第3話 契約
俺の視点、彼女と初めて出会います。
服がない。
これから不動産屋へ行くというのに、それなりに着られるものがひとつもない。
自分のなりに対して、あまりに無頓着すぎて辟易するほどだ。
仕方ねえ、通勤用のくたびれたワイシャツにスラックスでいいや。
靴は履いていないのがあったはず。年季の入った靴箱を見ると、泥のついた長靴と真新しいスニーカー。その中に、ぐしゃぐしゃに丸めたチラシが入っている。
なんだこれ。広げてみると、新しくできるらしい店の案内だった。
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……化け猫のキャラクター? しかも、5年も前のチラシじゃねえか。
俺はせっかく広げたチラシを雑に丸めて、ごみ箱へ投げた。
甲高の足に馴染まないスニーカーを履いて、部屋の外に出ると、青空が広がり、いつになく空気が澄んでいるように感じた。
月曜の朝だが、一日有給のおかげでなんとも気持ちがよい。
俺はゆっくりとボロい階段を下り、近所の不動産屋へ向かった。
朝の9時、通勤や通学の時間帯を過ぎているからか、人や車はまばら。
歩道で犬の散歩に出くわし、飼い主と目が合い軽く会釈。
ついでに犬を見ると、ベロがはみ出ている。
さっき見たチラシの化け猫を思い出した。
下手くそながら味のある感じではあったが、シッポとヒゲの長さが異常な長さで、それが余計に不気味だった。
そんなことを考えながらも、小さな町にひとつだけある不動産屋の前に到着した。住宅街を少し外れたとこにある、少々寂れた感のある佇まいだ。
中に入ると、受付にメガネのおっさん。それと、その前には若い女性が座っている。横に大きなリュックサックとキャリーケースが置いてあった。
「あ、お客さん。そこ座って、ちょっと待ってて」
メガネのおっさんは角の破れたソファーを指さす。俺は端っこに座り、ほうっと息を吐いた。聞きたくもないが、おっさんと女性のやりとりが聞こえる。
「あんた働いてないんでしょう? ちょっと難しいな~」
「昨日までは働いていたんです。なんとかなりませんか?」
店の時計に何度も目がいく。
5分、10分と時間が過ぎていくが、一向に話がまとまらないようだ。
出直そうかと思っていた矢先、おっさんが声をかけてきた。
「お客さん、どうぞ。おまたせしました」
言われるまま、俺は女性の隣に座った。
彼女はふてくされたのか、テーブルに顔を突っ伏したまま動かない。
「この人、大丈夫?」
小声で尋ねると、おっさんは難しい顔をして首を横に振った。
「で、どんなご用件で」
「ああ、あの今住んでるアパートが取り壊されるんで、すぐ入れるところ探してるんですけど、ありますか」
「……もしかして、裏に集合墓地があるとこの?」
「あ、はい。知ってるんですか」
「知ってるもなにも、そこの大家さんから頼まれてて。住人がうちに来るかもしれないって」
もうそんな話になっているのか。だったら、話は早いだろう。
「それで、どこか空いてるとこないですか。独身なんで狭くてもいいんで」
「う~ん。空いてるには空いてるんだけど、訳ありなんだよね」
おっさんのメガネがギラッと光る。事故物件とか、そういうやつか?
「いや、もうかまいません。気にしないんで」
「じゃあ、実際に見てみます? ここから5分ぐらいで着きますんで」
こりゃ、ラッキーと思いながらも、隣の彼女のことがなぜか気になった。
歩く速さは普段と変わらないが、ほんとにものの5分で着いてしまった。
『メゾン・ド・福子』
名前は別として、二階建ての見た目はきれいなアパートだ。
全部で6部屋、ベランダに布団や洗濯物が干されているのがいくつか見える。
「大家さんが福子さんて方で、旦那さんと一緒に住んでるんですよ。今から見に行くお部屋は、二階の角。大家さんのとこの真上ですね」
「角部屋は人気ないんですかね」
「そうでもないんですけど、なぜかそこだけ人が入らないんです。だから、大家さんも困ってるんですよ。まま、どうぞ中へ」
頑丈そうな階段を上がると、通路は広くはないが、これまた頑丈なフェンスが。
これなら、酔っぱらって帰ってきても落ちる心配はなさそうだな。
「さあ、こちらです」
おっさんが合鍵でドアを開けると、生温かい空気に混じって、ツンとした臭いが流れ出てきた。これは、やはりヤバいやつなのか?
「窓、開けますね」
おっさんが、シャッとカーテンを開けて窓を開け放つと、気持ちのよい風がふわりと入ってきた。
「家具や電化製品は備え付けで、部屋は2つ。トイレはお風呂と別になってます」
台所は小さいが、自炊しないからいい。居間はまあまあの広さだな。
「お部屋もどうぞ。どちらも6畳で、ベッドは未使用ですから」
ほほう、ベッドも備え付けか。だが、各部屋にひとつずつ?
「ルームシェアもできますよ。あ、ペットはダメですけど」
「じゃ、ここに決めます」
おっさんは「へえっ?」と驚いて目を見開いた。
「……訳あり物件ですけど本当にいいんですか」
「ええ、そういうの気にしないんで」
アパートを出て不動産屋へ戻る間、おっさんは何度も首を傾げていた。俺が瞬時に決めたことを納得できないようだった。
戻ってきた時、まだ彼女がいた。外の段差のあるところで頭を抱えて座っている。
本契約は後日改めてだが、今日は身分証明の免許証と簡単な書類を書いて出した。
「あ、ちょっとお借りします」
俺はテーブルにあったメモ用紙に11桁の番号を書き、おっさんに会釈をして店を出た。彼女はまだそこにいる。
「気が向いたら、ここに電話して。部屋、空いてっから」
声をかけると、彼女は頭を上げ、不思議そうにこちらを見た。
その顔は可愛らしく、思ったより若く、まるで学生のように見えた。
彼女は俺の手から紙切れを受け取ると、黙って会釈し、荷物を持ってどこかへ行ってしまった。
次回は、彼女の視点です。




