藤宮薺
「――どうだった、恭ちゃん。就任初日、やっぱり緊張した?」
「……ええ、薺先輩。それこそ、あまりにぎこちなくて生徒達に笑われてしまって」
「ふふっ、なんだか恭ちゃんらしいね」
その日の、夕さり頃。
業務を終え、茜に染まる帰り道を歩いていく。隣で楽しそうに微笑むのは、背中まで伸びる鮮やかな茶髪を纏う優美な女性。彼女は藤宮薺――担当科目は数学で、今年は二年五組を受け持つ僕の一つ歳上の先輩だ。いつも優しく、頗る生徒想いの薺先輩は多くの生徒から慕われていて、僕もそんな彼女を心から尊敬している。まだまだ未熟な身だけど、いつかは――
「――ところでさ、恭ちゃん。私に、なにか言うことない?」
「…………へっ?」
いつかは、薺先輩のように――そんな思考の最中、不意に届いた彼女からの問い。……えっと、言うこと。もしかして、気付かぬ内に彼女の気分を害――
「……なんだか、悩んでる表情してるから。だから、クラスでなにかあったのかなって」
「……あ」
「もしかしたら、忘れてるかもしれないけど……これでも、私は先輩なんだよ? 恭ちゃんより、ずっと先輩なんだよ?」
そう、少し唇を尖らせ話す薺先輩。そして、彼女の言葉は紛うことなき事実で。歳こそ一つしか違わないけど、大学卒業後すぐに教師となった彼女と、まだ二年目の新米たる僕とではその経歴に雲泥の差があって。
まあ、それはともあれ彼女の言わんとすることは明白で。もっと、自分を頼って良い――要するに、そう言ってくれているのは明白で。……全く、敵わないなぁこの先輩には。……なので、
「……あの、薺先輩。実は――」
「……なるほど、そういう感じの子が」
「……はい。なので、彼女と接するに辺り、薺先輩から何かアドバイスなど頂けたらと」
僕の話を聞き終えた後、ポツリと呟く薺先輩。……まあ、話といってもそこまで詳しいものでもなく……と言うか、僕自身きちんと説明できるほどに悩みが明確化されていなくて。
「……そうだね。でも、さっき偉そうなこと言っておいてなんだけど、そういうことなら私からアドバイスなんてする必要ないかなって。恭ちゃんの思った通りに、その子のことを考えて接してあげれば良いと思う。大丈夫、恭ちゃんなら出来るから」
「……先輩」
すると、ふわっと柔らかな微笑を浮かべそう告げてくれる薺先輩。……ほんと、買い被りもいいところだ。僕は、そんな大した人間じゃないのに。……だけど、それでも――
「……ありがとうございます、薺先輩。先輩のそのお言葉だけで、何倍も力が湧いてきます」
「ふふっ、それから良かった」
立ち止まり、先輩の瞳を真っ直ぐに見つめ伝える。すると、彼女は楽しそうに微笑み答えてくれた。
「……でも、ちょっと焼けちゃうなぁ。大切な教え子とはいえ、恭ちゃんが他の女の子に夢中なんて。このままじゃ、その子が恭ちゃんのこと好きになっちゃうかも」
「いやいや、夢中って……それに、僕のことを好きになるなんて有り得ないですよ」
すると、少し不満げな表情でそんなことを口にする薺先輩。まあ、流石に本気では言ってないだろうけど。
「……恭ちゃん、ほんと何にも分かってないね」
「……へっ?」
「知らないみたいだから、教えてあげるけど――モテるんだよ、恭ちゃん。美形だし優しいし生徒想いだし、むしろモテない方がおかしいくらい」
「……へっ、いえ僕はそんな――」
「――去年、何度も相談されたんだよ? 恭ちゃんに振り向いてもらうには、どうしたら良いか――そういう類の相談を、何人もの女の子に。そんな時、モヤモヤやら申し訳なさやらでどんな表情すれば良いか……そんな私の葛藤が分かる? 恭ちゃん」
「……あ、えっと……すみません」
そう、珍しく少し強めの語気で捲し立てる薺先輩。まあ、それでも本気で怒っているわけじゃないのは分かるのだけど。
……あと、多少なりともお気持ちは分かりますよ? 僕だって、先輩に関しその手の相談を何度も受けていますから。ご自覚ないかもしれませんが、すっごく人気なんですよ? 薺先輩。
さて、随分と今更であり、そしてもうお察しかもしれないけれど――薺先輩と僕は、実は恋人だったりするわけで……うん、未だに僕自身、信じられなかったりするんだけども。
「じゃあね、恭ちゃん。また明日」
「はい、また明日です薺先輩」
それから、およそ20分後。
改札を抜け少し歩いた辺りで、軽く手を振り去っていく薺先輩の背中を暫し見送る。もっと一緒にいられたらと思うのだけど、ここからは逆方向――残念ながら、ここでお別れで……まあ、また明日も会えるんだけどね。……ただ、それにしても流石に今日は疲れ――
「――あ、言っとくけど浮気は駄目だからね!」
「いやしませんよ!!」
卒然、逆方向に歩みを進めた僕の背中に届く声。振り返ると、階段の真ん中辺りで悪戯っぽく微笑む薺先輩の姿が。いやほんと止めてください。誰かに聞かれてたらとんだ誤解を……まあ、見る限り今は誰もいない……と言うか、だからあんな冗談言ったんだろうし。
すると、僕の反応に満足したのか、満面の笑みで再び手を振り去っていく薺先輩。そして、そんな彼女の背中を呆れつつも何だか微笑ましく見送る僕。
だけど……この時は、知る由もなかった。こんな他愛もない冗談に、いつしか笑えなくなる日がくるなんて。




