第2章 一文無しの危機
重たい瞼をあけようとすると、ひどい頭痛に襲われた。
「……っ、痛……」
焼けるような、頭を割られるような鈍い痛み。
私は思わず顔を顰めた。
身体を起こし、ゆっくりと眼をあける。
その瞬間、濁流のような記憶が脳内をかき乱した。
かつて自分がどこにいて、何をしていたのか。
その輪郭が、熱に浮かされた陽炎のように遠ざかっていく。
必死に目を開くと、視界いっぱいに鮮やかな快晴が広がっていた。
「ここは……?」
掠れた声が漏れる。
耳を澄ませば、聞いたこともない澄んだ鳥の鳴き声。
草むらからは虫たちの賑やかなせせらぎ。
遠くからは、絶え間なく川の流れる音が響いてくる。
頬を撫でる風は驚くほど清らかで、圧倒的な生命力に満ちていた。
だが――得体の知れない違和感が、胸をざわつかせた。
辺りを見渡せば、見たこともないほど鮮やかすぎる色彩の植物。
空にはおかしな軌道で飛ぶ、奇妙な羽を持った生物。
元の世界の景色がどんなものだったか、今の自分には「うろ覚え」でしかない。
けれど、ここは私がいた世界ではないと確信をもてていた。
「……夢、じゃないんだ」
混濁した意識の奥底。
ここに来る直前の記憶が、一瞬だけ火花のように弾ける。
真っ白な空間。
自らを『女神』と名乗った存在。
そこで、何かを告げられたはずだ。
「何を……言われたんだっけ」
思い出そうとしても、砂が指の間から零れ落ちるように消えていく。
今の自分に辛うじて残っているのは――「水瀬梨愛」という、自分の名前だけだった。
身体を起こし、周りを見渡す。
そこには、驚いた顔をした一人の女性が立っていた。
釣り竿を手に、一匹の魚をぶら下げたまま固まっている。
思わず目を疑った。
透き通るような肌に、見たこともない異国風の精緻な服装。
そして何より、編み込まれた髪の間から覗くのは、人間にしては長すぎる「尖った耳」だった。
私と同じ姿をしているようで、決定的に何かが違う。
「あ……あなた……ここで一体なにをしているの?」
女性が困惑したように問いかけてくる。
鈴を転がすような澄んだ声。
「……私もわからない。気づいたら、ここにいた」
正直に答える。
それ以外に言いようがなかった。
暫しの沈黙。
川のせせらぎと、魚が跳ねる音だけが響く。
「……ここは、どこ?」
沈黙に耐えかねて、私は尋ねた。
女性は少しだけ表情を和らげ、誇らしげに胸を張る。
「ここは、自然の聖地<エルガランド>よ」
「…………どこよ」
思わず、皮肉混じりの言葉が口を突いて出た。
聖地だか何だか知らないが、今の私にはただの聞き馴染みのない地名でしかない。
目の前の「尖った耳の女性」を含めて、ここは私の常識が一切通じない場所なのだと、改めて突きつけられた気がした。
――そんな、遠くて近い日の記憶。
「起きなさい、梨愛。もう着くわよ」
呼び声に意識が現在に引き戻される。
眼を開けると、そこには覗き込むようなフィリスの顔があった。
「おはよう……フィリス」
梨愛は小さく欠伸を噛み殺し、背筋を伸ばした。
がたがたと揺れる馬車の振動が、座席越しに伝わってくる。
ユーミンとステラを助けた後、二人は彼女たちと別れて公道を歩いていた。
幸運にも通りかかった商人に拾われ、目的地である町まで乗せてもらえることになったのだ。
隣に座るフィリスは、先ほどユーミンたちを助けたお礼にと受け取った「魔導書」を、熱心に読み耽っている。
「何の魔導書なの、それ?」
梨愛の問いかけに、フィリスは弾んだ声を返した。
「えっとね……これ見て!」
差し出されたページを、梨愛は横から覗き込む。
「……握力が増える魔法?」
「そう! 面白そうだと思わない?」
フィリスは満面の笑みを浮かべていた。
魔法オタクの彼女らしい反応だが、梨愛は思わず眉をひそめる。
「……そのために、あの高価な『魔道結界』と交換したの?」
魔道結界。
それは女神の力が付与された、冥族を寄せ付けないための結界術が施された触媒だ。
形は水晶や枝など様々だが、今回は旅の途中で「わらしべ」を繰り返して手に入れた貴重な「木の枝」だったはずである。
それを、たった一冊の――しかも握力を増やすだけの――魔導書と交換してしまったのだ。
フィリスは魔法に関する道具や本を集めるのが、三度の飯より好きだった。
そのため報酬をもらう時は、大抵が魔法に関連したものになる。
彼女はこの旅の間、ずっと「わらしべ」をしながら人助けを続けている。
「魔法で人を助けるのもいいけど、物と物の交換で助けられることもあるし、人々の交流も大切にしたいから」
それが、彼女が語った理由だった。
梨愛は呆れ半分、感心半分といった様子で、再び窓の外の景色に目を向けた。
馬車は目的地である街へと到着した。
このあたりでは有数の規模を誇る、交易が盛んなことで知られる活気ある街だ。
乗せてくれた商人へ銅貨を手渡し、馬車を降りたフィリスと梨愛は、まず今夜の宿を探すことにした。
「なんか、街が賑やかだね」
梨愛が周囲を見渡しながら呟く。
「そうね……この辺りでは有名な交易街なのよ」
フィリスの言葉通り、街道沿いには食材や日用品が所狭しと並び、多くの人々が商売に精を出している。
活気ある売り声が響く中、その品揃えには魔道具や魔導書といった魔法に関連するものも多々混じっていた。
当然、魔法に目がないフィリスがそれに反応しないはずがない。
店が目に入るたび、吸い寄せられるように足を止めてしまう。
「フィリス……」
「もう少し……待って、あそこにあるのってもしかして」
「だめ」
「もう少しだけ……あ! ああーっ……!」
獲物を見つけた子供のように目を輝かせるフィリス。
だが、放置すれば日が暮れても宿が決まらないのは目に見えている。
「宿を探してからまた寄ればいいでしょ?」
梨愛は容赦なく、動こうとしないフィリスの腕を掴んだ。
そのままズルズルと、名残惜しそうに店を振り返るフィリスを無理やり引っ張っていく。
強引に引きずられていくフィリスだったが、その背中が不意に、一人の少年と衝突した。
薄汚れた身なりの少年は、勢いよく石畳に尻もちをつく。
「あっ、ごめんなさい! 大丈夫?」
慌ててフィリスが足を止め、心配そうに手を差し出した。
だが、少年はその手を取るどころか、一言の返事もしない。
弾かれたように立ち上がると、怯えたような視線を一瞬だけ残し、雑踏の中へと駆け出していった。
「……あ」
呼び止める間もなく、少年の姿は群衆の中に消えてしまう。
「……この街は、貧困の差が激しいようね」
フィリスがポツリと溢した。
先ほどまでの華やかな露店とは対照的な少年の姿に、彼女の表情も曇る。
「確かに……。さっきの人たちとは、明らかに身なりに差があったね」
梨愛も同意するように頷いた。
活気ある交易街の裏側に潜む影を感じながら、二人は商店街を抜け、ようやく一軒の宿屋を見つけ出した。
さっそく中に入り、宿泊の手続きを済ませようとした時のことだ。
店主から二人分の宿泊代を提示され、フィリスがいつものように腰に手をやった。
だが、彼女の手は空を切る。
焦ったように何度も腰の周りを探り、服のポケットに手を突っ込むフィリス。
「何? ……どうしたの?」
怪訝そうな顔で梨愛が尋ねる。
「無いのよ……」
「だから、何が……」
「財布……」
「えっ……?」
梨愛の短い絶句が、宿のロビーに虚しく響いた。
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