1-(5)転換、あるいは風上より
そこは、夢のようでどうしようもない現実だった。
空から降り注ぐのは、雨かはたまた夥しい量の人の血か。足元にできた水たまりは、それらが混じってどちらが雨水かどちらが血なのか既に分からない。
そして、その中にただひとり、青年は、麻桐幽理は佇んでいた。しかし、立っているのは、生きているのは彼一人。その他は、もはや糸を切られた操り人形のごとく、ピクリとも動かない。血色に染まった水たまりの中に臥して、その息の根を切らしていた。
かといって、そんな青年も無傷というわけではなかった。いや、正確には、つけられたはずの傷は、そのほとんどが治りかけていた。
わずかに覚えている、最初の戦争の記憶。その本性を知った瞬間、彼は、ただ自分の掴んだものに恐怖を覚え、そして狂気した。そして、もう二度と、『普通』には戻れないことを悟ってしまった。もう、永遠に、戻れないことを。
× × ×
「‥‥‥‥‥‥夢、か」
幽理が目を覚ましたのは、果たして見た夢があと少しといったところだった。しかし、部屋に明かりが点いておらず、その上で外がやや薄暗くなっていたことについて、だいぶ寝すぎていたことを理解する。
「……5時間か。相当、寝すぎたみたいだな」
5時間。普通の人からすればなんとでもないものだが、彼の場合は、この5時間でいつ自分が狙われてもおかしくはなかった。しかし、やはり民家ということもあるのか、非常に異常なほど、何もなかった。まるで、空から突如槍が降り注いでも、不思議でないくらいに。
その時、今まで気づいていなかったのか、彼からしたら久々に聞くであろう生活音が聞こえてきた。そこへと自然に足を進める。どうやら、音は台所から聞こえてくるらしい。そこへと足を踏み入れる。
台所に立っていたのは、鼻歌交じりに包丁を持った手を動かしている奏多だった。
「……奏多。何をしている?」
「あ、おはようございます幽理さん。見ての通りです。料理ですよ、料理」
「それは分かる。だが、作るには少し早すぎないか。まだ6時半を下っていない」
幽理の言っていることは最もだった。時計が示す時間は、6時10分を行くか行かないかといったところ。家庭差もあるとはいえ、早いことは明確だった。
「それは分かってますよ?でも、自主練習もしないといけませんし、何より」
「ひさしぶりですから。誰かと食卓を囲むことなんて」
「……あぁ」
誰かと食事をする。それは、常に戦いに身を委ねていた幽理にとっては忘れていたことであった。最早、数十年はしていなかっただろうそのことに、ただ呆然とするしかなかった。
「そう、だな。忘れていたよ。今まで、していなかったも同然だったからな」
「そうですか。じゃあ出来ましたので、席に着いてください」
「あぁ、分かった」
そう言って席に着くと、ふんわりと味噌汁の食欲をそそる匂いが漂う。食卓を見ると、焼き鮭の切り身に、青菜の和え物、まさしくもって質素と言える、そんな夕食だった。
「じゃあ、いただきます」
「……いただきます」
奏多につられ、幽理もその言葉を口にする。向かいに座っている奏多の顔は、どこか嬉々としていた。
「……そんなに、誰かと卓を囲うことが楽しいか?」
「楽しいですよ。ここ3年間は、ずっと一人で食事をしていたようなものですから」
「一人で、か。じゃあ、3年前は誰かと食べていたのか?」
「はい、祖父と二人で暮らしてましたので」
「……二人?両親はどうした」
二人で、という言葉に違和感を感じたのか、幽理は箸を止める。
「……両親、ですか。もう、いませんよ」
「いないって、まさか」
「勘がいいんですね。……私が9歳の時に、事故で死んだんです。相手のよそ見運転で、即死、でした」
「……悪いことを、聞いたな」
「い、いえそんな。いつかは話さないといけないことでしたし、何より」
「何より?」
「今の、この時が一番楽しいですから」
× × ×
「ところで、気になることがあるんだが」
とかく、そのあとの食事はわずかに談話を交えながら終わり、ふたり揃って食器の後片付けに入った途端、幽理は気になっていたもう一つのことについて奏多に問いかけた。
「はい、なんですか?」
「その、作っているときに言っていた自主練習とはなんのことだ?」
「……それですか。私、弓道やっているので夕飯のあとの日課なんですよ」
「弓道か。練習を見てもいいのか?」
「練習ですか……。それはさすがに、ってはい!?」
危うく食器を落としかける奏多。どうやら、恐ろしく動揺したらしい。やや色白の頬が一気に赤く染まる。
「そ、そそ、そういうことでしたら、見てもいいですよ?まだ、この家の3分の1程度しか紹介していませんし?」
「……なぜ、挑発的な言い方になっている?」
「もういいです……」
× × ×
結局、なんやかんやで練習風景を見せることになってしまったのは、奏多にとっては計算外のことだったようで、そそくさと道場のほうへと幽理を案内せざるを得なくなった。
「……それにしても、ずいぶんと広いんだな。一般家庭の域でない気がするが」
「何でも、祖父の家系が代々この地域の地主をしていたらしいみたいです。家が広いのはそのせいですけど、小さいころは何度も迷いました。……っと、着きましたね」
そう言いながら、いつの間にか道場の扉の前に来ていた。時刻ははや7時半を過ぎている。奏多はあらかじめ持ってきていた鍵を使い、慣れた手つきで開錠していく。
「っと、開きました。どうぞ」
と言いながら、どこか年季の入った鈍い音を立てて色あせた木の戸を開いていく。
その先に広がっていたのは、一人で練習するにはあまりにももったいないような、立派な弓道場があった。見た限りでは近的場のようだが、射場と的との間に敷かれた芝もどこか若々しく見える。
「……すごいな」
「あ、ありがとうございます。えっと、その……」
「どうした?」
「……着替えてきて、良いですか?」
「あ、あぁ。構わないが」
「じゃあ、失礼、します」
さすがに、練習とはいえ着替えることは当たり前と考えていた奏多にとって、これのことはやや切り出しにくかったようだ。後ろに設置されていた更衣室にいそいそと消えてしまった。
それを確認した幽理は、改めて的へと体を向ける。確かに人はいたのに、どういうわけか孤独に浸ったような、そんな感じに浸らせるような場所なのか、その風情に幽理はただ呆けていた。
「……懐かしいな。自分の家でもないのに」
思わず、その光景に彼は微笑んでいた。自分の家に帰ってきたような、そんな感覚。それでも、違うことはある。もう、彼には帰る家など、どこにもないのだ。
「……さん。幽理さん」
「っ、すまない。少しふけっていた」
「そうですか。まず、着替え、終わりました」
「あぁ……」
耽りすぎてしまったのか、奏多が後ろに立っていたことに気づくのが遅れていたようだ。とりあえずは着替えたということで、後ろを振り返る。そこに立っていた奏多は、肩甲骨の中ほどまで伸びている髪の毛を簪でまとめ、白筒袖の上衣を襷にかけ、紺の袴を着けていた。先ほどとは違う、清廉な格好に、幽理も思わず息をのむ。
「……いかが、ですか」
「……正直に、似合っている」
「あ、……ありがとう、ございます」
まだ照れているのか、奏多の顔は以前赤く染まったままだった。それでも、何千回とやって刷り込まれているのか、弓を取る手つきには一寸に狂いもなかった。しかし、そこで幽理が何かに気づく。
「奏多」
「はい、どうかしましたか?」
「お前、左利きなのか?」
「……何でわかったんですか」
「弽なんて、右のものしか僕は見たことがないからな。左もあったのか」
弽というのは、弓を引くときに装着する手袋のようなもの。たいていは、右手に着けるものが殆どなのだが、奏多が着けていたのは、右手ではなく左手だった。
「これですか?オーダーメイドで注文してもらったんです。なかなか調整が聞かなくて大変でしたが……」
そう言いながら、弓へと手を伸ばす。そして、自然と足踏みの状態へと入った。そこからは一気に射法八節にのっとってか、迷いのない動作で一気に弓を弾いた。28m先の的に乾いた心地よい音を立てて矢が刺さる。
「……ど真ん中、ですね」
「分かるのか?」
「単純な勘ですけど。小さいころから祖父に教わってやってましたから。それと、あと2,3本打つので部屋に戻っててもいいですよ?」
「……いや、しばらくは見てる。弓道などまじまじと見たこともないからな」
「そうですか」
事実、このような稽古の場を見ることもない幽理にとっては、やはり貴重な体験なのだろう。それを気にしつつなのか、それでも流れるような動作で奏多は弓をつがえる。そして、2本目を打つと同時、そよ風程度のものだろうか、心地の良い夜風が吹き渡る。的のほうを見ると、僅かに中心からはそれていたものの、それでも当たっているのが見えた。
僅かに奏多の表情が落胆しているのが見えたが、しかし気にしていないようだった。それでも、まだ吹き続けるそよ風に異変を感じたのか、幽理は自らの中に隠している呪詛に静かに集中する。すると、突如、
『ちょっとちょっと。いくらなんでも落ち着きすぎでしょ?もう少し焦ったりしてもらわないと~』
と、どこか間の抜けた少女の声が、先ほどの風に乗って聞こえてきた。
「……お前には、緊張感というものがないのか?僕はこの状態、いつ狙われてもおかしくないというのに」
『そう思えるだけまだマシでしょ。私なんて狙ってくれる相手がいないものだから、寂しいもなんのそのだもの』
「僕としては、そちらの方がマシな気がするが、浅葉」
『ハイハイ。でもその様子じゃあ、直でしゃべっているように聞こえるんですけど。周りに誰かいたりするんじゃないの?』
そこに関しては、浅葉と呼ばれた少女の言うことはもっともだった。現実、近的場の広さもやや狭いため、近くにいる奏多には聞こえているはずなのだ。
「そこ関しては問題ない。お前は、僕の技量を見誤っているのか?」
『ほっほう、気配遮断か。貴方のそれはだいぶ高度だよね。それとも、30番目と長く付き合っているうちに、同化しちゃったとか?』
「それはない」
バッサリと断言したとはいえ、浅葉の言ったことは本当だった。事実、幽理の立っている所には、呪詛の一部が張られている。
「それで、何の用だ」
『いやぁ、新しい相棒を見つけたとかで風の噂が来たんだけど。どう、使えそう?』
「やや事情は複雑だがな。それでも即戦力になるとは思う」
『へえ……。でもさ、勘違いしないでよ?そういう行為が、誰かを傷つけるきっかけになることをね』
「……それは、分かっている」
『それなら結構。じゃ、アタシはここで』
自然と風がやんだのは、その会話が終わってからだった。時間にして5分ほど。長いようで短い、静かなひと時。
「……あの、幽理さん?終わりましたけど」
「ん、あ、あぁ。そうか」
「またボーっとしてたみたいですけど、大丈夫ですか?」
「あぁ、問題ない」
「そうですか……じゃあ、戻りますよ」
いうや否や、そそくさに踵を返す奏多。すでに着替えも終わっていたらしく、普段着に戻っていた。それに続き幽理も戻ろうとする。戻ろうと、した。
しかし、先の会話がまだ頭から離れずにいた。自分のしていることが、誰かを傷つける。もう何十回も、経験したこと。それでも、いまだに怖かったのだ。自分のせいで、誰かを傷つけることに。
× × ×
「ん、くふぁ……。にしても、いつの間に平和ボケしてんだか、あの人は」
同刻。浅葉と呼ばれていた少女は、一花市を展望できる佐佐良山の頂上、正確には、そこに立っている鉄塔にたたずんでいた。
「いい相棒を見つけたのは実に結構。でもさ、ホントにこれだけは勘違いしないでほしいかも」
「私たちが手にしたものはさ、こんな小さな町を、臨んだだけで握りつぶせるってことをね」