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僕は、下校時間になると、誰よりも早く教室を後にしていった。いつもなら、赤木が一番だが、今日は、僕が一番。
僕は、走った。終業時間は午後の3時。駅までは徒歩で約10分少々。いつもなら早くて、午後3時23分発の私鉄の下り電車かもしくはそれ以後の電車に乗るのが、僕の習慣になっている。しかし、今日の昼、僕の携帯にメールで連絡があり、その内容に僕は、心が躍った。だからこそ、今日は早くその事実を確認したかった。目指すは、午後3時8分発。
いつもは歩いている道を駆け抜けた。今日は、風が強くて、都合のよいことに、今の僕には追い風となった。この調子なら駅まで、大体5分から6分ほどで着くだろう。
確かに間に合うはずだった。駅の前まで来たとき、飛び降りるように、改札に直通する地下道の階段を下った。しかし、ちょうど階段をおり終えたとき、僕が下ってきた階段を上がろうとする一人の老人がいた。
その老人は、階段横にある手すりを左手でしがみつき、右手には、白い杖を握り締めていた。よくある光景の1つとも考えたが、僕には、その白い杖の意味がちゃんとわかっていた。僕は、踵を返し、老人に歩み寄って語りかけた。
「おじいちゃん、手伝いましょうか?」
老人の目は、薄暗いサングラスの奥で閉じられたままだった。しかし、僕の声に反応してくれたのか、口元が緩み、笑顔で応えてくれた。
「すみません。歳を取ると階段がきつくて。」
「じゃあ、おじいちゃん。俺がおんぶってあげるよ。」
「いやいや、そんな。おたくさんがたいへんじゃろう。」
普通なら、おんぶってことはないだろう。肩を貸す程度で老人は十分だと思っていたかも知れない。
「いいんだって、今日は気分もいいし、俺から鍛えてるから大丈夫だよ。」
「では、お言葉に甘えて・・・。」
老 人は、困惑しているが、僕の申し出に応えて、僕の背中に身体を預けてきた。
「よし、いくよ! しっかりつかまっててね。」
僕は、老人にそう声をかけてるとともに、声を発することで気合いを入れた。
ゆっくり。ゆっくり。ゆっくりとしたスピードで上がった。地下道入り口前で老人を背中から降ろし、老人は、盲目にもかかわらず気配でわかったのか、僕の方をちゃんと向いて、深々とお辞儀をしてくれた。
「ありがとう。」
その言葉が、僕は嬉しかった。その地下道入り口から駅舎にある大時計が見え、針は、3時10分を指していた。だが、老人の感謝の言葉に僕は、乗れなかった後悔よりも、老人を助けた満悦感を覚える事ができた。
老人と別れの挨拶をし、再び、地下道の階段を下ろうと思った。すると、今別れたばかりの老人の声が聞えた。なんてことはない老人が被っていた帽子が飛ばされたのだ。しかし、老人は目が見えないので、あたりをキョロキョロするばかり、僕は、宙を舞っている帽子を追っかけた。
ようやく風がおさまり、帽子が地面に降り立った。僕は、その帽子を拾おうと近づくと、誰かがそれを拾ってくれたのだった。
なんと、拾ったのは、赤木。
「これは、工藤君のですか?」
風に煽られてか、彼女の長い髪が乱れていた。
「いや、あのおじいさんの・・・。」
僕は老人の方を指差した。
「そうなの。」
彼 女は僕の答えを聞くと、老人に歩み寄って、帽子を手渡した。
「おじいちゃん、この帽子、飛んできましたよ。」
彼女の声は、とても穏やかで優しいものだった。
僕は彼女の後ろで、彼女のその声にとても心が和む気持ちになっていた。
「ありがとう。今日はいい日だ。親切な若者2人に助けられた。私は幸せもんだ。」
僕はそんな老人の言葉に笑いながら言葉を返した。
「おじいちゃん、運がいいなら、風で帽子は飛ばされないよ。」
「いやいや、地獄の中に仏とはよく言ったもんだ。」
老人は笑っていた。
再び、老人と別れた。器用に杖を使い、ゆっくりとした足取りで歩いていった。僕ら2人は、その老人の背中をしばらく見守りながら見送った。
さて! と思いついたように、僕は再び地下道の階段を下りることにした。
僕が下りだしてから、後を追うように彼女が下ってきて、後ろから僕に、話しかけてきた。
「工藤君。優しいんですね。」
彼女の声色は、老人に話しかけて時と同様に穏やかなものだった。
「いや。そんなことは。」
何か、照れた。照れくさすぎて後ろが振り向けなかった。しかし、普段はあまりそんなことはしない。本音で言ってしまえば、気がつくことがあまりない。今日はたまたまなだけで。
「さっきはありがとう。」
僕は照れながら、彼女へお礼をした。
「それはどういう意味?」
「おじいさんの帽子拾ってくれただろう?」
「たまたま、目の前に落ちてきただけよ。」
僕もたまたまなら、彼女もたまたまということか。
「それに工藤君は、私にお礼することはないんじゃない?」
それもそうか。自分自身で言い聞かせるような感じで、2回頷いた。
結局急いだ甲斐もなく、僕はいつもの時刻の電車に乗った。赤木は、またしても僕の隣に座っていた。
「工藤君。急いでいたのに残念ね。」
彼女は、不意に僕に話しかけてきた。やはり、その目線は、僕には向けられず、まん前の車窓に向けられていた。声色もいつもどおりに戻っている。
「本当は、前のやつに乗りたくて走ったんだけどね。仕方ないよ。」
僕は、老人を助けたことに少々気をよくしていた。僕の表情や口調はいつもより晴れ晴れと明るいものになっていた。
「何をそんなに急いでいたの?」
彼女はどうやら、僕の行動に興味を示したのか、質問をしてきた。
「実は、今日の昼に俺の姉さんに子供が生まれんだ。早く赤ちゃんの顔見たくて。うれしくてさ~。」
「おめでとう。」
彼女の祝いの言葉は、和みを与えるものが含まれてあった。
電車は、乗り始めてから3駅目にやってきた。
「じゃあ、俺はここで降りるね。」
僕は彼女にそういったが、彼女は頷くこともなく、何の言葉も返されなかった。僕は電車から降り、改札へ向かう階段へ向かって歩き出した。その階段の方向と電車の進行方向が同じで、走り出していた電車を歩きながら見送った。
(あれ? 気のせいかな? 手振ってたな~。いや、気のせいだろう。)
一瞬、彼女が僕に向かって列車の中で、小さく手を振ったように見えたが、彼女の姿も一瞬しか見えなかった。
僕は、改札を抜けるまで考えたが、結局有り得ないと思い、自分の気のせいだと結論付けた。
それはそうと、急がねば。僕は、また走り出した。