37 償い
ライン城の広間は大勢の人間で溢れかえっていた。時折城に響いてくる竜の咆哮に、避難民たちは悲鳴をあげて耳を塞ぐ。彼らは大理石に尻餅をついて、恐怖のあまり身を震わせていた。
音を立てて螺旋階段を駆け下りてきたのは、顔面蒼白のドレイクである。彼は広間に着くや否や、正門の方へ直行し、重い扉に手を掛けた。
「何してるドレイク!」
同じく一階にいたダグラスが、慌てるドレイクに声をかける。
「外にカルメンがいるんだ! 十階から落ちやがった!」
「本当か!」
「ああ本当だよ! だからお前も手伝ってくれ!……ああもうなんでこんなに重いんだ畜生!」
そう言ってドレイクが目一杯扉を引く。ダグラスが見かねて手を貸すと、扉が少しだけ開いた。そうして出来たわずかな隙間に、ドレイクが体を挟む。体を横にし、細い扉の隙間に無理やり体を通した。そうしてやっと城を出たドレイクは、すぐさま城の周りを走り、カルメンの落下点を目指した。その途中、彼の行く手を阻んだのは、まるでそれ自体が城であるかのような、太い竜の足である。巨大な爪は地面に食い込み、少し足が動く度に地震が起こった。
「カルメン! 大丈夫か!」
横たわって血を吐く彼女見つけ、ドレイクはすぐさま駆け寄る。彼女は嘔吐するように喉をひくつかせながら、血を咳のように飛ばした。そんな彼女を腕に抱え、ドレイクは正門へ走り出す。その途中、竜が一度空に火を噴いた。途端に辺りが明るくなる。まるで太陽が間違えて顔を出したみたいだった。
ドレイクが正門に来ると、門の隙間はさっきより広くなっていた。どうやらダグラスが門を広げてくれたらしい。隙間を通って広間に戻ったドレイクは、すぐさまカルメンをその場に寝かせた。
一方時を同じくして、ロイド・メルメアが螺旋階段を下りてきた。彼は広間に来るとすぐ、ダグラスの元に駆け寄って、彼にこう耳打ちした。
「帝国の兵が来ている。屋上から進軍するのが見えた。ざっと一万はいるだろう」
「撤退するべきだ」ダグラスは即答した。
「お前もそう思うのか」
「そりゃそうだ。そんな数の軍勢、千人ごときじゃ相手にならない。ただし最終決定権はお前にある。ここはあんたの城だからな」
「分かってる。悩んでいる暇はない」
ロイドはもう覚悟を決めたようだった。彼はすぐに大股で広間の中央に向かい、周囲で身を寄せ合う城の人々に、大声でこう語った。
「みなさんよく聞いて! 今この城に、帝国の軍勢がやって来ている! 数は少なく見積もっても一万! 我々では到底相手にならん! よって我々は、この城から逃げなければならない!」
ロイドがそう言うと、一部の避難民が反発した。
「なんでだよ! じゃあ一体何のために戦ったんだよ!」
「その気持ちもよく分かる! 昨日の戦いは勝てる戦いだった。だが今度は違う! 圧倒的な兵力の差があるんだ。我々が抵抗しても、死人が増えるだけになってしまう!」
ロイドの説得を聞いて、荒ぶっていた避難民たちが静まり返った。再び戻った静寂に、ロイドはさらなる言葉を響かせる。
「君たちが逃げてきた時の馬車がある! それに乗ってルッセルフに避難だ! 全速力で行けば、二時間ほどで着く!」
ロイドの案に、避難民からまたもいくつかの反対意見が聞こえてきた。しかしロイドはそれを受け入れない。飛び交う反論に、彼はこう反駁した。
「じゃあこの城にいる皆を見殺しにしろと言うのか? 短い付き合いだとはいえ、君たちは戦友だろう! 城主として、そんな簡単に同胞を見捨てることは出来ない!」
「ならば、私が外に出て馬車の手配をしよう」
そう言ったのはダグラスである。彼はロイドの言葉を聞いて、すぐに動き出した。
「ああ頼む。竜の動きには常に気を配れよ」
「言われなくても分かってるよ。おいヘンク、ドレイク、外に出るぞ! 馬車の手配だ!」
そう言ってダグラスが先遣隊の男二人を呼んだ。ヘンクはすぐに駆けつけてきたが、ドレイクは少し遅れた。なぜならカルメンの看病をしていたからである。
「なあ君、彼女のことをよろしく頼む」
ドレイクは近くにいた少年に言った。まだ背がダグラスの腰くらいしかない、小さな男の子である。
「僕?」少年は無垢な声で呟いた。
「そうだ。君だ。馬車が来たら、周りの大人たちと一緒に協力して、この女性を馬車に乗せてやるんだ。分かったな」
「うん……でも出来るか分かんないよ」
「大丈夫、君なら出来るさ」
そう言ってドレイクは少年の頭を撫でると、すぐさま立ち上がり、城を出るヘンクの後を追った。
城の外では、夜明け前の冷たい風が強く吹いていた。竜は城の周りを、地鳴らしと共に闊歩している。唯一の救いは、図体がでかいぶん、この竜の動きが遅いことだ。男三人は、大木のように太い竜の両足をくぐり抜けて、城の馬宿へと走っていった。そして到着してすぐ、木と馬を繋げていた紐をほどき、そのまま馬を城の門まで引っ張っていく。
馬車が正門の前に整列してすぐ、人々が波のようになだれ込んで来た。大量に用意された馬車は、あっという間に人で埋まる。すると残念なことに、乗り遅れた数十人が広間に取り残された。馬車は元々避難民の分しかないため、城の騎士たちが優先して乗ると、そのぶん馬車が不足するのである。
「どうするんだロイド! 馬車が足りないぞ!」
馬に乗っていたダグラスが、同じく馬に乗るロイドに訊いた。しかしロイドはすぐに答えない。なぜならこの男、昨日から何度も自分の非力さを憎み、作戦の失敗を悔やみ、完全に憔悴しているのである。さらには、残された避難民の助けを求める眼差しが、彼の罪悪感に追い打ちをかける。よって彼は、竜の足音が段々近づいて来るのを聞きながら、その短い猶予の中で、考えられること全てを考えなければならなかった。
「私は城に残る」竜が正門に迫る直前、ロイドが言った。「ダグラス。馬車の避難民はお前に任せる。私は腐ってもライン城の城主だ。だから、最後の一人になるまで、この城からは離れられない」
ロイドの視線は力強かった。馬車で一緒に逃げるよう、彼を説得するつもりだったダグラスが、その視線を見て考えを改めるほどに。
「……分かった」ダグラスは言った。「あんたの考えを尊重する」
「ありがとう」
そう言ってロイドは馬を下りた。そして、人の波に押されて全開になった門を通り、取り残された避難民たちの元へ向かった。
五十人弱の避難民には、老人、女性、子供、そのほか様々な年齢の男女が含まれていた。不運なことに、彼らはただ馬車に乗り遅れたという理由だけで、命を絶たなければならない。時間があればもっとマシな決め方が出来ただろう。しかし竜は門前に迫り、敵兵はもうじき城へ襲来する。決め事をする余裕など、もう残されてはいないのだ。
「みんな、申し訳ない」
ロイドはそう言って頭を下げた。しかし死を前にした避難民たちにとっては、大した慰めにもならない。
「馬車はもうないんですか!?」
泣きじゃくっていた若い女が、そう言ってロイドの足にしがみついた。
「ああそうだ。君たちは、間もなくこの城にくる敵兵によって……」
ロイドはそのあとの言葉をつぐんだ。しかし避難民たちは分かっている。敵兵によって、自分たちが殺されるということを。
「私は、君たちと一緒にこの城に残る。それが、城主しての私に残された最後の償いだ」
ロイドがそう言って避難民たちを慰める。正門前に止まっていた馬車はもう出発していて、広間はすでに静寂に包まれていた。この場に現在残るのは、城主ロイドと不運な避難民たちだけである。
この時の広間は、まさに泣き声と絶望の空間であった。十分後に敵兵が来るまで、彼らは子供や妻と最後の時間を共にし、身寄りのない老人はただ一人、もう存在しない女神ラインの絵に向かって、何度も何度も祈りを捧げた。彼らはこの十分間を、一生で一番長い十分と思っただろうか。それとも、一番短い十分と思っただろうか。答えは明白だ。「彼らのみが知る」のである。あらゆる人間が、この類いの苦しみを正確に語ることは出来ないからだ。
十分後、ライン城前の草原は、約一万の兵団によって埋め尽くされていた。一番最初に広間へやって来たのは、銀色の甲冑を着た男である。彼は大量の兵を率いながら、馬に乗って城の広間にやって来た。
「お前らはこの城の者か」
男は馬の上から避難民を見下ろして言った。
「私がこの城の城主だ」
馬に乗った隊長の男を見上げて、ロイドがきっぱりと答える。彼は凛と馬の前に立ちはだかって、隊長である騎士の男を睨んでいた。
「そうか。ならば貴様、ヘリス・シャーロットという男は知っているか」
「知っていますとも。昨日我々が殺した男です」
ロイドがそう言うと、白馬に乗っていた別の女騎士が、高い声でこう言った。
「あいつ蛮族の奴に殺されたのお? なっさけねえな! 魔術師のくせに何やってんだろ?」
「黙れマリ」
「ごめんなさーい、たいちょっ!」
そう言って女の騎士はニカニカ笑った。
「……ふざけている暇はない。マリ、お前はこいつらを殺すだけでいい。ほかの奴らも馬を下りろ。殺しの時間だ」
隊長の男は、そう言って避難民たちを指さした。
次の瞬間、馬に乗っていた大量の敵兵が、広間の大理石に下りて避難民たちに剣を向ける。女は絶叫のような命乞いの途中で、老人は天を見上げてひざまずく最中に、背中を刺されて命を絶った。一方、最後まで残された城主ロイド・メルメアは、長く深い深呼吸のあとに、剣で胸を刺された。
惨劇が終わり、広間の大理石には赤黒い血が広がる。しかしその光景を前にしても、隊長の男は顔色一つ変えなかった。むしろその表情は冷酷さを極め、そのまま一言、彼は死体に話しかけるが如くこう言った。
「故郷を奪った憎き蛮族は、必ずや我らの手によってその過ちを正される。これはお前たちの宿命だ」
男の声は、暗く残酷な威厳を伴って、静かな広間に響き渡った。




