【完結】風鈴
プロローグ
一LDKの部屋は、二十代の女性らしく整えられていた。
小さなダイニングテーブル。
白いカーテン。
窓辺にはガラスの風鈴。
肘掛けのない二人掛けのソファーには並んで座る男女二人の姿あった。
植村 貢は愛人関係にある佐田 香の肩を抱いていた。
梅雨明け間近の蒸し暑い夜。
エアコンの風が短冊を揺らした。
チリリン――
「まだ、梅雨も明けていないのに気が早いな」
貢が苦笑する。
貢は三十代前半の落ち着いた雰囲気を持っていた。
「この音が好きなの。仕方ないでしょ」
香が笑う。口角にえくぼが浮かんだ。
「楽しみね、旅行」
「ああ」
チリリン――
風鈴が鳴る。
その数時間後。
香は首を吊って死んだ。
少なくとも、警察はそう判断するだろう。
貢もそう願っていた。
自分の痕跡を不自然にならない程度に消した。
ドアが閉まる前、一度だけ振り返る。
部屋にはもう誰もいない。
チリリン――
風鈴が鳴った。
「上手くいったな」
貢はほくそ笑んだ。
1,松山への旅行
お盆期間の羽田空港第二ターミナルは帰省客で混雑をしていた。
ピーク時期を外したが、それでもうんざりとする人混みだった。
貢は搭乗口近くの椅子に座っていた。
貢の隣では、妻の由利子がガイドブックを熱心に見ていた。
結婚して十年。由利子は旅行を楽しみにしていた。
貢は窓の外に目を向けた。白い機体に青いラインの飛行機が見えた。
仕事も一段落着いた。
警察からの連絡があった時は正直、肝を潰した。
だが、事情聴取はあっけなく終わった。
疑われてはいない。
完全犯罪の文字が脳裏に浮かんだ。
搭乗案内が流れ、貢は由利子と共に飛行機に乗った。
羽田空港から松山空港までは飛行機で一時間半。
松山空港は思ったより小さかった。
一階にはみかんジュースの出る蛇口があり、由利子が目を輝かせていた。
市街地までは思ったより早く着いた。
チェックインの時間には早いため、荷物を預けて観光へと出かけた。
「これよこれ、これに乗りたかったの」
由利子がガイドブックを片手に燥いでいた。
夏目漱石の『坊ちゃん』に登場する「マッチ箱のような汽車」を再現した坊ちゃん電車。
先頭車両はディーゼル機関車で客車は深い緑色の車体だった。
坊ちゃん電車の方向転換が名物らしいが、貢達は見ることが叶わなかった。
由利子は残念がっていたが、貢は炎天下で見る気は無かったのでほっとしていた。
坊ちゃん電車に乗る。席に座り、何気なく駅舎を見た。
駅舎に佇む女性が目に入った。
息を呑む。
香…?
まさか――
電車が動き出した。
もう一度見る。
誰もいない。
チリリン――
車内に風鈴の音が聞こえた気がした。
貢は顔を上げる。
もちろん風鈴などない。
”他人の空似だ”
貢は自分に言い聞かせる。
それでも胸の奥のざわつきは消えなかった。
2,松山城と石手寺
大街道で坊ちゃん電車を降り、真夏の陽射しが容赦なく照りつける中、貢と由利子は松山城へと歩いた。
松山城は平山城で本丸は山頂にあるため、ロープウェイを利用することにした。
先にロープウェイの乗り場に由利子を行かせて、貢は一階にある乗車券売り場へと向かった。
自動発券機前には人の列が作られていた。
貢は最後尾に並んだ。
汗が首筋を伝う。
駅舎で見かけた女の顔が頭から離れない。
列はなかなか進まなかった。
”気のせいだ……”
搭乗券を手にして、三階の乗り場へと急ぐ。
由利子が乗り場の近くにいるのを見つけた。
「買ってきた」
「ありがとう。お疲れ様」
そう言って由利子は冷えた缶コーヒーを差し出した。
「ああ、すまない」
貢は一気に飲んだ。
ロープウェイは混んでいた。
押されるように中へと入る。
チンチンという発車合図が鳴り、ロープウェイが動き出した。
ロープウェイの窓ガラス越しには松山市の街並み。
窓ガラスに映っている女の顔。
香だった。
急いで振り返る。
いなかった。
貢の指先は震えていた。
「なんだか顔色が良くないわね、大丈夫?」
由利子が心配そうに声をかける。
「ああ、ちょっと暑さにやられたのかな。大丈夫だよ」
貢は無理に笑顔を作った。
その後の記憶は曖昧だった。
天守を見、由利子とも話した。
だが、何一つ内容が頭に残っていない。
気づけば石手寺にいた。
国宝の二王門を潜り、三重塔を見に行く。
蝉の声と観光客の話し声。
すその末広がりの袴腰はかまごしの鐘つき堂の前を通り過ぎようとしたとき、
チリリン――
風鈴の音が聞こえた。
その音は香の部屋にあった風鈴を思い起こさせた。
「風鈴…」
「なに?」
訝し気な由利子の顔。
「風鈴の音が……」
「空耳じゃないの?私は聞こえなかったわよ」
由利子は本堂の影へ目を向けた。
なぜか口元に笑みが浮かんでいる。
本堂の影に女の姿。
香がいた。
見間違いではない。
じっと貢を見ている。
口元が、ニィっと歪んだ。
3、道後温泉
宿泊予定の宿は道後温泉の中心に位置し、道後温泉本館の二軒隣に建っていた。
伝統的な和の趣と現代的な建築美を持った十階建ての建物で、入り口は重厚感のある数寄屋造りとなっていた。
部屋に案内された貢は座卓の前に力なく座った。
「疲れが出たのかしらね?」
由利子がお茶を飲んで言った。
「外、暑かったものね。ねぇ、大丈夫?」
貢の顔色は悪かった。
「大丈夫だ」
「そう?本当に?」
由利子は何か言いたげに貢を見ていた
「しつこいな。大丈夫だと言っているだろう!」
貢の苛ついたような声音に由利子が体を竦めると、貢ははっとしてすぐに
「ああ、すまない…やっぱり、君の言うように疲れているんだな、きっと」
「温泉にでも入ってくれば、疲れもとれるわよ」
「そうだな……そうしよう」
貢は浴衣を持ち、大浴場に向かった。
大浴場には人が疎らだった。
中央に大きな伊予大島の石を配置した内湯に貢は浸かっていた。
目の前には、夏宵の小さな庭園。
首まで湯に浸かり、思いっきり息を吐きだした。
「……もう終わったことだ……」
自分に言い聞かせるように呟き、貢は湯をすくい、乱暴に顔を洗った。
あれは幻だ。
香は死んだ。
もう終わった。
罪悪感が見せた幻に決まっている。
湯口から惜しみなく出ている湯の音。
湯気が視界を白く曇らせる。
貢は湯舟の淵に頭を預けて、目を閉じた。
湯の暖かさに体と精神のこわばりが解されていく。
自然と大きな息を吐いた。
「貢さん」
囁くような香の声。耳元に触れる吐息。
貢はかっと目を見開いて、辺りを見回した。
数人の泊り客がいるだけだった。
誰も貢を見てはいない。
「香は死んだ……俺が殺したんだから……気をしっかり持て」
貢は小さく呟いた。
4,ラウンジ
夕食後、由利子は土産物を見に売店へ行った。
貢は部屋に戻る気がせず、ラウンジへと足を運んだ。
カウンターに座り、ウィスキーをロックで注文した。
口にしたウィスキーが、胃の底まで焼くようだった。
「おかわり」
何杯目になるかもわからない。
何も考えずに寝てしまいたかった。
バーテンダーがウィスキーに水を添えて出した。
「ここ、よろしいですか?」
若い女が声を掛けてきた。
誰かに似ているような気がした。
「空いてますから、どうぞ」
女は座ると、軽めのカクテルを注文した。
ふと、香もカクテルを注文していたことを思い出した。
貢は眉を顰めた。
”思い出すな”
女はグラスを傾けながら微笑んだ。
「お一人ですか?」
女が誘うような目で貢を見る。
甘い声。
「せっかくですし、旅先の一期一会。私の部屋で飲みません?」
貢は女の腰に手を回し、誘われるままついて行った。
その貢をバーテンダーが心配そうに見ていた。
部屋のドアが閉まる。
女は窓辺に歩いて行き、貢に背を向けて立った。
貢は背後から女を抱きしめた。
柔らかな感触が腕に伝わる。
酒とは別の熱が体を巡った。
貢が胸元に手を掛けても女は抵抗しなかった。
冷たい肌だった。
その肌に触れた瞬間――
「ねぇ…貢さん……なぜなの?」
香の声がした。
一気に酔いが醒め、貢は飛び退いた。
女は背を向けたまま振り返らずに問う。
「どうして、殺したの?」
香?
そんな、まさか。
あり得ない。
あり得るはずがない。
貢は錯乱する。
「来るな!」
引き絞るような声。
「お前は死んだ!」
「俺が、この手で、この手で殺した!」
貢が叫んだ。
すべてを吐き出す。
「首を吊ったように見せかけて殺した!」
「遊びだったんだ!」
「お前が俺を追い詰めた!」
「別れてくれなかった!」
女がゆっくりと振り返った。
香が貢に近づいてくる。
黒い目は虚ろで、首には絞められた跡が見えた。
「ひぃっ」
貢は後退る。
「貢さん……」
来るな。
来るな。
来るなっ。
貢の目に窓が映った。
開いている……
窓の向こうは闇。
かなり高い。
が、あそこからなら逃げられる。
逃げなければ……
貢は窓に飛びついた。
窓の向こうに『香のいない安全な自分の部屋』が見えた。
足をかけ、外へと身を躍らせる。
浮遊感。
そして――
鈍い衝撃。
その直後、温泉街の夜に響いていた観光客の声がふっと途切れた。
エピローグ
老舗の旅館には不釣り合いな赤色灯。
由利子は警察の事情聴取を受けていた。
「主人は何だか疲れている様子で…風鈴がとか…言って」
刑事は手帳にメモを取った。
「風鈴?」
「ええ」
由利子は少しだけ目を伏せた。
「主人は私を見て怯えていました」
「香さんだと思い込んでいたみたいです」
「香さん?」
「主人の……愛人です」
別の場所ではバーテンダーが証言していた。
「酷く酔っぱらっていらっしゃって、ふらふらとお一人で出ていかれたので、心配はしていたんですよ」
庭の一角は、青いシートで囲われていた。
鑑識や警官が出入りしていた。
遺体を覆うシートがめくられる。
顔を確認した警官が小さく息を吐いた。
「自殺ですかね?」
「他殺を匂わせるものはないですね」
鑑識の人間が上を見る。
七階の窓が開いていた。
「あの高さからなら、即死です」
「事件性は無しと」
「了解」
誰も、七階の窓を見上げようとはしなかった。
「おい、もういいぞ。出してくれ」
貢の遺体は担架に乗せられ、車へと運ばれた。
チリリン――
由利子はふと顔を上げた。
風鈴の音色が聞こえた気がした。
誰もいない。
夏の生ぬるい風が、庭を抜けていった。
ホラーは初めて書きましたが、いかがでしょうか。
チリリン――
窓に吊り下げられている風鈴の音が聞こえなかったでしょうか。




