33 女神が燃えた
燃え盛る炎の音が、あらゆる雑音を呑み込み広間を支配している。一帯の気温がすぐに上がって、炎に近いヘンクの額には、汗がだらだら垂れていた。強い火の勢いに押されたのか、ヘンクは一度後退を選ぶ。すぐさま階段を昇って二階へと避難するが、そこにはロイドとダグラスが居て、二人とも立ち上る炎を前にして呆然としていた。
「ヘンクくん……」震えた声でロイドが呟く。「一度地下に行って城の騎士を呼んでくれ。まずはヘリスの護衛から始末する」
「分かりました」
ロイドの命令を受けて、ヘンクが地下へと走り出す。だが城の騎士はもうすでに動き出していた。彼らは広間から聞こえてきた轟音に反応し、ここぞとばかりに階段を駆け上っていたのだ。何かあったら必ず城を守る――彼らを広間へと向かわせたのは、そんな騎士としての心構えであった。しかし、いざ広間に来て惨状を目にすると、そんな彼らの信条にも亀裂が走る。
「なんだよこれは……」
騎士の一人が、驚きのあまりかすれた声で囁いた。彼は巻き上がる炎を見上げ、呆然自失の様相で目を見開いている。
「お前たち! とりあえずヘリスの護衛を倒してくれ! 執事野郎はそのあとだ!」
ロイドが二階から大声で呼びかける。その声を聞いて、城の騎士たちが一斉に動き出した。彼らは広間で暴れる竜巻を、右往左往して避けながら、執事付きの護衛たちを殺しにかかる。しかし唯一の難点は、城の騎士も執事付きの護衛も、同じ甲冑を着ていることだ。そのせいで彼らにとって、敵を見分ける手段は「馴染みの顔がどうか」という、ただ一点しか残されていない。
そう、まさに混戦である。剣を振って血を飛ばす、騎士たちの凄惨な戦い。暴れる竜巻は、敵味方関係なく次々と騎士たちを巻き込み、その体を天井に打ち付ける。一度竜巻に飲み込まれると、焼かれて吹かれて叩かれて、まさに一巻の終わりだ。
「どうするんだロイド!」
二階席、ロイドの隣にいたダグラスが、罵るような声で訴える。しかし、竜巻を前にしてロイドは自我喪失。唖然のあまり喋ることもままならない。
「そうだ火消しだよ火消し! 大きな布はないのか!」
宿場町へ逃げたあの日のことを思い出し、ダグラスが弓兵たちに尋ねた。
「何に使うんだそんなの!」一人の弓兵が涙混じりに叫ぶ。
「濡らして広間に広げる! そうすれば少しは火も落ち着くさ!」
「でも大きな布なんてねえぞ!」
「……食堂のテーブルクロスだ! 濡らしてからありったけ持ってこい!」
ダグラスが大声で言った。その命令を受けて、何人かの弓兵が弓を置き、すぐさま食堂へと走る。
「ロイド、私も食堂に行って彼らを手伝ってくる。お前はちゃんとここで指揮をとるんだ」
「ああ、わかったよ」
頷くロイドの表情は、燃える騎士たちを眼下にして、絶望的な悲哀に満ちていた。
絶望を前に統率を失う二階に対して、一階は今もなお戦場である。火の粉は竜巻からだけでなく、剣と剣の衝突からも、絶え間なく飛び散っている。
「ヘンク! 大丈夫!?」二階にいるカルメンが、広間にいるヘンクを呼んだ。
「ああ問題ない!」
そう言って平静を装うヘンクだが、明らかに動揺している。剣を握る手には、騎士らしからぬ震えが見て取れた。しかしその表情だけは、いつも通りの真剣なヘンク・メルテンスである。
「お前も戦ってくれ! 一人でも多い方がいい!」
「分かってるよ、今行くから!」
そう言ってカルメンが塀を乗り越え、一階に飛び降りてくる。するとすぐ、ヘンクはカルメンの着地点に向かうと、彼女の手を握り、そのまま広間の端へと逃げ込んだ。そして立ち止まり、今度はカルメンの後頭部をがっしりと掴むと、彼女の顔を無理やり竜巻の方へ向ける。ヘンクは一度深呼吸をすると、二度咳込んだ後にこう言った。
「いいかカルメン。むやみやたらに動くな。何があっても竜巻の動きだけは把握しろ。おそらく竜巻の動きはヘリスの制御下にはない。あれは完全に勝手に動いている」
ヘンクの目はこの場の誰よりも真剣だった。広間にこだまする炎の音、断末魔、そして剣がぶつかる高音。ヘンクにとってはそれら全てが、重要な情報である。
「……二人であの執事をやる」戦場を睨みながら、ヘンクが覚悟の据わった声で言った。「誰かがあいつをやらないといけない。じゃなければいずれ全員死ぬ。そうだろう?」
「そんなの言われなくても分かってる」カルメンが言った。「あんまりノロノロしてると、先に僕がヘリスをやっちゃうよ?」
「お前に挑発されるとはな……」そう言ってヘンクが、カルメンの頭を撫でながら笑う。「覚悟は良いな?……俺についてこい! 行くぞ!」
ヘンクが叫んだ。カルメンも覚悟を決めて唾をのむ。
合図と同時にかかとを蹴り、ヘンクが全速力で走り出した。目指すはヘリス一直線。途中、立ちふさがる騎士を斬り、剣を跳ね除け、止まることなく突き進んだ。そんな彼をカルメンが追う。ある騎士が彼女目がけて剣を振った。が、彼女はそれを紙一重で避けてみせる。そのあと裏へ回り込み、男の背中に太い剣を、ドンと突き刺し微笑する。飛び散る血しぶき。頬に付く返り血。対してヘンクは慎重だ。騎士二人が相手でも、顔色一つ変えやしない。彼は何度か牽制を混ぜ、最後に一閃、高速で剣を振った。それはさながら鳥のように、宙を舞い、風を裂き、滑空の如く肉を切る。またも飛ぶ血しぶき。赤く濡れた剣。二人殺してヘンクはすぐ、走り出してヘリスを追った。嘲笑を目印に、蛇行して火花を避け、何度も何度も剣を振り、一歩下がってはまた走り出す。カルメンだって負けてはいない。迫り来る竜巻の、縦横無尽な動きを注視し、その挙動に応じて右へ左へ、細かく横跳びを決めていく。
「おいヘリス、私が相手だ!」
ヘンクが叫んだ。その声を聞いて、ヘリスがこちらを振り返る。彼は首を傾けて嘲笑していた。そしてすぐ、手袋に包まれた手を突き出し、指先から火の弾丸のようなものを数発撃って、ヘンクを威嚇する。
「帝国にはこの城が必要なのです……」
ヘリスはそう呟くと、再び指先から火の玉を打つ。それはシュンと音を立てて、ヘンクの耳の横を通り過ぎた。
「それ以上私に近づいたら、当てますからね?」
その言葉を聞いて、さすがのヘンクも一歩後退する。これ以上は打つ手がない。そう思いヘンクが苦悶するさなか、カルメンがヘリスの裏を取った。彼女は足音だけの存在となり、ヘリスの背中へ剣を向ける。それは一瞬の隙――無駄な音を一切立てず、短剣が刹那に舞う――しかし一歩遅かった。ヘリスが剣を、体をしならせて華麗に避ける。不意打ちに失敗したカルメンは、そのまま一度ヘリスから距離を取った。
「今のは危なかったですね。なかなかの剣裁きじゃないですか」ヘリスがカルメンを手招きして煽った。
「見え透いた挑発には乗るな」
ヘンクが、挑発に乗せられ動き出したカルメンの右腕を掴み、彼女を引き止める。
「お前は確かに優秀な剣士だが、冷静な頭脳が足りない」
「分かったよ、分かったから離せって」
カルメンがヘンクの手を振り解く。彼女はどうも拗ねている。自分の力がヘリスに通じないと知って、なんだか悔しくなったらしい。彼女は感情を抑え込めず唇を噛んだ。その時である。二階から声がした。顔を上げるとダグラスがいて、広間全体に大声で伝令をしているところだった。
「お前らどけ! おい騎士どもも一旦隅に下がれ!」
ダグラスの啖呵が広間にこだまする。しかし竜巻の轟音のせいで、数人の騎士は気づかず剣を振り続けていた。
「くっそ、仕方ない! おいカルメン、ヘンク! お前らも手伝え! その執事は後でだ! 今はとりあえず、竜巻を使えないようにする!」
そう言ってダグラスが、大量の濡れたクロスを、二階から一階に落とす。染み切っていない水分が、びちゃっと音を立てて広間に広がった。
「広げろ! 広間を覆うんだ!」
ダグラスの言葉を受け、ヘンクとカルメンが目を合わせ頷き合う。二人はそれぞれクロスの端を持って、そのまま広間の両端へ走った。またたくまにテーブルクロスが、水を滴らせて広間の一部を覆う。
「その調子だ! いいぞ!」二階からダグラスの声援が聞こえてくる。「ほらまだある! 頼むぞ二人とも!」
一つ、二つ、三つと、次々に濡れたクロスが一階に落とされる。すでに敷かれたクロスは、一部竜巻が通過して黒く焦げているが、それでも無意味ではないようた。おかげで竜巻の高さが少々下がっている。
必死にクロスを敷く二人だが、まだクロスが敷かれていない広間の端では、騎士たちが斬り合い殴り合い倒れ込んでいる。そこに竜巻がくれば、もう後はない。瀕死寸前の体は天井まで巻き上げられ、そのまま黒焦げになって落ちてくる。そうして出来た焼死体が、広間にはいくつも転がっていた。
しかし残酷な死体さえ無視すれば、作戦はおおむね順調のようである。普通なら竜巻で巻き上げられてしまう布も、濡れているおかげでうまいこと床の大理石に引っ付き、竜巻の風ではなかなか剥がれない。
「いま厨房から大量の水を持って来ていることろだ! 諦めるな二人とも!」
ダグラスがそう言って二人を鼓舞した。
「奴の火魔法は根本的にどうにもできない」
興奮気味のダグラスに対し、ロイドは至って冷静だ。いや、単に自らの失策を嘆いているだけかもしれない。どちらにしろ陰鬱なのは確かだ。
「ロイド、もっとシャキッとしろ。お前の城が危機なんだぞ?」
「ああそうだとも。そうだとも。そんなの言われなくても分かってるさ……幸運なことに、奴の護衛はそのうち全滅するだろう。だが問題はあの執事だ。奴の消耗が先か、我々が焼けるのが先か」
「最後に残った騎士全員で、あの執事を仕留めるしかないさ」
「そんな単純な作戦が通用する相手に見えるか?」
「でもそれしか手はない」
ダグラスの言葉を受け、ロイドが考え込んだ。彼は口をつぐみ、目をぎゅっと閉じ、思案を巡らせている。しばらくしてロイドは、意を決したのか目を見開き、顔中に汗を垂らしながらこう言った。
「……ダグラス、お前の力が必要だ」
ロイドの声は、友人に向けられるようなものではなかった。男としての、威厳と覚悟を持った声である。
「力って……馬鹿を言うな」
ダグラスがそう言って首をゆっくり横に振った。
「でもこの非常事態だ。出し惜しむ暇はないだろう?」
「そうだが、しかし……」
「悩んでる暇はない。こうしている間に何人も焼け死んでるんだ……私は自分が軍人であることを憎んでいる。とてもとても憎んでいる。今ほど憎んだことはない。人に死ねと言って、屍の上に乗り、そしてようやく勝利をもぎ取って、やっと軍人なんだ。罪な定めさ。でも戦わなければそれ以上に人が死ぬことだってある……今がそうだ! なあダグラス! 全部私のせいさ! 私がくだらん作戦をしたせいで、こうやって何人も死んでくんだ!」
「落ち着けロイド」
「落ち着けるか! 私は、私は……人を殺すために軍人になったんじゃない!」
燃え上がる炎、立ち上る煙。ロイドの哀訴を聞いて、ダグラスは自問した。彼の言う通りだ。戦わねばならない。ダグラスは知っている。士官学校時代のロイドの苦悩を。しかし自分には、彼とは違ってある『宿命』があるのだ。ダグラスはずっと、その宿命から逃げてきた。裏切ってきた。だがそれはもう許されないようだ。いずれ、宿命にひれ伏すか、それとも決別するか、決める時がくると自分でも分かっていた。それが今なのかもしれない。そう悟ったダグラスは、この時心臓に誓った。自分は宿命に抗うべきなのだ、と。なぜならダグラスにとって、パルメアとは宿命以上の存在だからだ。
「分かったよロイド。この場は私が引き受ける。私がこの戦いにけりをつける。ハーバーマス・ダグラスは、真にパルメアの軍人だ。だから見てろ! 士官学校で一度もお前に勝てなかった私が、お前を追い越す所を! ロイド、あんたは良くやったよ! 汚れ仕事は私がやるさ!」
そう言ってダグラスは、階段を下りてどこかへと消えていく。段々小さくなる軍人の足音は、重くて力強かった。




