3. どんぐり池
「どんぐり池さん。どうか願いを叶えてください」。
先程、コン太が投げ入れて沈んだどんぐりと、こんこんと湧き出る湧き水の波紋とが交わって、池の水面は複雑な波形の紋様を描いては消えた。
そして、とても静かな時が流れた。
湧き水のこんこんと湧き出る水の音が、やけに大きく聞こえる。
実際は僅かな時間だっただろう。だけど、期待をして待っているキツネのコン太には永遠とも思えるほどに、気の遠くなるような長い時間だった。
そしてそれは、突然やって来た。
一陣の風が吹き、どんぐり池周辺の沼杉の木が、ざわざわと騒ぎ出す。
キツネのコン太も、それに気づく。
「あれ。西の方から風が吹いてきた」
その言葉を合図にしたかのように池全体が、大きな蛍のように青白く光り輝く。
そして池の底の湧き水が、ボコボコという音と共に急速に膨れ上がる。その膨れ上がった水が上に昇っていく。そしてそれが、一つの水の柱となった。
その水の柱を優しく撫ぜるようにして、澄んだ池の水が薄く纏わり付く。さらに重なるようにして、次々と池の水が這い上がって行く。
水の柱を中心に、池の水が何かを形造るようにして徐々に肉付けをしていった。
だんだんと人間の形を造っていることが判るようになる。
そして透き通った玉肌のそれは美しい人間の女性がどんぐり池の中央に現れた。だけど、その人間の女性には色が無かった。後ろが見えるくらい透き通っていた。
美しい人間の女性ではあるけれど、それは水そのものだった。
それでも、なぜだかキツネのコン太は、その女性の美しさが理解できた。
そして彼は、その存在を知っていた。
「あ、あの。あなた様は、話しに伝わる、どんぐり池の妖精様でしょうか?」
彼は、おそるおそる、その池に現れた水で形造られた人間の女性に問いかける。
『ここではそのように、わらわは呼ばれておる。して、どんぐりを投げ入れ願いを請うた者は、そなたか?』
その姿と同じような、透き通った美しい声がどんぐり池とその森の周辺に響く。その声はとても威厳に満ちている。それでいて、とても優しい声だった。
優しい声。だけど、キツネのコン太には、とても怖く感じた。何しろ美しい女性だといっても人間の形をしている。人間の存在は物語の中でしか知らない。そしてその物語では、人間は恐ろしい存在なのだと聞かされていたからだ。
それで、これが怖がりのクマのペンタだったら、恐怖の余り最初の声もかけずに一目散に逃げていただろう。だけど、お人好しのキツネのコン太には仲間のみんなのためにすべきことがある。
それに、どんぐりを投げ入れ最初に声をかけたのはコン太自身。
彼は意を決した。声を振り絞って次の言葉を紡ぐ。
「あ、はい。そ。そうです。ぼ、僕です」
緊張から出たそのような言葉にも構わずに、水の妖精と呼ばれたその美しい女性の造形は、鷹揚に構えて慈愛に満ちた目を向けてコン太を見つめる。
『恐れることはない。願いを具体的に申せ』
問われたからには答えるしかない。でもさっきの失敗もしたくない。コン太は、必死になんとかして言葉を紡いてみた。
「さ、逆さ虹さんを、僕たちのパーティにご招待したく存じます」
『ほう。逆さ虹とはな。これはまた、変わった求めのことよ』
驚いてみせる水の妖精。
だけど何だか事前に知っていたみたいな、いたずらっ子が見せる、わざとらしい雰囲気を感じる。それでも必死なキツネのコン太は、可能性に賭けてみたい。
「あの……可能でしょうか」
『良い。叶えて進ぜよう。だが一つ、せねばならぬことがある』
すんなりと承諾する水の妖精。だけど何かしないといけないらしい。
「一つすること? それこそ可能なことでしょうか」
何せ、このようないたずら好きな雰囲気がある。それに僕は、ここに突然のこのこと来て、いままで何もしなかったのに、どんぐりだけを投げ入れて無理なお願いをしている。だから、その仕返しに無理な要請を受けさせられて嘲られてしまうのかもしれない。
でも、ここまで来たんだ。覚悟を決めよう。
そう思って、コン太は歯を食いしばって、その回答を待った。
『何。簡単なこと。あの丘の頂の木に生る‘黄金色のどんぐり’を取らねばならぬ』
「‘黄金色のどんぐり’?」
その‘黄金色のどんぐり’存在はキツネのコン太も話の中だけだけど知っている。それが生っているという丘の場所も。
キツネのコン太は考える。
実物を見たことはない。それでも、捉えどころのない、空の上にある“逆さ虹”とは違って、‘黄金色のどんぐり’は、木に生る植物の実だ。
それに、僕が生まれるよりもかなり昔の話だけど、それを持って帰った来た者がいるという話を聞いたことがある。だから実際にそれが存在している可能性は高いと思う。
だけど、その丘にたどりつくまでの道は、このどんぐり池に来るまでの道よりも何倍も大変だといわれている。なので不可能ではないだろうけど困難を伴うものになるだろう。
水の妖精は、にこりと微笑む。そしてそのコン太の考えを読んでいるかように、慈愛に満ちたとても優しい笑顔で言う。
『そう。その‘黄金色のどんぐり’。それを手に入れたら、昼が一番短くなる日の夕方、逆さ虹がかかる木の下に置くが良い。わらわは、‘黄金色のどんぐり’を仲間と共に協力して取り行くことを勧める。そなたに幸あらんことを』
これは本気で僕のことを想って言ってくれているんだと、コン太は思った。
はたまた、どんぐり池全体が、大きな蛍のように青白くぼうと光り輝く。
それと同時に、キツネのコン太の視野は暗くなり、気が遠くなった。