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第一話 1

 腰が痛い。


 江藤雫は寝返りを打ち、鈍く重い腰をそっと摩った。


 そして寝返った先にある男の寝顔を見た瞬間、昨夜の出来事が一気に蘇る。泣き明かした自分を思い出して、胸が熱くなる。恥ずかしい。


 泣きすぎたからだろうか、喉がカラカラに乾いていた。


 それでも腕の中から抜け出せば、きっと彼は目を覚ますだろうと思い、雫は迷った。


 カーテンの隙間から差し込む朝日。雀の鳴き声。


 そろそろ出勤の時間ではないだろうか。


 雫は控えめに男の肩を揺らした。しかし、抱きしめる腕の力がむしろ強まる。


 そうじゃないんだけど、と思っていると、男のまぶたがゆっくりと開いた。


「……朝?」


「はい、朝です」


 雫の返事に、男――晶はふっと笑って腕を緩めた。


「おはよ、雫くん」


「おはようございます」


「声がすごいな。水飲む? あ、その前に歯磨くか。昨日の歯ブラシ使って、ちゃんと歯ブラシ立てにあるから」


「ありがとうございます」


 起き上がりながら頭を下げると、晶は雫の頭を軽く撫でた。


「礼儀正しい、偉い」


「……はい」


 冗談っぽく言って笑う晶の笑顔に、胸の奥がじんわり温かくなる。


 雫はその気持ちを悟られないように、痛む腰を隠しつつ洗面へ向かった。


 サイズの合わないスウェットは袖が長く、水がかかるのを避けるために捲り上げる必要がある。鏡に映るのは、真っ赤に腫れた瞼の、浮腫んだ顔。冷水で洗っても変わらない。


 どうすれば良いか考えながら歯を磨いていると、晶が洗面に現れた。


「俺も歯磨いていい?」


 雫は頷き、少し身を引く。


 隣に並んで歯を磨くと、その音に、祖母と並んだ朝の記憶がふいに蘇った。目頭が熱くなる。鼻をすすれば、晶が柔らかく問いかける。


「どうした?」


 小さな変化をすぐ拾う。気づかれると、どうすればいいかわからなくなる。


 今まで雫は、孤独とだけ静かに生きてきた。でも今は違う。すぐそばに晶がいる。だから弱くなるのだ。


 雫は首を横に振ったが、晶は納得していない様子だった。


 口をすすいで洗面所を出ようとした瞬間、手首をそっと引かれる。


 目で「ここにいて」と訴えられ、雫は言われるままに立ち止まった。


「よし。これでいい」


 身支度を済ませた晶に手を引かれ、リビングへ行く。


 次の瞬間、不意に抱きしめられた。


「大丈夫。俺がいるよ」


 身体が固まる。でもその瞬間、確かに雫はどうしようもない安心を覚えた。


 もし晶がいなければ――自分は昨夜、家の近くの川へ飛び込んでいたかもしれない。


 最悪の一日だった。でも晶のおかげで、人の温もりを思い出せた。


 小柄な雫は、逞しい晶に抱かれると、ちょうど胸元に耳が触れる。心音が心地いい。温かさが冷え切った心を溶かしていく。


「俺、今日仕事だけど……雫くんは?」


「二限からです」


「そっか。大学までどれくらい?」


「一時間くらいです」


「じゃあ、それまでゆっくりしていけばいいよ。家のものは何でも使って」


「これ以上迷惑かけられません……」


 恐縮する雫に、晶は優しく目を細めた。


「俺はもう君を信頼してる」


「まだ出会って一日ですよ?」


「迷惑なんて思ったことないよ。雫くんを一人にしたくないのは……俺のエゴだ」


 雫は息を呑み、ぎこちなく頷いた。本当は、その申し出が嬉しくてたまらなかった。


「じゃあ朝ごはん作るか。トーストでいい?」


「あ、手伝います。冷蔵庫のもの、使っていいなら」


 少しでも役に立ちたかった。


 晶が冷蔵庫を開けると、卵が二つだけ、他は飲み物しかなかった。


 雫は卵を手に取って、晶に見せた。


「この卵、いつのですか」


「わかんない」


 気まずそうにする晶に、雫は溜息をついた。


「……毎日何食べて生きてるんですか?」


「コンビニ弁当?」


 雫の瞳が鋭さを帯びる。


 この人にまともな食生活をさせなければ――そんな強い気持ちが芽生えた。


「今日の夕飯、僕が作ります」


「マジ?」


 驚く晶に、雫は少し照れながらも続けた。


「何が食べたいですか」


「うーん……回鍋肉とか?」


「わかりました。ちゃんと作って置いておきます」


「ううん、一緒に食べようよ」


 その言葉に、雫の胸が跳ねる。


 また一緒にいられる――そう思うだけで、全身が軽くなる。


 トーストが焼ける音が響いた。


「はいよ。バターはあるし、ちゃんと期限も大丈夫」


「ありがとうございます」


 誰かと朝食を食べるのは、祖母が亡くなって以来、二年ぶりのことだった――。


 祖母が生きていた間は、二人して朝起きて、散歩をして、朝食を食べて身だしなみを整えて、学校へ行っていた。


 でももう二年前に他界してからは、雫を朝起こしてくれる存在も居なくなって、散歩することも無くなった。


 祖母はもういない。歩いている時、空いた左側を見て、苦しくなるのだ。


 もう、車や自転車から守ってあげようと思う人間がいない。


 もう。


「雫」


 ハッとして顔を上げる。


 そこには、穏やかに笑う晶がいた。


「大丈夫、俺がいるよ」


「……」


 雫はすぐには頷けなかった。もう誰のことも信頼したくなかった。だって、晶にまで裏切られたら、雫は生きていけない。


 返事をしないでいる雫に、晶はただ柔らかく微笑むだけだった。


「いつか、信じてくれたら嬉しいなあ」


 一つの棘もない、ただただ雫を慮る言葉。


 信じたい、信じられない。


 雫の心は、ずっと揺らいでいた。



 渡された鍵を見る。


 二限も終わり、それ以外授業もない雫は、自宅に帰ろうと思っていた。


 そして電車に乗り込んで、晶の家と正反対の方へ向かう。


 そして家に着いて、荷物を整理して。


 晶にお別れの言葉を告げたかった。


 もう大丈夫だと、そう言いたかった。


 でも、そんな言葉到底言えなくて。気づけば雫は生活必需品、寝巻きやら普段着やらをボストンバッグに詰めると、家を飛び出していた。


 そして、電車に揺られて、到着駅で降りた時に、凄まじい罪悪感に苛まれる。


 きっと、晶にだって自分の生活があるのに。


 もしかしたら恋人だっているかもしれない。


 それなのに、雫の足は、晶の家に向かっていた。


 あの笑顔が見たくて。


 あの優しい声が聞きたくて。


 そして、雫は結局、渡された鍵を使ったのだ。


 雫は晶の家に向かう前に、スーパーに寄った。


 あの家にはあまりにも食品が無さすぎる。雫の勝手なお節介だったが、何かあった時が心配だったのだ。


 できるだけ日持ちする野菜や肉を買っておいて、調味料も買っておく。


 家を出る前に塩と砂糖、醤油があることは確認してきた。


 そして雫は両手で荷物を持つと、長い道のりを歩き出したのだ。


 秋の昼にも関わらず、雫は晶の家に着く頃は汗に塗れていた。


 ボストンバックを肩にかけ、両手には大量の食材と水分と調味料。


 そしてエントランスに入って、オートロックに鍵を差し込む。


 すると自動的に扉が開くから、雫はまた荷物を持ち直して、エレベーターへ乗り込んだ。


 三階にある晶の部屋は、廊下の一番奥だった。


 荷物を下ろして、覚えた手の暗証番号を機械に打ち込む。


 開錠された扉を開けて、荷物を廊下に置いた。


「っ、ふー」


 やり遂げた。痛む腰を叩く。これでは、自分の老後が心配だった。


 そして自分の荷物を入れたボストンバッグを置くと、扉を閉め、雫はスーパーの袋の中身の解体作業を始める。


 今夜は回鍋肉だから、二分の一キャベツとピーマン、細切れの豚肉を買ってきた。


 そしてそれから、冷凍野菜を冷凍室に入れる。


 もし雫の料理を気に入ってくれたのなら、ポトフでも作り置きしておこうと思って買ってきたのだ。本当は生野菜が欲しかったけれど、晶の家に置いていく訳にいかないし、一人で持って帰るには多すぎる。


 有名な会社のものだから、一度食べたことがあった。


 少し値は張るが、晶に不味いものは食べさせたくない。


 そして足りなくなっているお茶を補充して、食パンを棚にしまって。


 袋が空っぽになると、雫は食卓の椅子に座った。


「疲れた……」


 流石に荷物が多すぎた。


 すると、ふ、と不安が過ぎる。


 迷惑でなかったか、と。


 回鍋肉が食べたいとは言われた。でもそれは、本気だったのだろうか。


 いや、晶が嘘をつくような人間ではないことはわかっている。でもその場を収めるために、食べたいと言ったのではないだろうか。


 冷凍食品は要らなかったのではないだろうか。


 使い道に困るのではないだろうか。


 ぐるぐる嫌な方向に頭が回って、自分の情緒不安具合に笑えてくる。


 昨日、雫は人生で最悪の体験をした。


 一人彷徨っているところを、非番の晶に声をかけてもらったのだ。


 雫の両親は、この世にいない。


 雫の祖父母も、もうこの世にはいない。



 雫は資産家の両親のもとに生まれた。


 幼い頃から幼児教室に通わされ、ピアノ、水泳、絵画教室。両親は雫にどんな才能があるのかと、探していたのだと思う。


 両親は、悪い人間ではなかった。


 雫は幼い頃、少しも寂しい思いをしたことがなかったし、両親も雫を愛してくれていた、本当のことだ。


 しかしある時から、二人は喧嘩をすることが増えた。


 雫はそんな状況が初めてで、部屋の隅で怯えて、何もできなかった。


 家政婦がやってきて、怖がって涙を流す雫を慰める。そんなことが増えた。


 その家政婦も、ある日から来なくなったけれど。


 雫は幼いながらに、どこかで歯車が狂っていることに気づいていた。


 そして、ある日、母が祖父母に自分を預けたのだ。


『すぐ迎えに来るから、いい子で待っててね。おじいちゃんとおばあちゃんの言うことをよく聞くのよ』


 祖父母は自分の娘に一体何があったのか、聞き出そうとしていた。でも母は何も答えず、今日、友人とお茶へ行くとだけ言うのだ。


 そうして、雫の額にキスをして、母は去って行った。


 その日、江藤の家は燃えた。


 雫の両親は、焼身自殺をしたのだ。


 幸いなことに、火が他の家へ移る、ということはなかった。


 しかし二人は救われることなく、炭の塊として見つかったのだ。


 雫は最初、両親の死を理解できなかった。


 しかし葬式で、両親が投資詐欺にあったのだということを盗み聞きしたのだ。


 詐欺。


 小学二年生の雫でもわかった。


 両親は騙されたのだ。


 そして膨大なお金を失ったらしい。


 それを苦に、両親は焼身自殺をした。


 歳を経るにつれ、両親の死の真実が明かされていく。


 両親を騙した投資詐欺グループはすでに逮捕済みで、裁判も終わっていると聞いたのは、祖母が亡くなる前のことだった。


 祖母は雫が高校一年生の時にこの世を去った。


 だから、全て教えて、命を終えたのだ。


 雫はどうしていいかわからなかった。


 一年ほど経って、心の傷が癒えたところ。


 雫は祖母に言われた通りの場所に、墓参りに行ったのだ。


 他よりも一回り、二回り大きい墓に、両親の骨は納められているらしかった。


 そこで、初めて、雫は両親がこの世にいないことを自覚したのだ。


 今まで、ずっと、どこかで生きているような気がしていた。


 けれど、両親はもう十年近く、ただの骨だったのだ。


 雫の成長を見ることもなく。


 それから祖母も亡くなって。


 いよいよ、雫はなんのために生きているのかわからなくなっていた。


 もう、死んでもいいだろうか。


 楽になる自分を想像することもあった。


 でもここまで育ててくれた祖父と祖母は、孫に自殺をして欲しくて育てたのではない。それはわかっている。


 強く生きねばならない。


 そう思って、祖母が亡くなってから休んでいた学校に行き始めた。


 そして、今より時給のいいアルバイト先はないかと探し、雫は新たな救いに出会うことになったのだ。


 一つ目の幸は祖父母。


 老いた身体で働いて、雫を養ってくれた。


 この世を去る寸前まで、雫に幸せな毎日という夢を見せてくれた。


 そして、二つ目の幸が、雫が面接に行った先に居た創作料理屋の女将だったのだ。


「緊急連絡先の欄、何も書かれてないけど、親御さんは? もしかして黙って働いている訳じゃないわよね」


 その点を突っ込まれるのは承知の上だった。


 雫は淡々と言った。


「両親も祖父母も亡くなってます」


 女将である吉乃は、そんな事実を淡々と述べる雫を放って置けなかったと、のちに語ってくれた。


 そして節約のため、二日何も食べていなかった雫の体調を見抜いて、雑炊までご馳走してくれたのだ。


「明日から、は流石に早すぎるから、明後日から、ここに働きに来て頂戴。夕方五時からね、十時のラストまでね」


「はい」


 そして雫は高校一年生から、三年生になる今まで、ずっと店主である勝男と女将である吉乃のする創作料理屋「ゆうどき」で働き続けた。


 店主である勝男は面接にさえ出てこなかったものの、優しい男で、雫の苦労を労り、いつも賄いの残りを持って帰らせてくれる。


 口数が多い訳ではないが、吉乃を大切にし、そしてそんな勝男を吉乃は愛しているのだろうと持ってい た。


 昨日までは。



 いつも通り開店し、通常の営業をしていた。


 夕方ごろから夜にかけて増えていく客。


 それを捌いて、雫はホールにキッチンにと、あくせく働いていた。


 働くのは嫌いではない。それも、好きな人たちの役に立っているのだ。


 雫はこの二年間、拾ってもらった恩を返そうと生きてきた。


「え〜っと、じゃあトマトのグリル焼き。あと、ピーマンとシソの肉詰め」


「はい、かしこまりました」


 そしてまた、引き戸の開く音がする。


 雫は反射的にそちらを見て、「いらっしゃいませ」と声をかけた。


 その時から、違和感は感じていた。


 女は厨房の一点を見つめ、何か呟いた。座ろうとする気配もなく、ただ空き席もない奥の方へ進んでいくから、雫は止めようとしたのだ。


 すると、女が適当な席からまだ料理の乗った皿を取って、吉乃に向けて投げたのだ。


 料理が割烹着について、皿の割れる音がする。


 店内は、水を打ったように静まった。


「勝男、どう言うことよ! あたしだけだって言ったのに! この嘘つき男!!」


 誰だ、この女。


 きっと雫を含め、誰もがそう思っていただろう。


 勝男と、その女以外は。


 雫は勝男の顔を見た。


 そこには、真っ青な顔をした、情けない男がいた。


「あ、明美……」


「あんた、あたしと結婚するって言ったじゃない! 店は畳む、女とも別れるって!」


「いや、その」


「そう言って何年経ったと思ってるの! 三年よ? 信じた私が馬鹿みたいじゃない!」


 そう言ってまた適当な席から酒の入ったジョッキを手に取ると、今度は勝男に向けて投げ付けたのだ。


 ガラスの割れる音がする。


 雫は、誰かに怪我ないか、内心ヒヤヒヤしながら、目の前の現実を受け止め生きれずにいた。


 これは、きっと世に言う修羅場で、勝男は、浮気をしていたのだ。明美という、この女と。


 そして、明美と呼ばれた女は、走り出して去っていった。


 店内に、なんとも言えない空気が流れる。


 雫は横目で吉乃を見た。


 雫は目を見開いて、思わず口を開く。


「吉乃さ」


「申し訳ございませんでした」


 でも、何もかもが遅かった。


 吉乃は汚れた姿で方々に頭を下げる。


「本日お代金はいただきませんので、大変身勝手ながら申し訳なのですが、お帰りいただきませんでしょうか」


 常連は勝男に何か言いたげだったが、吉乃の面子を立てたかったのだろう、他の客と共に帰っていった。


「雫くん、悪いんだけど、今日は店仕舞いするから。お給料つけておくから、帰ってもらえる?」


「……、はい」


「片付けも私たちがしておくから、気にしないでね。お疲れ様」


 勝男は結局、何も言わず立っていた。


 それから一時間も経たずに、吉乃から、ゆうどき、の閉店を電話で知らされた。


 でも雫は、吉乃への心配が勝った。


「あの」


『ん?』


「大丈夫じゃ、ないですよね」


 そう言うと、吉乃は初めて黙り込んだ。


 そして、吐息を吐くみたいに笑う。


 その笑い声は虚しくて、空の瓶に小石を入れて、振っているみたいだった。虚しい音。


『とんでもないことになっちゃったわよねえ』


「はい」


『でも、離婚はすると思う』


「はい」


『あの人はもう、私でなくてもいいんだと思ったから』


「……僕は、吉乃さんだけでお店を開いても良いと思います。絶対従業員として雇ってくださいね」


 大真面目にそう言えば、吉乃は初めて、いつも通りの笑い声を上げてくれた。


「そうね、それもありね。誘っていい?」


「タダだろうと働きます」


「それはダメよ。ちゃんとお給料払うからね」


「はい。……吉乃さん」


「うん?」


「僕の人生はもう滅茶苦茶だけど、吉乃さんにはそうなって欲しくありません。もし助けが必要な時は、僕を呼んでください。何もできないけど、そばに居ることはできます。何かあったら連絡してください」


「っ、うん、ありがとうね」


 吉乃は必死に涙を隠しているようだった。それもそうだ、今日受けた衝撃は、きっとかつてないものだろう。


 愛していた夫が、他の女と遊んでいた。それも、一夜の過ち、などではなく、あの口ぶりではきっと何ヶ月かは関係を持っていたのだろう。


 本当は、雫が一番勝男を殴ってやりたかった。でもそんなことすると、吉乃が悲しむから、大人しく家に帰ったのだ。


 そして電話が切れて、雫は呆然としていた。


 絶望が、ぐるぐると頭の中を回る。


 一人で居たくない、でも眠ろうとしたって頭が冴えている。


 そして、雫は家を出たのだ。


 気づけばコンビニに居て、未成年なのにも関わらず缶ビールを買った。


 意外にも年齢確認はされなくて、雫は自分が老けているのかも知れないと思った。


 そして、近くの公園のベンチに座る。夜の公園は、ほのかに土の匂いと緑の香りがする。静かな場所。


 買ったのは良いけれど、雫は飲みたいとは思っていなかった。


 でも、何もかもを忘れられるなら。


 雫は袋から缶ビールを取り出した。


 一口飲んで、嫌になったら捨てよう。そう言うことにした。


 そして、缶のプルタブを引こうとした。その時だった。


「何してんの、おにーさん」


 雫は肩を跳ねさせた。


 声の主の方向を見れば、雫と同じようにコンビニの袋を下げた美丈夫が立っていた。イタズラっぽく微笑みながら。


 雫はなんと言って良いか分からず、黙り込んだ。


「おにーさん、まだ高校生じゃない?」


 思わず肩が跳ねる。


 気づいた時には手遅れだった。雫は未成年飲酒を目撃されたのだ。


 男は笑う。


「わかりやすいね。なんで飲もうとしてんの?」


「……現実を、忘れたくて」


「へえ、今日なんかあった?」


「……」


 まだこの話を、この男にしたいとは思わなかった。


 だから何も答えない雫に、男は穏やかに「そっか」と頷く。


「今、心がうまくいってないんだ」


「……はい」


「じゃあ水道のところで酒流して、俺と一緒においで」


「……?」


 酒を流せと言う意見はわかった。


 でもどうしてそこで、この男の家に行くことになるだろう。


 雫が意味の疑問に気付いたのだろう。男はニヤリと笑って言った。


「俺、警察官なんだよね」


「!?」


 雫は今度こそ言葉を失った。


 つまり、雫には逃げ場がないのだ。


「……逮捕ですか」


「うーん、飲んでないしな。一応買った時点でダメなんだけどね。お店側にも迷惑かかるし」


 仕方なさそうに話す男に、雫は、もうなんでも良いや、と投げやりになっていた。


「わかりました、警察署、行きます」


「いや、ちょっと待ちなよ」


 中身を水道にぶちまけて、水で流す。


 その後をついて来る男は、困ったように頭をかいた。


「わざわざ自首することないよ。今日、なんかあったんでしょ? 仕方ないってことで許してあげるから」


「良いんです。もう疲れた。豚箱にいたら、もう何も考えなくて済む」


「……、やっぱり、うちにおいで、君を一人にするのは嫌だ」


「嫌です」


「おいで、何もしないからさ。傷ついてる君のそばに居たいんだ」


 その言葉に、雫の心は揺れる。


 そして、雫は男を見た。真剣な眼差し。


 男は、雫に手を差し出した。


 救いの手か、はたまた、悪魔の掌なのか。


 ……どちらでも良いか。


 自暴自棄な思考で、雫は、その手を取った。


 晶と並んで、もう一度コンビニ入り直した。


 そして、飲み物やら食べ物やらを適当に買う。


 雫は普段コンビニに入ることがなかったから、どれもこれも物珍しいものばかりだった。


「なんか食べたいものとかある?」


 晶にそう聞かれて、雫は悩んだ。なんせ、コンビニの商品はなんでも高い。


「お構いなく」


「夕飯食った?」


 雫は頷こうとして、結局首を横に振った。


 お腹が空いていた。こんな時なのに。


「選びなよ、俺が払うんだし」


「尚更買えません」


「タダ飯より美味いもんなんてないだろ、良いから、買っちゃえ」


 おどけながらそう勧めてくる男に、雫は結局、ハムレタスのサンドイッチをカゴに入れた。


「よし、これで足りる?」


「はい」


 今度は正直に頷いた。雫は元々少食なのだ。


「マジ? サンドイッチ二個で足りるって、燃費良すぎだろ」


「小さい頃からそうなんです」


「そっか。……あ」


「?」


「俺名前名乗るの忘れてた、晶って呼んで」


「あきら?」


「うん、井上晶。それが俺の名前」


「わかりました。僕も名乗ってませんでしたよね。江藤雫と言います、よろしくお願いします」


 コンビニの中名前を名乗り合うなんて、おかしな光景だろうけど、二人は軽く頭を下げあった。


 雫は小さく笑った。


 すると、晶がその倍の笑顔で笑ってくれる。


「良い笑顔じゃん、また、笑って」


 雫は何か言おうとして、黙った。


 そして晶はレジへ行って支払いを済ませると、雫のことを手招いた。


「すいません、ありがとうございます」


「子供がそんなこと気にしないの」


 乱暴に頭を撫でられる。ふと思った、雫に兄がいたら、こんな感じだったのかもしれないと。


 雫は、年若い大人と話すことなんて、教師相手くらいしかなかった。


 だから何を話題にしたら良いのかわからなくて、黙ってしまう。雫には特別親しい友達も、趣味もない。話題がないのだ。


「雫くん、今何年生?」


「三年生です」


「おいおい、尚更飲酒とかしちゃダメだよ。大学受験かかってるでしょ」


 驚いたようにそう言う晶に、雫は淡々と答えた。


「僕の家は僕以外誰も生計を立てる人がいないので、就職組です」


「……、どう言うことか聞いてもいい?」


「両親がいなくて、祖父母に育てられたんです。でも五年前に祖父が、二年前に祖母が亡くなりました」


「……」


 晶は雫の返事に何か考えるような沈黙を落とした。大方、話題の変え方でも考えているのだろう。


「じゃあ、今まで一人で働いて、生きてきたって事?」


 でも、男は話題を変えるどころか、さらに深掘りしてくる。


 雫は答えられる範囲で答えようと思った。


「まあ、そうなりますね」


「そっか。だからそんな、疲れた顔してるのか」


 雫はそう言われて、思わず何も持たない両手で顔を覆った。


 冷たい、凍え切った頬があった。


 睫毛まで冷え切っているみたいに。


 石膏にでもなったかのようだった。どこまでも滑らかで、無感情で、冷たい。


 そんな絶望をする雫を、晶が見ているとは気づかず。


「ここ、俺の家」


 コンビニから意外と早く、晶の住むマンションはあった。


 エントランスのオートロックに鍵を差し込んで、エレベーターに乗る。


 その間、二人は無言だった。


 そして部屋に着けば、そこも暗証番号式だった。随分と厳重だ。


 それも一番奥の部屋だった。


 国家公務員はやはり高級取りなのだなと思った。


「ただいま〜」


 そう小声で言いながら家の中に入る晶に、そこで雫はある可能性に気がついた。


 もしかしたら、この家の中には家族がいるのでは? と。


 晶は結婚していてもおかしくない年齢に見えるし、もしかしたら妻子がいるのかも知れない。


 子供がいるから、自分のように彷徨う子供を見捨てられなかったのかも知れない。


 もし家族が居るのなら、雫は走ってでも逃げようと思った。


 今、団欒の中で過ごせるほどの余裕は、雫にはなかった。


「ほら、入って」


 促されるままに玄関に入れば、そして雫は安心した。


 靴が、男物しかない。他に体温のない家が、雫の前に広がる。


 と言うことはつまり、女性や子供はいないと言うことだ。


 でも、それに良かったと感じてしまう自分は嫌だった。今、誰かの幸せをまともに受け入れられない自分も。


 取り返しがつかないほど傷ついているのは、雫じゃない。吉乃のはずなのに。


「手、洗っといで、そこ洗面」


 指さされた先にあるスライドドアを開けて、手を洗って口を濯ぐ。


 出てこれば、晶がコンビニで買ったものをソファの前のローテーブルに広げているところだった。


「すいません、お借りしました」


「オッケー。ソファどうぞ」


 そう言って今度、晶が洗面に消えていく。


 成人男性がいちいち手を洗ったり口をゆすいだりするのは珍しいことだが、人との交流が乏しい雫にはそんなことはわからない。


 目の前に並ぶ食べ物を前に思い出すのは、明美という女が投げた料理のことだった。


 吉乃が丹精込めて作った料理を、あの女は簡単に投げ出した。なんの関係もない吉乃に対して。


 許せない、腹の底から、黒いものが這い上がってくる。


 でももう、それも過去の話だ。


 きっと警察も、痴情のもつれで店に損害を与えられたと言っても、まともに取り合ってはくれないだろう。


 それに。


 雫のなんの根拠も無い想像だが、吉乃はあの女のことを訴えないような気がしていた。


 勝男の不始末の責任を自分で取ろうとしているのだ。


 そんなことして欲しくない。悪いのは亭主だ。妻であるからと言って、そこまでしてやる義理はないと思った。


 でもきっと、吉乃は気丈に振る舞って、これからも生きていく。


(もう一度、吉乃さんがお店をひらくんなら)


 その時は、力になりたいなと思った。



「よし、じゃあ今日何があってそんな疲れてるのか、教えてくれる?」


 晶は雫と同じようにソファに座って、お茶をコップに注いで、雫の前に置いてくれる。


 雫は会釈して、実は乾いていた喉を潤した。


「僕が働いていたところ、創作料理屋で、居酒屋だったんです」


「うん」


「そこに、店主の浮気相手が乗り込んできて、お客さんの注文した料理、女将さんに投げて、ジョッキグラスも店主に投げて、逃げていったんです」


「……」


 黙り込んだ晶に、雫は笑いが溢れた。今だから、おかしくなってくる。なんて狂った光景なのだろう。


「僕、祖父母に育てられたんです。でも二人とも、祖父は僕が中学生の頃に、祖母は高校一年生の春に亡くなって。仕事探してて、そこで出会ったのが、女将さんで」


 本当に優しい人だった。


 掠れた声で、雫は溢した。砂漠に唯一残る水を明け渡すみたいに。本当の、心からの言葉だった。


「でも今日でお別れになりました。今まで受けた恩、何も返せなかった」


 雫の瞳から、涙が溢れた。


 涙が。


 祖母が亡くなった時も流れなかったのに。


 雫は心の隅で思った。


 自分はもう、限界なのかも知れないと。


 愛していた人は、悉くいなくなって、今日、また一人、最後の砦がなくなった。


 疲れたと思った。雫は、頑張っていたつもりだった。生きていくことに自分は、懸命だったと思っていた。


 でもそうではなかったのかも知れない。


 カルマ、という言葉がある。


 行いは、良くも悪くも、全て自分に結果として返ってくると。


 雫は、何もできていなかったのかも知れない。


 祖父母のお荷物になって生きてきた。祖母も亡くなるひと月前まで、雫を養うため働いてくれていた。七十後半の体で。


 叶うことなら、もう一度両親に会いたかった。


 祖父母の笑顔を見たかった。


 すると、晶の手が雫の頭を撫でる。慰撫するような手つきに、どんどん流れる涙。


 雫は首を横に振った。


 こんなところで挫けていてはいけない。誰かを頼って生きていこうなどと思ってはいけない。


 自分は一人で生きていくのだ。


 だから、晶の手を頭から外して、下手くそな笑みを浮かべた。


「大丈夫です」


 助けて欲しいとは、言えなかった。


 でも晶は雫の涙を拭うと、そっと抱きしめてくる。


「俺が居るよ。どんな我儘言ったっていい。俺がそばにいるから、一人じゃないよ」


 雫の涙は、晶の言葉に尚更止まらなくなった。


「どうせ、」


 あなたも裏切るんでしょう。


 そう言いたかった。


 でも、違うような気がした。


 この男は、雫を裏切ったりしないような気がしたのだ。


 なんの根拠も無い、また傷つく理由を作るだけ。


 でも、信じたかった。この男のことを。


 この腕を、この心臓の音を、体温を。


 どこかにある、幸せというものを、この男の隣で味わいたかった。


「裏切らないよ。ずっと、誠実でいるって誓う」


「……ずっとなんてない」


「うん。だから俺のこと見てて」


 ずっとそばにいる。


 その言葉は本当なのだろうか。信じてもいいのだろうか。


 雫は戸惑いながら、いつの間にか、晶の胸の中で眠っていた。



「……」


 いつの間にか、自分は眠っていたらしい。


 凝り固まった身体をほぐせば、骨が鳴る。


 机から起き上がって、時計を見た。


 晶はいつ帰ってくるのだろう。それだけでも聞いておけば良かったなと思った。


 作り置きでもいいだろうか。


 不味いと思ったら捨ててもらおう。


 雫は立ち上がると、ソファへと移動した。そして、横になる。


 十七時まではまだまだ時間がある。その頃に作ればいいと思った。なら晶が帰ってくるまでには作り終えているだろう。


 ソファからは、晶の香りがした。


 雫はぼんやりとして、その香りに安心感を抱いてしまう。


 そしていつの間にか、眠りについていた。



「雫くん」


 ハッと、雫は目を覚ました。体温を近くに感じる。晶は、雫の顔を覗き込んでいた。


 優しく微笑む晶がいて、反して雫の顔は真っ青になっていく。


「ご、ごめんなさい。僕、寝ちゃって」


「良いんだよ、よく寝れた? 疲れてたんじゃない?」


「で、でも。お夕飯作るって言ってたのに」


「良い機会じゃん。一緒に作ろ。俺に教えてよ」


 どこまでも前向きに言ってくれる晶に、雫は呆然とした。


 この人は、どうして自分にこんなに優しいのだろう。


 反応しない雫に、晶は首を傾げた。


「? どした?」


「……、あ、いえ。じゃあ、作りましょう、か」


「うん、ちょっと手洗って服着替えてくる」


 背を向ける晶に、雫はそう言えば、と口を開く。


「おかえりなさい」


 すると、晶が振り向いた。


 少し驚いた顔で。


 雫も驚いて、何か自分はまずいことを言っただろうかと思った。


 この家の人間、みたいな。家族みたいに挨拶するのは良くなかっただろうか。


 でも、晶は雫の心の内を裏切って、笑顔になった。


「ただいま、雫くん」


「……はい、おかえりなさい」


 雫が微笑めば、晶はさらに嬉しそうな顔になる。


「家族みたいでいいね」


「そう、ですね」


 雫も、ぎこちないながら頷いた。家族みたい。それは、悪くない言葉だった。


 そして晶が手を洗ったりしているうちに、雫は食材の準備をした。


 キャベツをまず取り出し、ピーマン、豚肉、と台所に置く。


 キッチンは広くて、作業がしやすかった。雫の家のキッチンは人一人が立っているだけで精一杯だ。


 三口のコンロ。


 羨ましい限りである。


 雫は手を洗う。すると、晶が後ろからひょこりと顔を出した。


「最初、何するの」


「キャベツを切ります」


「半分で足りるもん?」


「キャベツって意外と、切ると多いものなんですよ」


「へ〜」


 関心したように頷く晶は、本当に料理に疎いようだった。だって、きっと日の目を見ることがなかった調理器具が全て綺麗だったから。


 今まで、恋人などに作ってもらったことはないのだろうか。家族の料理姿を見たりは?


 聞いてみたかったけど、少し怖かった。


「? どうした?」


「あの、今まで恋人とか、いらっしゃらなかったんですか。晶さん、モテそうだけど」


「うーん。人のこと好きになることあんまないんだよなあ」


「え……」


 思わず口から出た、絶望に近い声に、晶は慌てたように雫の背を撫でる。


「違う違う、雫くんのことはちゃんと大事だから」


 いや、別に好きとか嫌いとか、そういう以前に、助けてもらったことに感謝するべきだなと思った。


 雫は笑う。


「良いんです。助けてもらえただけで嬉しいので」


「いや、ちゃんと伝わらないと意味ない」


 晶は雫から包丁を離させると、面と向かって言った。


「俺は、雫くんが大切だよ。好きとかそういうのを超えて。幸せになって欲しいんだ」


 肩に手を置かれて、雫は内心首を傾げた。


 幸せ。


 それはどんなものを言うのだろう。


雫が恋をすること? 雫に恋人ができること? 雫に家族ができること? それともまた、新しい幸せの形を願っているのだろうか。


 友人ができるとか?


 雫が何か疑問に思っていることに気づいたのだろう。


 晶が今度は首を傾げる。


「どうした?」


「幸せって、具体的に何が幸せなんですか?」


 すると、晶の眉が下がる。雫が何かを言う前に、晶は「確かに……」と呟く。


「よし、わかった」


「?」


「俺が幸せにする。雫くんのこと」


「ええ」


 雫は驚きすぎて目を見開いた。


 今でも十分恵まれていると思うのだが。晶は十分に雫を大切にしてくれている。


 それだけで良いのに。


「もう十分幸せです」


「もっと強欲になって」


「ご、強欲……」


 どう強欲になれば良いのかわからない。


 雫は視線を右往左往させる。


 しかし晶は雫をじっと見ていた。


「雫くんが本当の幸せを見つけたら、俺は雫くんの手を離すけど、それまではずっと、握りしめているから」


「……、手を、離してしまうんですか」


 それなら幸せなどいらないと思うのは、なぜなのだろう。


 雫はハッとした。


 こんなのは我儘だ。


 でも、晶は優しい眼差しで雫を見ている。


「じゃあ、ずっと握っとくよ。返品不可能だから、大切にしてね」


「……こちらこそ」

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