第110話:静寂の後に立つもの
世界は、深い静寂に包まれていた。
戦いの余韻がまだ空気に残る中、アニーは傲焔を手にしたまま、ゆっくりと歩を進める。
その足取りは、まるで王が戦場を見下ろすように、威厳と余裕に満ちていた。
彼女の周囲には、もはや逆らう者はいない。
風すらも、彼女の歩みに合わせて静かに流れていた。
そして、ミリアリアとフェイへと歩み寄る。
その姿を見て、ミリアリアはフェイを突き放すようにして立ち上がると、思わずアニーの行く手を遮った。
「フェイに……近づかないで!」
そんなミリアリアの背中に叫ぶのはフェイだ。
「ミリアリア、下がれ!」
しかし、フェイの制止も耳に入らない。
ミリアリアは剣を抜き、震える手でアニーへと構える。
「これ以上、近づかないで!」
だが、アニーは、そんな彼女を一瞥しただけだった。
「邪魔。……退いて」
「っ……!?」
その一言が放たれた瞬間、ミリアリアの身体はふわりと宙に浮き、抵抗する間もなく吹き飛ばされた。
地に背を打ちつけた彼女は、呆然とアニーを見上げる。
圧倒的な力の差を、まざまざと見せつけられた瞬間だった。
──アニーは静かにフェイを見下ろす。
その表情には怒りも憐れみもない。
ただ、淡々とした事務的な感情だけが込められている。
「この体を、元の持ち主に返してあげないといけないの」
彼女はそう呟き、フェイの胸元に視線を落とす。
そこにはまだかすかに残る“それ”──アニーのものであったはずのロール、“農民”の権限。
アニーは傲焔を静かに地に突き立てた。
刃が土に触れた瞬間、空気が微かに震える。
「……返してもらうわね」
その声は、先ほどまでの傲慢さとは異なっていた。
冷たさも怒りもない。
ただ当然の権利を静かに求める、穏やかな響きだった。
フェイの胸元から淡い光が立ち上る。
盗賊のスキルによって移されたロールの権限が、元の持ち主へと還る証。
光はゆっくりとアニーの胸元へ吸い込まれ、彼女の身体に溶け込んでいく。
まるで失われた魂の断片が、本来の居場所へと帰還する儀式のように。
「がっ……!」
フェイはその反動に耐えきれず、がくりと気を失った。
「さてと……」
アニーは次のタスクを処理するように視線を上げ、戦場の片隅に佇む円柱の装置へと目を向ける。
そこには、自身と酷似した姿の女性が、祈るようにして静かに立っていた。
対比するとよくわかる。
まるで彼女自身の影が具現化したかのようだった。
「まったく……こんなものまで作って」
ため息まじりの声には、呆れと、どこか寂しげな響きがあった。
そして、気を失っているメグーへと視線を向ける。
その眼差しは、母が眠る我が子を見守るような、深い慈しみに満ちていた。
「でも……ダメね」
微笑みながらそう言うと、アニーは円柱の装置へ手を伸ばす。
空間が歪み、まるでブラックホールが生じたかのように、装置は音もなく虚空へ吸い込まれていった。
存在の痕跡すら残さず、ただ静かに消えていく“終わり”の儀式。
やることをすべて終えたアニーは、ミリアリアへ視線を向ける。
「……貴方には恩を感じているわ、ミリアリア」
「恩……?」
ミリアリアは思わず息を呑む。
「ええ。貴方のおかげで……メグーちゃんの顔が再び見れたわ」
ミリアリアの瞳が揺れる。
予想もしなかった感謝の言葉。
だが、アニーの次の言葉が、彼女の背筋を凍らせた。
「だから、貴方たちは見逃すわ。でも……」
アニーはゆっくりとミリアリアを見つめる。
その瞳は、静かで、揺るぎなく、そして恐ろしいほどに澄んでいた。
「メグーちゃんに危険が及ぶなら──その時、また私は目覚める」
ミリアリアは息を呑む。
その言葉は、脅しではない。
ただの事実として告げられた“警告”だった。
メグーと敵対しない限り、何をしても構わない。
だが、もし彼女に危害を加えれば──
「…逆に言えば、メグーが危機に陥ることがあれば、再び相まみえることになるのだな?」
「ふふ…それが貴女の本当の望みなら…そうかもしれないわね」
おそらく、メグーが死することがあれば、間違いなく世界は終焉を迎える。
それは喜ばしいことのはずなのに、何故かミリアリアの心の中で恐怖が生まれた。
「それじゃ……また出会わないことを祈っているわ」
その言葉と同時に、アニーの身体がふらりと揺れた。
傲焔の脈動が弱まり、赤黒い光が静かに沈静化していく。
圧倒的な気配が、すっと引いていった。
「……あ……れ……?」
彼女の瞳から紅の光が消え、代わりに柔らかな茶色の瞳が戻ってくる。
その瞬間、空気が変わった。
世界が、ようやく“日常”を取り戻したかのように。
「え……ここ……どこ……?」
アニーは辺りを見回し、傍らに倒れるフェイを見て、はっと息を呑む。
そして、自分の手に握られた漆黒の刀に気づく。
「……な、なんで……これ……私……?」
傲焔を持つ手が震える。
彼女は慌てて刀を地に置き、後ずさるように距離を取った。
その動きには、恐怖と混乱、そして深い戸惑いが滲んでいた。
「み、みんな……?無事……?」
その声は、確かにアニーだった。
人見知りで、臆病で、でも誰よりも優しい、あの少女の声。
彼女は戻ってきたのだ。
自分のロールを取り戻したことによって──
ようやく、本来の”アニー”が世界に帰ってきたのだった。




