16 残酷な正義
ヘンクはうろたえた。彼女のアメジストを埋め込んだかのような瞳に、恐れおののいたのだ。その眼光は鋭く、完全にヘンクを獲物として見ている目だった。彼女は地べたに這いつくばったまま、ほふく前進してヘンクに迫ってくる。
「落ち着けっ! ヘレナ!」
彼の呼びかけに、シスターはうんともすんとも言わない。むしろ挑発でもされたようにヘンクを睨み、修道服を汚しながらこちらに近づいてくる。
「どうしたんだヘンク?」
何も知らないカルメンが歩み寄ってくる。彼女はヘレナの瞳を見てすぐ、驚愕して声を上げた。
「シスター!?」
「おいおいなんの騒ぎだよ二人して……」
事態を知らないドレイクは、呑気な顔である。しかし慌てふためいている二人を見ていよいよおかしいと思ったのか、カルメンの元に近づいた。
「全く二人して騒ぎやがっ……」
ドレイクも言葉を失った。ヘレナの、今にも頬が引きちぎれそうな表情を見て、あっけにとられたのだ。彼は愕然として、そんなの嘘だと言いたげに首を横に振った。
「こりゃ一体どういうことだ!?」
「ヘレナが魔の血に侵されている」ヘンクが言った。「おそらく昨日の夜、狼に噛まれた時だ……まさか噛まれただけでこうなるなんて」
「どうするのヘンク? ねえどうするの!」
「カルメン、彼女をよく見てみろ。体中が淡く発光している。昼だからあまりよく見えないかもしれないが」
「……本当だ。治癒術を使ってるってこと?」
「そうだ。今シスターは魔の血と戦ってるんだ」
「じゃあそのうち回復する?」
「無理だろう……治癒術の効果はあくまで肉体の回復だ。このまま魔の血が精神を乗っ取れば、シスターは魔物になってしまう。それに治癒術だって完璧じゃない。使えば使うほど中毒症状が出る」
「じゃあ何かできることはないの?」
「分からない。少なくとも我が国にはないだろう」立ち上がったヘンクはそう言ってうつむいた。
「冗談だろ? なあ?」
声の主はドレイクだった。彼はヘンクに近づいて、顔面蒼白のまま訊いた。
「いや事実だ。もう手だてはない。少なくとも我々が知る限りは」
「じゃあどうするんだ? このまま苦しむシスターを放っておけと言うのか!?」
「それしかない」
「馬鹿言うな! 諦めんのが早すぎだ! 絶対、絶対何か方法がある……そうだろう?」
「じゃあ言ってみろ! 言っておくがこのまま彼女を連れ歩くわけにはいかないんだ! また彼女が誰かを噛めば、同じことの繰り返しになる。その危険を冒すだけの理由はあるか?……だから放っておくしかないんだ! それとも何だ、ここで今彼女を殺せというのか!?」
「俺はそんなこと一言も言ってねえだろ!」
「……いや、それもありかもしれない」
そう言ったのはダグラスだった。さっきから醜い口論を傍目で見ていた彼は、至極冷静な様子でやって来ると、そう吐き捨てた。
「お前、正気か?」ドレイクが呟く。
「一つの手段だと言ったまでだ」
「それでも言っていいことと悪いことがあんだろ。なあ!」
ドレイクがダグラスの胸ぐらを掴む。同じ背丈の二人は、そのままじっと睨み合った。ドレイクは心底憤り、ダグラスはそんな彼を冷酷な目で見つめている。
「そりゃあ、軍人様は残酷な判断ばっかりしてるもんなあ! 馴れっこなんだ。そうだろ!」
「盗賊のお前が言うな」
「そういう話じゃねえ! 俺は今お前の発言のことを言ってるんだ! 殺す? そんなことが正当化されてたまるか!」
「じゃあこのまま、生きるか死ぬかも分からない彼女を放っておくのか? その方が彼女にとってあまりにも不憫だろう? その解決策として、一つの手段として、命を絶つのも考えられると言ったまでだ。いいかドレイク、彼女は苦しんでいるんだぞ」
「そんなこと言われなくても分かってる。でもおかしいだろ!」
「よく聞けドレイク。最悪のシナリオは、彼女を助けようとして誰かが噛まれることだ。もしそうなったら、王国に迷惑がかかる。我々には使命があるんだ。アストランに行くという、大事な使命が。それに、運よく彼女を安全に町へ連れていけたとしても、治す方法がない。魔物として生きるということは、人間としての生き方を失うということだろう? それは人間として何かに苦しむことより、何倍も辛い事だと私は思う。私は彼女にそんな思いをさせたくはない」
「言いたいことはよーく分かった。でもお前になんで殺す権利がある? 治す見込みがない? そんなもん探すんだよ! 意地で探すんだ!」
「それは理想論だ!」
ダグラスがドレイクに唾を浴びせて言い、こう続けた。
「現実を見ろドレイク。彼女を殺すか、放っておくかだ。それに放ってくのも簡単ではないんだ。魔物を野放しにするということは、すなわち近隣住民を危険に晒すという事だ。少なくともルッセルフの森は完全に閉鎖せねばならない。いや、本当はもっと前からしておくべきだった。それだけのことをして、ようやく彼女を生きながらえさせることが出来るんだ。しかしそれも、彼女にとっては魔物としての人生でしかない。これでもだいぶ譲歩してる方だと、お前にはそれが分からないのか?」
彼らがいがみ合っている間にも、ヘレナは爪を立てて自らの首を引っ掻きながら、地べたで足をばたつかせ、体を縮めたり伸ばしたりしている。その顔に修道女の慈しみはもうない。あるのは、あらゆる表情が混ざったような狂気と、哀れなまでに美しい紫の瞳だけである。
突然カルメンが泣き出した。彼女は立ったまま、うえんうえんと子供のように泣く。頬を垂れた涙が、木漏れ日できらりと光った。悲劇には似合わぬ午後の斜陽だ。
「カルメン、泣くな」ヘンクが彼女の背中を叩いた。
「でも、でも、シスターは、シスターは、僕が、僕があ……」
男勝りの仕草はどこへやら、彼女は腕で目を何度もこすっている。途切れ途切れの言葉の間に、不規則な呼吸と咳き込むような喘鳴が混じった。
「多数決を取る」ダグラスが冷酷に言った。「シスターを置いていくか、ここで斬るかだ」
「本当に選択肢はその二つだけなの?」カルメンが涙混じりに訊いた。
「ああ。辛いがそうだ。苦しんでいる彼女をこのまま放置するか、それとも彼女のために斬るか、この二つしかない」
「本当に望みはないの? どこかに治せる人がいたりしないの?」
「……残念だがいないだろう」
「そんなの嘘だよ! 帝国にはいるかもしれないよ!?」
「でも帝国は敵だ。カルメンも、先遣隊の一員なら分かっているだろう。第一この魔の血のことも、元はと言えば帝国の仕業なんだ」
「そうだけど……でも……嫌だよ……牢屋に閉じ込めてでも助けてあげようよ! ねえ!」
「私だって君の言いたいことは分かる。でも、私は隊長として先遣隊を危険な目にはもう遭わせられないんだ。昨日の一件で、そう胸に誓った。出発前のあれも、生半可な覚悟でした土下座ではない。だからこそ、この決断には私が全責任を負うし、全ての罵詈雑言を一身に受ける覚悟だ。そのうえで私は、彼女を一緒に連れていくことは出来ないと言っている。これは隊長としての決断だ。嫌なら好きなだけ私を殴れ。それでも私は決断を変えん。よって多数決を取る。自分の思う方に手を挙げろ」
彼はそう言って一度大きく息を吸った後、静かに続けた。
「シスターを……ヘレナ・フランセルを、ここに置いていくべきだと考える者」
――最初、長い沈黙が続いた。誰もがうつむいて、地面を見つめていた。このこう着状態がしばらくは続くかに思われた。しかしそれを、ヘンクが勇敢にも立ち切る。彼は騎士らしい正義に身を任せ、びしっと、直立不動で手を挙げた。
次に手を挙げたのはカルメンであった。彼女は老婆のようにゆっくりと、涙で寝れた右手を力無く持ち上げた。その面持ちは、顔のあらゆるパーツが垂れ下がったかのように、表情を失っている。
三番目はドレイクだった。彼は左手で目頭を押さえ、すすり泣きながら残った右手を上に伸ばした。男らしい、声を抑えた泣き方である。しかし一方で、その涙腺だけは、怒りと無力感が混じって弱々しく震えていた。
そして最後、三者三様の挙手を見て、いよいよダグラスは腕に力を込め、ゆっくりと右手を挙げた。説明するまでもないが、彼のこの挙手は、決して多数派に流されたわけではない。彼は隊長として、もし意見が割れた場合、自分が最後の一人となって結論を左右する覚悟を持ったうえで、最後に手を挙げたのである。人の上に立つ者は、その責任を持ってして集団の決断における最後の砦であるべきだ――軍人としてのダグラスが貫いてきた、強い信念である。
「満場一致だ。出発する」
ダグラスはそう言うと、腰につけていたサーベルをヘレナの目の前にそっと置いた。
「ヘレナ。これを使え。私のサーベルだ。先遣隊がお前を殺さないと決断した以上、我々は必ずお前を助けに戻ってくる。約束だシスター。この私が言うのだから、絶対に戻ってくる。いつか必ずだ。だから生き延びろ」
ダグラスはそう言い捨てた。その顔は、どんな人間もひれ伏すような威厳に満ちている。自らが信奉する正義に則って、あらゆる野次をその信念ではねのけた男の顔である。
「進もう先遣隊。今日のことは心臓に刻み込め」
後日、ルッセルフの森は封鎖された。魔物の流出を防ぐため、がその理由である。
この展開は最初から決まっていたものですが、それでも書いていて辛かったです。皆さんは先遣隊の判断が正しかったと思いますか? ちなみに僕は思いません。噛まれる危険を冒してでも、どうにか町に連れていくべきだったと思います。みなさんはどう思うでしょうか?




