プロローグ
始まりは、一体いつだったのだろうか。
誰も知らない――――。
ただ、気付けば彼の周りの人間は、何らかの形で消えていく。
誰もが疑った。
家族も親類も学校も町の人間も。
それでも、彼がやったわけでも、彼が悪いわけでもない。
成す術もないまま、一月に一本以上は、出席簿に横線が増えていく。
「はぁ…。まったく、この歳で葬式慣れするなんて、侘しすぎるだろ」
制服である黒地に青のラインの入ったブレザーに、香典返しの袋を持って、香月綵菟は薄暗い路地を歩く。
綵菟は灰色の曇天のなか、石を蹴りながら、亡くなった友人との思い出に、思いを馳せる―――――。
『ねぇ綵菟』
いつもそいつは俺を追いかけて、やさしい声で俺の名前を呼んだ。天真爛漫という言葉が、とても似合う、俺の生涯の親友。
『綵菟、綵菟。ボクね、睦瑳君が悪く言われるのは許せないよ。彼が何したの?獸だってそう。獸も悪くない。だから、彼とは絶対に離れない。獸も嫌うつもりないし、綵菟も同じ気持ちでいてくれるでしょう?』
そう言ったのは、ほんの三日前なのに。
――――そう。睦瑳は悪くない。あいつのせいでは、絶対にない。
「綵菟…」
沈んだ重低音の、かすれた声。惜しむらくは、その声に捨てられた子犬のような響きが混じっていることだろうか。
綵菟の頭上に広がる曇天のように、沈んだ重い心のまま、ぼんやりと思う。
「睦瑳?」
ああ。いつもそうだ。こいつは、悪くない。本当に真っ直ぐでいい奴なのだと、皆知っている。こいつでなければ、ここまで生きては来られなかっただろう。
綵菟は張り裂けそうな心の痛みに同調するようにして、自分と同じ格好をした睦瑳に笑いかける。
きっと自分には、それしかできることはないから。感情が半分麻痺したような自分とは、違う。綵菟には睦瑳が眩しかった。
「あの………柚弥のこと………」
柚弥。それが、昨日亡くなった綵菟の幼馴染みの名前だと気付くのに、長い時間がかかった。
相良柚弥はもう、この世にはいない。
今さらながらに、その哀しみが押し寄せてくる。けれどもそれは、星の瞬きのように小さなものだ。いや、それだけでもあったことが不思議な位だ。
柚弥は綵菟の一番の親友で。親同士も親友で。睦瑳も同じで。三人で一緒に育ってきた。
どんなに歳をとってもずっとそれは変わらないのだと、根拠もないのに三日前まで信じていた。この町に蔓延る死が他人事ではないと、きちんと理解していた筈なのに。理解したつもりになって、その実、自分の力に驕っていたのかもしれない。
三日前の夜、柚弥が亡くなるその時まで―――――。
綵菟はその日、普通に部屋で読書をしていた。
あまりにも頻繁に人が亡くなるものだから、気持ちなんて浮かぶ筈もなく、この日綵菟が読んでいたのは『無情になりたくて』という、悲しい話。
『どんなに貴方が好きだって、貴方は先に死ぬ。残された哀しみを癒す術を知らないから、無情になりたい。そうすれば悲しむこともない。後は時間が解決してくれる。貴方を好きだった気持ちも、貴方の思い出も、全部忘れられる……。私はこのまま貴方を忘れて平凡な生活を送るなんて器用な芸当、こうでもしなきゃできるわけないわ。私は悪いとは思わない』
死に逝く最愛の人へと送られるその手紙の言葉が、染み渡る。
綵菟は自覚していた。
自分がこんなベタな言葉にさえ反応してしまうほど、精神的に参っていることを。
それがまだ、綵菟が普通の人間の心を残している証拠であることも。
綵菟の両親もそれが解っているから、何も言わない。
けれど、睦瑳から離れろとか、この街を出ようとかは五月蝿い。
普通の場合は母親が五月蝿いものだが、この場合は父親の方が五月蝿かった。
綵菟の父・栩月は、この街の人間ではない。
だから知らないのだ。 この街で産まれた人間は、大学に上がるまでは絶対にこの街に籍を置く。
その理由を。
この街は東京の外れで、本来ならベッドタウンになっていてもおかしくない場所だ。周りは皆そうなっている。
だが、この街だけは、そうなっていない。
―――――雪廻町。
それが、この街の名前。雪が廻るとはどういう意味なのかは、郷土史を紐解いても載っていない。
それなりに栄え、活気のある街だし、最新設備もばっちりなのに。
―――――東京の孤島。
そう呼ばれるほど、この街は不思議に満ちた街だ。
しきたりというには徹底し過ぎている風習によって支配され、決して背かない。
―――――背けば報復が待っている。
当然のことながら、栩月はそれを信じていない。
それは、この言葉を只の風習だと思っているから。どんな恐怖か、判らないから。自分には関係のないことだから。
そして運良く、まだ視ていないから。
―――――獸の艶然で凄絶なその姿を。
綵菟は頁を繰る手を止めて、窓の外を見る。
―――――今夜は、多分誰も死なない。
静かな闇の広がる街は、ざらついた空気も、誰かの意志も気配さえも感じさせない。
この街で代々生まれ育ってきた家のものだけが持つ、特殊な第六感。
夢で未来を知ったり、空気や風の流れ、星の位置、そういったものから感じとる能力が特に優れているというくらいのものだが。
綵菟や睦瑳は、特に長けていた。
――――そして、死んだ柚弥は。
柚弥も同じようにして育ってきたし、綵菟や睦瑳に比べれば精彩を欠いたが、それは単に二人の能力が異常なまでに高すぎるだけで、上の中、という具合だった。
―――――その柚弥が死ぬなんてことは、普通ならありえない。
それも、交通事故で。
雨で凄く滑り易くなっている路面を大型トラックが走行中に横転し、横断歩道の前で信号待ちしていた柚弥を下敷きにした。
柚弥は即死し、トラック運転手は現行犯逮捕された。
運転手は雪廻町の住民ではなく、東北から東京に移動中の男だった。
もちろん、柚弥なら事前に察知してその道を通らないはずである。
綵菟にも柚弥に死相は感じられなかった。
――――――それなのに、柚弥は死んだ。
人伝に聞いた話によると、逮捕されて事情聴取された運転手は、何かに手を引っ張られたと思ったら、手が勝手に動いて、気が付いたら倒れていたのだと主張しているらしい。
そんな如何にも言い訳がましい釈明を警察は信じるわけもなく。
だが、地元の住民は皆信じた。
否、地元の警察官は当然のように気付いただろう。だが警察はなにより体裁を重んじる腐りきった公的組織だ。その中では、そんな発言は迂濶にできないのだろうと、綵菟は思う。
住民は同時に、また《・・》なのだと、嘆き悲しんだという。
―――――これは、報復なのだ。裏切り者に対する。
柚弥に罪はない。
―――――報復は、無関係な人間に行く。
けれど決して、遠くもなく。
報復が起こる以上、この街には裏切り者がいる。
その人間が裏切り行為を止めない限り、その惨殺は続く。
けれど決して、睦瑳ではない。
――――だが本当に、“報復”なのだろうか。
睦瑳は、逆に言えば狙われているのではないだろうか。
――――――報復に見せかけた、殺戮と惨殺と暇潰しの隠れ簑として。
綵菟はその獸の姿を脳裏に浮かべ、ため息をついた。
―――――遥か太古の昔より、この街に巣食う、謎の存在。
ただ獸としてのみ知られ、恐れられてきたその存在の真意を知っているのは、この香月家と、睦瑳の家系の人間だけだ。
――――――香月は栩月の姓で、旧姓を珂欟という。
それは、この街の巫覡と、守護の家系だった―――――――。