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72話 『愛すべき▅▂▅▅』

 

 しんしんと雪が降る、穢れを知らない純粋無垢な小さい花が三人の肩にのる。


「榑、石…?」

「雪乃さん、ごめんなさい、それと、…ありがとう」


 李彩音は雪乃を後ろから抱きしめ、瞳を閉じさせる、優しく、割れ物を扱うかのように柔らかに抱きしめた。


「もう、貴方は傷つかなくていい、私なんかの為に傷つかなくていい… 貴方は絶対に幸せにならないと駄目」


 自分の事は置いて逃げろ、オブラートに包んでいる言葉はこういうことだ。

 流れる涙は雪乃のうなじを濡らし、雪乃の背中には慎ましくも柔らかい物が押し付けられている。


「ごめんなさい ”休んで”」


 李彩音の言葉は甘く、どんな魔法よりも魔力が込められ、どんな誘惑よりも艶やかに雪乃の体を深い眠りへと誘う。


「待ってくれて感謝するわ、リズム」


 丁寧に雪乃を壁際に優しく置いてリズムに話しかける。


「…」


 リズムは何も言わない、ただ、恨めしそうに李彩音を見つめていた。


「……………貴方はどれ程の苦しみを与えれば気が済むの? ねぇ? 私がそんなに憎い? 私が貴方に何かした!? ねぇ! 教えてよ! 私がどんな罪を犯したのよ!? ねぇ!? ねぇ!? 教えてよ…」


 リズムの瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れ出す、李彩音の感情を元に作られたとはいえ、元々は何の変哲もない小さな悪魔、もしかしたら、ハスディアに仕え、雪乃と交流していたのかもしれない、もしかしたら、こんな苦しみを背負う必要もなかったのかもしれない、そんな未来の可能性があるにも関わらず、その道を李彩音が負の感情を植え付け奪った、運命之神ウェルガマとは、運命をつかさどるその力は、残酷で、代償は、運命を変える代償を払うのは、変えられた本人という、とても神とは呼べない代物だ。


「いいえ、貴方は何も恨まれるようなことはしていない」

「だったら! なんで! 私なの!?」


 憎悪を込めた魔力、それら一つ一つが李彩音に向かって放たれる。

 それを一つは断ち切り、一つは羽で弾き飛ばし、一つは盾で受け止める、だが、リズムの憎悪を全て受け止めるには、まだ、李彩音の覚悟は足りていない。


「偶然、よ、ただの偶然、たまたま近くにあって、使いやすそうだから貴方を使ったの」

「……あんたは、一体どこまで私達をコケにしたら気が済むんだ!!! 悪魔を!! 天使を!! 命をなんだと思っている!!」

「勘違いしないで、私は貴方達に頼んだのよ? 選択肢は与えた、答えも見せた、どういうデメリットがあるかも、メリットがどんなに小さいかも説明したわ、私が教えれる事は全て教えた、そして、着いてきた、違うのかしら?」


 李彩音は決して極悪な人間ではない、説明もしたし解説もした、分からない事など無いように一から百まで全て教えた、そして、それでも着いてきた者達のみに運命之神ウェルガマを使った。


「……ッ! …うるさい! それでも! なんで私にだけ負の感情を入れたの!?」

「それこそ覚えていないの? 貴方が言ったのよ『貴方の背負う悲しみは私に任せて貴方は神様らしくふんぞり返ってなさい』って」


 リズムは覚えていない、何も、狂う前の記憶は全て憎悪と嫌悪、怒りと悲しみに塗り替えられた、人の心をなくした悪魔としか呼べないだろう。


「知らない! 知らない! 知らない!! 私はそんな事知らない!? なんでよ! 分からないの! どうすればいいのよ!!」

「…私が許す、貴方の心の傷は私が付けたもの、それを私が許す、ってのは少し、おかしいかな?」


 首をかしげ、小さく口角を上げ困ったような笑みを浮かべた李彩音はとても魔王と呼ぶには無邪気すぎた。


「……ぁ ……ぅ」


 うん、そう言いたかった、李彩音の負の感情とリズムの心の底では許しを待っていた、謝るよりもさきに、許して欲しかった、勝手に裏切り、勝手に怒りをぶつけ、勝手に当たった、でも、謝りたくはない、まるで子供のワガママだ、それを、何より生み出した母に許して欲しかった、ただ、それだけのためにリズムは何をした? 姉妹のように育てられたアルゴを殺し、あろう事か母の想い人を殺しかけた、それでも母は許してくれる。


「どうしたの!? リズム!」


 異変は唐突に起きる、リズムの体に異変が、骨の崩れる音と肉がちぎれる音、リズムの魔力を制御していたのは強烈な負の感情、それが薄れた今、体は崩壊へと向かったいた。


 虚空であり、泥であるその体はいつ崩れてもおかしくはない、ただ、それをどうにか出来るのも虚数である彼女だけだ、戦いという目的が達成出来ない以上、崩壊は免れない。


「…ヤダッ、ヤダヤダヤダヤダ、まだ死にたくない、まだ死ねない、ちゃんとまだ謝ってない、こんな死に方はヤダ…… ごめ━━━」


 通常ではありえない速度で成長し、通常ではありえない速度で朽ちていく、これも、一種の摂理、なのだろう。

 ふふ、この世界に神がいるのならそれはきっと、この世界の事が大好きで、この世界に巣食う”ヒト”が大嫌いなのだ。


 ようやく救われるはずだったリズムはその直前に朽ち果てた、これを悪意と呼ばずしてなんと呼ぶのか、飛びっきりの絶望を見せて李彩音の手に触れる直前に壊れた。


 李彩音は状況を理解できていない、急に苦しみ出したかと思えば涙を流して拒絶し死にたくないと言って崩れ落ちた、じわじわと脳の中では答えが出ていく、”死んだ”と。


「うぐっ、おエッ」


 見知らぬ有象無象が何億死のうと関係ない、ただ、目の前で人の形が崩れ落ちるのは過去のトラウマを思い出す、初めての恋で、初めて愛した人を失った、あの日を。



 追い打ちをかけるかのようにビリビリと大気が揺れ、城は地震でも起きたかのように蠢く、この城は李彩音が作り出した魔力を組み込んだ城だ、核などでの生半可な上位魔法ではビクともしない程の強度を持つ、それが揺れる、その意味はこの城の魔力そのものに干渉している者がいるのだ。


 おおよその見当はつく、この城に練りこんだ魔力は”深淵之王(イ=ラ)”によるものが大半だ、それに干渉するということは、現在の所持者がこちらに到着した、という事にほかならない。



 コツ

 コツ


 ゆっくりとした足音が三人分、今、このときを持って榑石 李彩音の物語は最終局面を迎える。


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