02 貧民街の英雄
雑草の味を知っているかい? 苦くて渋くて、舌が腐るような味だ。育ちのいい読者諸君は、きっとそんなもの知らないだろう。しかし貧民街にその味を知らない者はいない。皆が地を這って生きてきたのだ。むしろ雑草の味も知らずに貧民街を語るなど、愚の骨頂である。
王都パルアカント、と言えば聞こえはいいが、少しでも街の中心を離れれば、この都は至る所が貧民街だ。街道沿いに闇市がはびこり、露出した地面には雑草が生えている。もし甲冑を着て貧民街に来れば、人々から恨みのこもった視線で睨まれだろう。なにせ貧民街の人間は、総じて貴族が嫌いなのだ。隙あらば何か盗んでやろうと、みんなして貴族に目を光らせている。だが貴族も嫌味な奴らだ。一部の呑気な貴族たちは、そんな彼らを面白がって、肝試しのために貧民街をうろつくらしい。
さて、ここにも一人、不届き者の貴族がいた。名前なんて紹介する必要もない。最近妻に離婚を切り出されたこの男は、毎晩別の娼婦と寝ている根っからの女たらしだ。しかしまあ、こんなヘタレにも友達はいるらしい。彼は二人の同僚を連れ歩いて、貧民街を楽しそうに散策していた。
「目つきが悪いなあ貧乏人は」そう言って彼は辺りを見回す。
なんとも勇ましい男である。貧民街のど真ん中を大股で歩くなんて、相当の度胸がないと出来っこない。彼は右手に白い玉を持っていて、それを投げてはキャッチしている。どうやら布製のボールらしいが、きっと正しい使い方は別にあるはずだ。あの男のことだから、おそらく貧乏人を挑発するために持ってきたのだろう。
「靴が汚れるなあ、舗装もされてないのか」男が玉を手の上で転がしながら呟いた。
「仕方ないさ。舗装をしたところで、こんな場所に馬車なんて来ないよ」
そう言ったのは、白玉貴族の横を歩く彼の友人だった。離婚を切り出された女たらしの白玉とは違って、友人の方は何だか不気味な雰囲気を放っている。目の下まで伸びた前髪がその理由だろう。果たしてあんな髪型で、ちゃんと前が見えているのだろうか。
ちなみにさっき、白玉貴族には二人の同僚がいると言ったが、もう一人は別行動をしている。何せ三人目の彼は食べ歩きが大好きらしく、能天気にスキップをして二人を置いて行ったのだ。三者三様とはまさにこの事である。
さて、貧民街のど真ん中を歩く貴族二人は、周囲からくる視線など気にも留めていない。道の左右にあるおんぼろの家屋を見ながら、よくあんな場所に住めるなと、貧民街の人間を大声でからかっていた。
「なんか買い物でもしてみるか?」前髪を伸ばした貴族の男が、そう言って白球の男をそそのかした。
「そりゃいい提案だな。貧民街の皆さんのために、毒見をしてやらないと」
白玉の男はそう言ってすぐ、道の右手にある露店へと立ち寄った。その時ちょうど店番をしていたのは、十歳にも満たない小さな少年である。彼は二人の貴族がやって来てすぐ、大声を出して父親を呼んだ。
「と、父さん! 貴族のお客さんが来たよ!」
「貴族の客? はあ、そりゃめずらしいね」
露店の奥からため息が聞こえてくる。どうやら少年の父親が、貴族と聞いて気分を害したらしい。だが商売は売ってなんぼだ。嫌々店に出てきた父親は、客である貴族をじっと睨んで、ぶっきらぼうにこう言った。
「何の用だい、お客さん」
「何の用って、買い物に決まってるじゃないか!」白玉貴族は大げさな高音で答えた。「ちょうど甘いもんが食べたくてね。この緑色の果物を一つ貰おうと思ったんだよ」
「こりゃオレンジだね」
「おっと、貧民街のオレンジは緑色なのか! 知らなかったよ。いつも熟した物を食ってるもんでね」
「そうかい、じゃあ買わなきゃいいさ。きっとあんたの口には合わんよ」
「いや、いいんだよ気遣いなんて。俺たちは買い物に来たんだから」
「……そうか、じゃあ買っていってくれよ」
「拗ねてもらっちゃ困るな。最初からそのつもりだったさ。で、いくらだい?」
「五十ラルクだ」
「五十ラルク?」白玉貴族は分かりやすく反復した。「おいおいたっけえなあ。熟してないのに金はいっちょ前に取るのか! 確かにこりゃ儲かるよなあ。俺も貧民街に店を出そうかね」
「なああんた……何しに来たんだい?」
さっきまでかろうじて冷静に対応していた父親が、突然声を低くする。一方少年はその横で背中を丸め、態度の悪い貴族たちを前に、じっと縮こまってうつむいていた。
「何って、買い物って言ったじゃないか」白玉の男が、そう言って嬉々と笑う。
「……そうか。だとしてもだ。帰ってくれ」
「急にそんな低い声になっちゃって、やっぱり気に障った?」
「いいから帰れよっ!」
ついに父親が声を荒げた。隣で怯えていた少年が、慌てて彼を止めにかかる。
「やめて父さん! 相手にしたらこっちの負けだよ!」
「とめるなパル! こいつらを放っておいたらダメなんだよ! 俺たちにも尊厳ってもんがある!」
少年の呼びかけをよそに、父親が手を固く握って、その拳を貴族の男に振りかぶった。しかし男は背中を反らし、そのパンチを余裕の表情で避けて見せる。
このひと悶着を見て、それまで何もしていなかった前髪の貴族が、突然父親の前に躍り出た。
「はあん。あなたがやる気なら、応じますよ?」
この前髪垂らし、さっきから存在感が薄かったが、その本当の目的は白球野郎の護衛であった。要するに、白球野郎が一人で貧民街に行くのが怖いと言うので、嫌々付き合ってあげてるわけだ。
さて、煽ることが白玉の仕事なら、戦う事が前髪垂らしの仕事である。何せこの前髪垂らしは、白球のような貧民街散策に護衛を雇うビビりとは違って、泣く子も黙る立派な騎士なのだ。
「相手は僕ですよ、お父さん。覚悟があるなら、どうぞご自由に」
そう言って前髪垂らしは、卑怯なことに腰から剣を取り出した。なんの戦闘経験も持たない素手の父親に、剣を出して本気の対応とは、この男もなかなかの曲者である。
だがしかし、本当の戦いはここからであった。
「はあああい、そこまで!」
突然の高い声。あの女の登場だ。そう、貧民街にその名が轟く、カルメン・スタッカートンである。泥だらけのブーツを履いて、彼女はゆっくり貴族に近づく。見た目は童顔で背も低い。だが、舐めてかかったらそれが最後だ。弱さを一切感じさせない強気の態度は、まさに貧民街の英雄でる。
「二人ともどういうつもり?」
女剣士は登場してすぐ、右手でぶんぶん短剣を振って、貴族二人に歩み寄った。そんな彼女に前髪垂らしは、剣を構えて戦意を示す。一方ビビリの白球野郎は、前髪垂らしの背中に隠れ、顔だけひょっこり出していた。
「近寄るな貧乏人め!」白玉野郎が女をからかう。この男、護衛は前髪垂らしに任せているくせに、煽り文句だけは一人前だ。
「貧乏人で何が悪い!」女剣士が声を荒げた。引き締まったその怒号に、貴族二人が委縮する。
「ちょ、お前、ちゃんと勝てるんだろうな……」白球野郎は随分な怖がりのようで、前髪男の背中に隠れ、一人ボソボソと弱音を吐いている。
「大丈夫さ。僕は毎日鍛錬を欠かさない騎士の鑑だよ? 貧民街の女に負けたら、騎士なんてやめてやるさ」 やけに自信満々の前髪男は、そう言って手に力を込めた。
「その発言、撤回してもいいんだよ? 前髪ボーボーの騎士さん」
女剣士は余裕をのぞかせ、剣をぶんぶん振り回す。顔に浮かんだ笑顔は、まるで貴族二人をあざ笑っているかのようだ。
「馬鹿言うな。撤回するわけないじゃないか」
「ふうん……じゃあお手並み拝見といこうか!」
女剣士が走り出す。あっという間に距離を詰め、すぐさま足を蹴り上げた。男の股間をそのまま一閃、女はハアっと声を上げる。前髪男は剣を落とし、痛みで股間を抑え込んだ。そのあと後ろに倒れた彼は、白目をむいて地面に転がる。
「さあ、あとは一人だけだね。さっきから白い球持ってるけど、それは武器か何か?」女剣士がそう言って首を傾げた。
「えっ?……あ、ああ、そうだよ、まあ、武器的な何かっていうか……」
「ふんっ、ただの遊び道具のくせに! 貴族は嘘も下手なんだなっ」
そう言って女が笑顔で短剣を振る。剣は円を描いて男の前で風を切ったかと思えば、次の瞬間にはその先端が、男の喉ぼとけに優しく触れていた。
「はーい、僕の勝ち」
女はそう言って颯爽と帰っていく。そのえくぼで何人もの男を半殺しにしてきたこの女、剣の腕前も男泣かせだ。口だけ達者の白球野郎は、棒立ちして目を点にしている。一方倒れた前髪男は、さっきから仰向けになったまま、貧民街に間抜けな顔を晒していた。風に吹かれた長い髪は、まるで黒い雑草みたいだ。
決闘後しばらくして、二人のもとにもう一人の友人が戻ってきた。彼は食べ歩きを終えてご満悦らしく、貧民街名物の団子を口いっぱいに含み、リスみたいに頬を膨らませている。
「ふはりのふんもはってひたよおお!(二人のぶんも買ってきたよおお!)」
そう言って彼は団子を見せたが、呆然自失の貴族二人は、何の反応も見せなかった。なんとも呑気な男たちだ。貧民街は今日も平和である。