第1章 星羅
第一章 星羅
「ただいま」
星羅の声に応える者は誰もいない。誰もいないリビングの扉を開ければ、目の前の食卓には毎度のことながら母からのメモが置いてある。
~星羅へ~
おかえりなさい。冷蔵庫にカレーの具材が入っているので、作って食べてね。夜更かしせずに、戸締まりをしてから寝てください。 母より
「お母さん・・・・、仕事の合間にカレーの具材買ってきてくれたんだ。私が行くからいいのに・・・・」
星羅の母である菜月は、酒と女癖の悪かった夫と別れて以来、バイトを掛け持ちしながら休む暇もなく働いている。高校2年生の星羅は、そんな母の身体が心配でたまらなかった。だが、自分にできることは家事を手伝い、母に迷惑をかけないでいることだけだ。彼女はそれが歯がゆくてたまらなかった。
メモにあった材料を使ってカレーを作り、星羅は一人食卓にむかう。両親が離婚をしたのは3年前のことだが、それ以前から星羅は一人で食事をすることが多かった。というのも、父はろくに働かず外に飲みに出かけてしまい、母は仕事で帰りが遅かったからだ。
誰もいない部屋には、テレビの音と食器の音が響く。テレビではよく知らない芸人が一発ギャグで観客を湧かせているが、星羅は画面に目を向けることはほとんどない。彼女がテレビを付けるのは、声が聞きたいからだ。一人で食べる食卓に、誰かの声がほしかった。
星羅の部屋の時計が22:00を指すと、彼女は勉強机から離れ、図書室で借りてきた本を片手にベッドに腰掛けた。眠る前の日課である読書タイムだ。
今日借りてきたのは、魔法使いの少年と国を追われた王女の物語だ。常に誰かに守られて生きてきた王女は、ある日父王を殺した罪に問われ死刑判決を受ける。もちろんそれは誰かの陰謀で、王女は泣く泣く国を出て真の犯人を見つけ出すという内容だ。
物語に夢中になっていた星羅は携帯の着信音で飛び上がった。
~もう寝ましたか?また本に夢中になったりして遅くまで起きてちゃだめよ。おやすみなさい~
着信の相手は母だった。携帯画面の時計が23:00になっていることに驚きつつ、星羅は慌てて返信を返す。
~今寝ようと思ってたところだよ!夜勤の仕事は順調?あんまりムリしないでね。おやすみ~
電気を消した部屋は、カーテンの隙間から漏れてくる外の灯りでほんのり明るい。うっすらと見える天井を眺めながら星羅は空想に浸った。これも星羅の日課だ。空想の内容は日によって違うが、非現実的な内容であることはどれも一緒である。今日は直前まで読んでいた本と同じように、自分はどこかの国の王女で敵に追われるという設定の空想にした。
星羅は敵に追われている。必死で逃げるが恐怖で足がもつれ、思うように走れない。ドレスの裾を踏んづけ、星羅は派手に転んだ。
~もう無理!!~
背後に迫った追手が剣を振り上げるのを背中に感じ、星羅は目を閉じた。とその時、追手が「ぎゃ!」っと叫ぶのと同時に、誰かが星羅を引き起こす。星羅が慌てて振り返ると、背の高い男性が彼女と追手の間に立っていた。
星羅の空想はそこで終わり、自分を助けてくれた男性の顔を思い浮かべる前に眠りに落ちた。
リリリ、リリリ、リリリ
目覚まし時計の音で星羅は目が覚めた。ベットの上で伸びをし、制服に着替えようと布団から出ると、リビングから物音がすることに気がついた。
~お母さん!~
彼女は急いで身支度を整え、リビングへ駆け込む。
「おはよう、星羅。そんなに慌ててどうしたの?」
母親の菜月が驚いた表情で笑っている。
「えっと、リビングで音がしたからお母さんが帰ってきてるんだと思って。寝なくていいの?お昼の仕事は?」
食卓には朝食が並んでいる。普段なら夜勤から帰ってきた母は、昼の仕事に備えて眠ってしまうので朝食は星羅が作るのだ。
「シフトを交換してほしいって頼まれたから、今日は夕方まで仕事ないの。たまには母親らしいことしないとね。ほら、早く食べちゃいな。ぼけーっとしてたら時間なくなる」
「う、うん」
久しぶりに母と食卓を一緒にすることができた喜びで、星羅の頬が緩む。
「学校はどう?クラス替えから1ヶ月経ったけど慣れた?」
「うん、慣れたよ。今度、球技大会があるんだ」
「こんな時期に?去年はもっと涼しくなった時期だったよね」
「今年から変わったんだよ。私、ソフトボールに参加するの」
「へえ、星羅がね」と菜月が笑う。
「あんた、昔から運動苦手だけど、なんでかいつも本番になると成績いいんだよね」
菜月の言うことは間違っていない。星羅は運動が苦手で、練習では思うように結果が振るわないが本番になると思いがけずいい結果が出るのだ。
「ホームラン打ってみせるから、結果楽しみにしてて」
「楽しみにしてるわ。星羅、時間大丈夫?」
テレビの時計が残り10分で家を出る時間であることを示している。
「やばい、急がなきゃ」
「ほら、お弁当!忘れないうちにかばんにいれなさい」
「お弁当・・・・、ありがとう」
働いて疲れた身体で作ったのだろう。母の優しさに思わず涙ぐみそうになるのを、星羅は何とかこらえるのだった。
「星羅、おっはよー」
クラスメイトの愛理が元気よく教室に飛び込んできた。
「おはよう。愛理はいつも元気だね」
「元気が取り柄だからね。あ、今日の数学予習した?」
「うん」
「さすが、星羅だね。問6だけわからなかったんだけど、みせてもらってもいい?絶対そこ当たるの」
愛理が拝むようにして手を合わせる。
「いいよ。あ、愛理、古典の予習ってした?」
「うん。あ、もしかしてわからないところあった?」
「うん。今日絶対当てられる日なのに訳せなくって」
「いいよ、いいよ。私、古典は得意だからさ。ほら、ノート貸したげる」
「ありがとう、助かるよ。古典の先生、間違えるとおっかないからさ。はい、数学のノート」
「ども。そうそう、わからないから勉強してるのに、答えられないとめっちゃ怒るのおかしいよね。そこ、教えるのがあんたの仕事でしょって言ってやりたいわ」
帰りのホームルームが終わり、教室が賑やかになる。これから遊びに出かける者、バスの時間に遅れそうで走って教室を出て行く者もいる。星羅と愛理は清掃当番のため、ある程度部屋から人がいなくなるまで黒板の前に立って教室を眺めていた。
人が少なくなり、教室の清掃を始めると遅れて当番の男子が2人入ってきた。
「わり、遅れた。あ、俺も机運ぶね」
「古川、小倉、遅い!」
愛理が腰に手を当てて怒る。
「ほんと、悪かったって」
掃除も終わりに近づいてきた頃、担任が愛理を呼びにやってきた。
「ごめん、星羅。私、ちょっと行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
愛理と担任がいなくなると、古川と小倉がふざけ始める。
~愛理なら、この2人にも掃除するように言えるのに・・・・。私にはできないな。うざいと思われたくないし、私がやればそれで収まることだしね~
「あとは、ゴミ捨てだけだね」
「あ、悪いね。なんか全部やってもらっちゃって。ゴミ捨ては、俺と小倉でやるよ」
「え~、俺帰ってゲームやりたいんだけど。古川やってよ」
小倉は帰る気満々でいたようで、あからさまに嫌そうな顔をした。
「お前なあ、最後くらいはちゃんとやらなきゃ駄目だろ」
~何をいまさら・・・・。愛理がいなくなってから、全部私に任せてたくせに~
「いいよ、私やっておくから。2人は先に帰って」
「え!まじで。星さん天使だわ」
「星」とは、星羅の名字だ。
「星さん、本当にいいの?」
「いいよ、愛理を待ってるついでにやっておくから」
「なんかごめんね。じゃあ、俺ら帰るね」
古川と小倉が教室を出て行く。
「星さん、なんでもやってくれるから楽だわ」
廊下から小倉の言葉が聞こえてきた。古川が「ばか、聞こえる」と慌てて止める声も聞こえたが、小倉の言葉はしっかり星羅に届いていた。
~ムカつく。私は便利屋じゃないのに~
最初に感じたのは小倉たちへの怒りだったが、徐々にそれは自分自身へと向けられていく。
~私も、私よ。なんで「ちゃんとやって」の一言が言えないのよ~
「ちょ、星羅。なんで一人でやってるの?」
職員室から戻ってきた愛理が驚いている。
「なに?男子たち帰ったの?」
「うん。私が帰っていいよって言ったの。掃除やるの面倒くさそうだったし」
それを聞いて愛理は呆れたようにため息を付いた。
「あいつら、ほんとダメ男ね。女子1人にこんなことさせて情けない。星羅もだよ。全部自分でやらなくていいの。これはみんなでやる仕事なんだから、星羅が全部引き受けなくていいんだからね」
~愛理の言うとおりだ・・・・~
星羅はゴミ袋を片手にした愛理が「帰ろう」と教室を出ていくのを黙って追った。




