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第9話:強襲


 馬車の揺れが、一定のリズムで体に伝わってくる。

 木製の車輪が石畳の継ぎ目を踏むたび、背骨に小さな衝撃が走り、ガタガタという音が閉ざされた空間に反響した。


 隣では、メグーちゃんが私の腕にそっと身を寄せている。

 その小さな体温が、背中に巣食う緊張をほんの少しだけ溶かしてくれていた。


 私は窓の外に流れる風景を追い続ける。

 道端に生える赤みがかった細い草。

 岩の隙間から顔を出す、肉厚の葉。

 痩せた土地に根を張る植物は、どんな性質を持つのだろう──虫が嫌がる匂いを持つのか、それとも毒を蓄えているのか。こんな色の草で、毒を持たないものを私はまだ知らない。

 そんなことばかり考えてしまうのは、もう染みついた農民の性分だ。


「ね、おかあさん」


「ん?」


「あの草、なんていうの?」


 メグーちゃんの指が、窓の外を指した。


「……分からない。でも、あんな色の草は、虫が嫌がるものが多いんだよね。毒か、強い匂いか……どちらかを持っているはずで……」


 しゃべりながら、自分がまた夢中になっていることに気づき、少し恥ずかしくなる。

 けれどメグーちゃんは静かに頷き、興味深そうに外を見つめていた。


 御者台ではミリアリアさんが無言で手綱を握り、

 オーグさんは馬車の後部に腰を下ろしているのだろう。

 時折、車体が沈む振動が伝わってくる。


 天使の零落の入り口まで、もうそれほど距離はないはずだった。


 ──そのときだった。


 空気が、変わった。


 風が止み、耳鳴りのような静寂が一瞬だけ訪れる。

 次の瞬間、影が落ちた。


「っ!?」


 晴れていた空が、何か巨大なものに覆われたように暗くなる。

 馬が悲鳴のような嘶きを上げ、馬車全体が大きく跳ね上がった。


「なんだァ!?」


 オーグさんの怒声が外から響く。

 私はメグーちゃんを抱き寄せ、震える手で窓枠を掴んで空を見上げた。


 ──巨大な翼が、空を塞いでいた。


 馬車の何倍もある黒い翼。

 一枚一枚が刃のように鋭く、羽ばたくたびに空気が裂ける音が響く。

 黄金色の湾曲した嘴は岩すら砕きそうな厚みを持ち、真紅の目は獲物を逃さない。


(ズー……!)


 脳が勝手に答えを引き出した。

 北の大陸に生息する大型魔鳥。

 気流を操り嵐を呼ぶ。

 食性は雑食──果物を好む。

 知能はさほど高くない。本能が警戒心を上回る。


 知識が言葉になる前に、体が動いた。


「メグーちゃん、伏せて!」


 叫んだ瞬間、屋根が悲鳴のような金属音を立てて裂けた。

 巨大な鉤爪が板材を貫き、先端が馬車内部にまで突き出す。


「きゃっ!」


 メグーちゃんの悲鳴。

 次の瞬間、馬車の扉が根本から引き剥がされた。

 眩しい光が流れ込み、ズーの真紅の目がまっすぐメグーちゃんを捉える。


 その目には、躊躇が一切なかった。


(ダメ!!)


 考えるより先に、体がメグーちゃんとズーの間に飛び込んでいた。


 ──そして、私の体は宙に浮いた。


「あ……!」


 鉤爪が私の胴を掴み、もう片方の爪にはメグーちゃんの小さな体。

 地面が一気に遠ざかり、馬車も道も木々も、みるみる小さくなっていく。


「アニー!!」

「チンチクリンッ!!」


 下からミリアリアさんとオーグさんの声が届く。

 二人が全力で走っているのが見えたが、翼には追いつけない。


 冷たい風が頬を叩き、視界が揺れる。

 空が広がり、地面が遠ざかり、足元には何もない。


(落ち着いて……落ち着いて……!)


 心臓が耳のすぐそばで暴れているようだった。

 鉤爪が緩めば終わり。

 だから暴れてはいけない。

 叫んでもいけない。

 震えていても、考えなければ。


 横を見ると、メグーちゃんは静かに私を見ていた。

 恐怖の色がない。

 銀の瞳は揺れず、ただ状況を受け入れているようだった。


(私が……なんとかしないと)


 巣に連れていかれたら終わりだ。

 その瞬間、脳裏に浮かんだ言葉が鮮明に戻る。


 ズーは果物を好む。

 知能はさほど高くない。本能が警戒心を上回る。


 そして私は──農民だ。


(まずは興味を引いて……警戒を解いて……最後に)


 震える手でスキルを発動する。

 ミカンが手の中に現れた。


 ズーの顔の前で掲げると、真紅の目が一瞬だけ細められた。

 嘴が探るように近づき──ぱくりと飲み込む。


(食べた)


 次にリンゴを生み出す。

 今度は迷わず、勢いよく飲み込んだ。


(よし……次で終わらせる)


 深く息を吸い、腹に力を込める。

 アボカドを生み出した。


 多くの魔物にとって猛毒──脂肪を好む魔物ほど効きやすい。


 差し出すと、ズーは疑いもなく大きく口を開けた。

 アボカドが消える。


 数秒間、風だけが吹き抜けた。


 そして──ズーの翼が重く沈んだ。


 規則的だった羽ばたきが乱れ、体が傾く。

 鉤爪に込められていた力が、砂がこぼれるように抜けていく。


「あ──」


 叫ぶ間もなく、私たちは落ちた。


 空が逆さに流れ、地面が迫る。

 風圧で涙が横に飛び、メグーちゃんの銀髪が光を散らす。

 死が、すぐそこにあると理解した。


 ──硬い腕が、私の体を受け止めた。


「っ……!!チンチクリン!無事かァ!!」


 オーグさんの腕の中で、私はしばらく息ができなかった。

 地面に叩きつけられる衝撃を覚悟していたのに、痛みはない。

 ただ心臓だけが激しく打ち続けていた。


 隣では、ミリアリアさんがメグーちゃんを静かに抱きとめていた。

 その動きは風のように静かで、迷いがなかった。

 二人がこの速さで追いつけたのは──オーグさんの脚力あってのことだろう。

 もはや人の域ではないと、心の隅でぼんやりと思った。


「……お母さん、すごいね」


 メグーちゃんが言った。

 その声には温度がなく、だからこそ胸に響いた。


「え、あ……す、スキルが……たまたまで……」


 頭がまだ真っ白で、言葉がうまく出てこない。


 ミリアリアさんが私を見つめる。

 蒼い瞳が、静かに、深く。


「……確認したいのだが」


 その声は落ち着いていたが、どこか探るようでもあった。


「先ほどの果物と……最後のヘンテコな植物。あれは全て、スキルで生み出したのか」


「は、はい……ミカンとリンゴと、アボカドです。アボカドは……魔物には猛毒で……だから最後に」


「ほう」


 ミリアリアさんの眉がわずかに上がる。


「一度でも手に入れたものなら、生み出せるんです。採ったものでも……あと、魔物でも……その、条件はそれだけで」


「つまり、この旅で新しいものを得るたびに、使えるものが増えるということか」


「そ、そうだと思います……」


「なんだそりゃ」


 オーグさんが腕を組み、呆れとも感心ともつかない声を出した。


「チンチクリンにしちゃあ、妙に便利なスキルじゃねェか」


 ミリアリアさんは何も言わなかった。

 ただ蒼い瞳で私を見つめ続ける。

 その視線には、警戒と……期待のようなものが混ざっていた。


 その重さに耐えきれず、私はそっと目を逸らした。


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