10
その日は金曜日の放課後で、昼間の晴れ晴れとした天気から一転、空からは雨がパラパラとちらついていた。勢いは強くないが、数分歩いただけで濡れることは必至だ。
僕は、天気予報も見ていなかったせいで、傘を持ってこなかった。しかし、この程度の雨ならば、傘の必要はないと、考えたが、電車に乗る手前、濡れた状態では乗車したくない。バスに乗って、駅まで行く手も考えたが、今日に限っては、特に急ぐ用事もない。
僕は、下足場でこの雨について悩んでいた。
――晴れないかな。と思いながら空を見上げていた。その僕の、横を他の生徒たちは通り過ぎていく。その姿を幾度となく見送り、やっぱり僕もここは、走って駅まで行くしかないか~と思った。
ふと、横に気配を感じ、横を振り向いた。そこには、赤木紗耶香の姿があった。
「赤木さん?!」
いつの間にいたのだろう?僕はあからさまに驚いた!といった感じで彼女へ声をかけた。
彼女は、僕の声に気が付き、こちらを向いた。彼女もまた、僕が声をかけるまで、空を見上げていたようだ。
「赤木さん、珍しいね。いつもならとっくに帰っているのに。」
「今日は、掃除当番だったから。」彼女は淡々と答えた。
そうなのかと思っただけで、なかなか次の言葉を見つけ出せずにいた。
僕は、再び空を見上げた。まだ、雨は降っている。しばらく沈黙が続く。沈黙を打破するに一番いい、話題がある。営業マンなんかもネタ切れの際は決まって使うほど、場をつなぐには鉄板とも言える。
天候の話題だ。しかし、今雨降っていることは一目瞭然。「雨降っているね」なんて当然言えっこない。今の場合は、僕らが共通して思うことを話の切り出しに使うことが正解だ。
「雨止まないね。」
「工藤君は帰らないの? この程度の雨、男の子なら気にしないんじゃない?」
彼女もまた、何人もの生徒が、この雨の中へ果敢にも切り込んでいく姿を見ている。それなのになんで? と思ったのだろうか。
「そうは言っても、濡れたままで電車に乗ったら他の人に迷惑かかるから。まあ、ただの夕立さ、そのうち止むよ。」
濡れるのが嫌なんじゃない。他人もどうでもいい、僕自身が濡れたままで電車に乗りたくない。それだけのことだ。
「それもそうね。」
「赤木さん、傘ないの?」
そこで、思い出したように聞いてみた。
「ええ。持って来なかった。」
こんなことを思うのはおかしいかもしれない。僕の勝手なイメージだが彼女が完璧とかちゃんとした性格と思い込んでいた。僕とは違い、前の日天気予報をチェックし、寝る前には次の日の時間割を見て準備をし、床につく。そう、いわば、模範的な学生の習慣を彼女が身につけていると。どうやら、僕の過剰なイメージに過ぎなかったようだ。
「赤木さんこそ急いでるんじゃない? 今日もあそこに行くんでしょ?」
僕は彼女の行動パターンを思い聞いてみた。
「今日は、お休み。」
休み? 何が休みなんだよ? やはりあそこのビルのことが僕は気になっていた。
「そうなんだ・・・。」
そしてまた、しばらく、僕らは無言のまま空を見上げた。うっすらとではあったが、雲が東へ流れていく、西か青空が覗いていた。やはり、ただの夕立だったみたいだ。
「あ、雨が止んだ。」
僕は、屋根のかかっていない場所まで数歩歩き、両手をかざしながら雨が降っていないことを確認し、彼女の顔を見て、笑顔でそう言葉を放った。
「じゃあ、帰りましょう。」
彼女も一瞬、空を見て、大丈夫だと確認し、僕の顔を覗いながら僕にそう言ってきた。そして、校門へ向かい彼女は歩き出した。
――帰りましょう。確かに彼女は僕にそう言ったのだ。
「そうだね。」
僕は、ちょっと困った。そんなことを言われるとは思ってもいなかったからだ。
歩き出した彼女を、僕は慌てて追いかけた。
駅までの途中で、僕は、どうしても気になったことを、聞くことにした。彼女は、絶対に話したがらないだろう。もちろん、僕には関係のないことで、それを知る権利などもない。彼女にとっても、僕に教える義理もない。ただ、どうしても気になる。ただ知りたい。興味本位なだけだ。ここ数日で、僕は、赤木に少しずつ近づいているような気がした。だからこそ、湧いてきた興味だったかもしれない。
駅に着き電車に乗って、それから聞くことにした。また、彼女は僕の隣に座っていて、早くも目線が反対側の車窓の方、一点に注がれていた。
「赤木さん。やっぱり俺、気になることがあるんだ。」
彼女は、僕の方を振り向くわけでもなく、僕の言葉を聞き流したように無反応だった。僕は、彼女の反応を得ずそのまま質問をすることにした。
「あのビルで何をしているかってことなんだけど?」
僕の問いに彼女は僕の方を振り向いた。その目は鋭かった。やはり、彼女にとっては深入りしてほしくない事柄なのか。
「あそこまで見ちゃったら気になって。」
僕は、彼女のその表情に圧倒され、目をあわせられなかった。
「なんで?」
彼女の言葉は、意外にも穏やかなものだった。
「なんでって、う~ん、わざわざ急いで下校して、それにほぼ毎日通っているんでしょ? 何が赤木さんをそこまでさせているのかって感じかな?」
僕は、本当に馬鹿だった。聞くには、やはり、もっともらしい理由を作るべきだった。勇み足が過ぎた。僕は、彼女の問いに焦り、答えながら後悔していた。
彼女は、ため息をした。すると、鞄の中から財布らしきものを出した。
その中から、さらに何かを取り出し、僕に差し出してきた。
「はい、これ。」
彼女の手には、一枚の厚い色紙の紙切れのようなものがあった。僕はそれを受け取り、まじまじと見つめた。そこで、僕は、この紙切れが、何なのかわかったような気がした。
「これって・・・・・・チケット?」
「そう。今度私も出演するの。」
「ジャズダンス? 赤木さん、ダンスやっているの?」
チケットには、「ジャズダンス〜TAK〜 定例発表会」と書かれていた。どうやら自主公演らしく、手作り感がこのチケットからにじみ出ている。発表会は再来週の日曜日のようだ。
「ええ。
あのビルに私が通っているダンススクールがあるのよ。」
「そうだったんだ~。でも、なんで隠す必要が?」
「ダンスってまだまだ認知されていない所があるでしょ? だから恥ずかしかったのかもしれない。それに、敢えて話すこともないかなって思って、誰もダンスには興味ないでしょ? 工藤君も。」
彼女は、少し照れていたようだ、ダンスをやっていることは、僕から見たら純粋にすごいことだと思った。ただ、僕が興味があったかといわれれば、それを考えたこともない。彼女の言うことは正解だったかも知れない。
彼女の話を受け、僕にもあながち関係のない話とはいえなかった。僕もまた、彼女やクラスの皆に話していないことがあったからだ。
恥ずかしいということは僕も同意する。僕のやっていることは、将来に不安があり、世間的に建前としては、一目おかれているが、現実的になんでやっているの? 危険だからやめたら? 色々と批判されることが多い。だからこそ僕も、敢えて人に話すことをためらっていた。
「これ、もらってもいいかな?」
僕は、チケットを握り締め彼女に聞いた。
「いいわよ。」
彼女は、快諾してくれた。その表情には、やはりまだ照れが見え隠れしている。
「ありがとう。絶対に観に行くよ。」
これは、彼女の本当の姿を拝む絶好のチャンスだと思った。それと僕は何より、彼女からこのチケットをもらったことが嬉しかった。でも、ジャズダンスってなんだろう? ヒップホップとか社交ダンスならわかるんだけど。百聞は一見になんとやら・・・僕は、彼女の公演を楽しみに待つことにした。
「この発表会、近いのに今日休みで大丈夫なの?」
「先生が、今日その公演の打ち合わせでいないの。それに、毎日練習したからいいって訳じゃない。ダンスも一種のスポーツよ。身体が資本。適度に休んで体調も整えることが必要なの。」
「そうだね。練習しまくって追い込んでも満足するのは自分自身だけだもんね。」
僕の家は乗車した駅から5駅目のところだ。僕も今日用事があれば3駅目で降りるところだが、その用事もないので今日はまっすぐ帰ってきた。ビックリしたことは、彼女も住んでいる家は、この駅から程近い場所にあるという。当然、駅から降りても、僕らは一緒だった。
僕は、まだ尚チケットを握り締め浮かれていた。
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ! だって、こういうの初めてなんだ。赤木さんの言うとおり俺、ダンスのことはよくわかんないけど、今は純粋に観たいし、興味が出てきた! 楽しみなんだよ!」
自分でもバカだと思う。18になろうとしている高校生が、子供が初めて好きなヒーローやアニメの映画に連れて行ってもらうときのようなウキウキ感を抱いていたからだ。まだまだ、自分も幼稚なようだ。
「工藤君って子供みたいな顔するのね。」
僕はドキッとした。やはり、自分でも思うことは他の人にもそう思われていたらしい。
「そ、そうかな~」
僕は、頭をかきながらちょっと恥ずかしがってしまった。
「誠一~!」
僕らは、駅前から少し離れたところにある商店街まできた。その商店街は、僕も小さい頃から馴染みがあるため、この辺では顔見知りが多い。ちょっと離れたところから、八百屋のオジサンが手を振りながら僕に叫んできた。
「おじさ~ん!!」
僕もオジサンの叫び声に手を振って応えた。
「女連れでいいご身分だな~!」
確かに、女の子と一緒にこの商店街を歩いたこともない。おじさんも珍しかったのか、僕をからかってきた。
「何言ってんだよ! おじさん、さっさと仕事しろ~!!」
僕は、隣にいる赤木を見れなかった。恥ずかしかった。それに、彼女の反応を見るのが少々怖かったからだ。
「初戦決まったんだろう? 俺も、うちの母ちゃんと応援しに行くからな~!」
「う、うん。ありがとう!」
僕はオジサンの言葉に応えるのを一瞬ためらった。
商店街を抜けたところで、別々の方向になるということで、そこで赤木と別れることにした。
僕は、てっきり先ほどのオジサンの言葉について何か聞いてくるもんだと思っていたので少々困惑していたが、そうはならなかった。
「さようなら。また明日。」
彼女は何も触れないまま、僕の家の方角とは違う方向へ歩き出していった。
「さようなら。」
そうつぶやくように去り行く彼女の背中に言葉を返した。
僕は、唖然としていた。
――赤木さん。明日は休みですよ。