最後尾の馬車に乗っていた。いや、乗っているという表現は正しくないだろう。彼女は数人の子供たちに看病をされて、馬車の上に寝込んでいるのである。やっと意識が戻って来た彼女だが、肋骨が折れているらしく、馬車が揺れるたびに胸の痛みを訴えた。
「大丈夫?」
彼女の手を握る少年が、カルメンの顔を見て呟いた。
「誰……」カルメンがかすれた声で訊く。
「背の高いおじさんに頼まれたんだ。お姉さんを馬車に乗せてって」
「そう……うっ、痛い……」
彼女が胸を抑える。馬車の揺れは激しさを増すばかりだ。なぜこんなにも速く走るのか。理由は敵兵の大群がこちらを追っているからである。どうやらライン城に侵入したのは敵兵団の一部らしく、大部分はライン城を通過して、そのまま彼らを追いかけてきたのだ。
「このままじゃルッセルフに敵を誘導することになる……」
カルメンとは逆に、馬車隊の先頭を行くダグラスは、馬に乗って森の先を見つめていた。
「どうするんだ! 行き先を変えるのか?」
同じく馬に乗っているドレイクが、馬車をダグラスと並走させながら訊いた。
「ドレイク、お前はどう思う!」
「俺に訊くなよ! 俺は馬鹿なんだよ!……いや待て、ルッセルフに援軍は来ていないのか? ロイドが王都に要求した援軍が!」
「来ているかもしれない。だがあくまで可能性があるだけだ!」
「じゃあどこに行くんだ? 他に行き先なんてないぞ! 何日もかけて別の宿場町に行くのか? そんなことしたらカルメンが死ぬぞ!」
「分かってる! このままルッセルフに行くさ! だからとにかく馬をとばすんだ! なるべく早くルッセルフに着いて、町の住人に戦いまでの猶予を与える! それが今我々に出来ることだ!」
「了解! おいヘンク! 後ろに伝達しろ! 総員全速力だ!」
隊の中盤で馬に乗るヘンクが、ドレイクの声を聞いて後方に声をかける。
「皆さん聞いて! 我々は引き続きルッセルフを目指します! 馬は常に全速力で! 大丈夫、必ず上手くいきます!」
ヘンクの言葉を受けて、他の馬車が一気に加速する。地面がひづめに蹴り上げられ、森の地面に土が舞った。
「うぐっ……痛いってば……痛いの!」
最後尾で響き渡るのは、カルメンの女々しい悲鳴である。彼女は顔の右半分をひきつらせて、馬車の揺れを必死でこらえた。
不幸は連鎖する。それはこの少女、カルメン・スタッカートンにも、当てはまる言葉だ。彼女にとっての運の尽きは、この馬車が柵を持たない単なる木の板だったことである。要するに、この馬はずっと、木の板に四輪を付けただけの、至極簡素な車体を引きずっていたのだ。そして、柵がないと言う事は、当然大きな石が一つでも道中にあれば、馬車は傾くということである。
悲劇はルッセルフの手前で起こった。土の上に転がっていた、人の頭程の大きさの石が、馬車の進路を塞ぐ。馬はなんとかそれを飛び越えたが、車体の方は違った。右の前輪が石に乗り上げ、木の板は大きく左に傾く。少年たちは上手いこと端につかまって難を逃れた。しかし寝転がっていたカルメンは、不幸にもその傾斜で体を転がし、音を立てて地に体を打ち付ける。馬車はすぐさま遠くに行き、カルメンは森の中の道に、一人取り残された。馬の足音が遠のく。すぐに静寂がやって来て、脈打つ自分の心音が聞こえてくる。カルメンは土の上を這いつくばった。服が泥で汚れていく。
先遣隊を追いかける敵の兵団は、もうすぐそばに迫っていた。カルメンは必死にほふく前進し、道から逸れて森の中に隠れようとする。しかし無情にも、敵の馬の足音が段々と迫って来た。一歩一歩、馬が地面を蹴るたびに、リズムよく地面が揺れる。ほふく前進するカルメンには、その揺れが全身を襲うように感じられた。
「人が居るぞ!」
敵兵の声が聞こえる。だがカルメンは諦めなかった。森に入って、草むらの中を進む。這いつくばって、息を切らせて、木の前に来た。彼女はその木の幹にしがみつき、痛みをこらえて立ち上がる。途中何度も唸り声を上げたが、それでもなお立ち上がり、足に力を入れ、前傾姿勢になりながら、ゆっくりと森の中を進んだ。
「始末しますか?」
道の方から敵兵の声が聞こえた。
「別にいいだろう。たかが女一人だ」
「しかし分隊長、本部からの指令では女子供も全員殺せと」
「……まあいい、お前がそう言うのなら、自分で決めろ」
「分かりました」
その会話のすぐあと、一人の騎士の足音が、カルメンに近づいた。彼女は痛みをこらえて速足になり、奥へ奥へと逃げこむ。しかし、筋骨隆々とした無傷の男から、全身傷だらけの女が逃げきれるはずもなく、カルメンはすぐに声をかけられた。
「おいあんた、止まれって。逃げても無駄だぜ? なんだ、言う事が聞けねえのかよ。止まれって。な? ちゃんと苦しまないように斬ってやるから」
男がぶつぶつと文句を言うが、カルメンは止まらない。いや止まれない。彼女は必死に足を引きずった。しかし運命は非情である。地面から飛び出した木の根っこに、彼女の足が引っかかる。少女の体が土に倒れた。またも痛む体。だが希望はある。短剣だ。苦楽を共にしたあの短剣だ。カルメンは腰に手を伸ばした。しかし剣の感触がない。どうやら馬車に置いてきたようだ。
「来るな……」仰向けになったカルメンが、絞り出すような声で呟いた。
「それは無理なお願いだね」そう言って男は剣を抜く。
「嫌だ……」
「黙りな。譲ちゃんは俺に殺される運命なんだ。それともあれか? 一度俺と良いことするか?」
「黙れ……」
「そうかダメか……まあ、蛮族の女なんて抱いても気持ちよくないもんなあ」
剣を構える敵兵の男を、カルメンは地面に背中をつけて見上げた。日が昇り、朝が来る。丁寧に砥がれた敵兵の剣は、オレンジ色の木漏れ日を受けて美しく輝いた。
「せめて天国に行けるといいな」
そう言って男は剣を振った。
――突然の金属音。何者かが、カルメンの前に現れて、敵兵の剣を弾いた。一瞬の出来事である。その女は、カルメンの前に直立していた。そして鋭い視線で敵兵を睨みながら、低い唸り声をあげる。
「逃げて……」
そう呟く女は、ボロボロの修道服を身にまとい、サーベルを片手に、紫色の目を朝日で輝かせていた。




