第109話:絶対者の焔
そして──
刃が振るわれた。
「燃えなさい」
その一言は、命令ではなかった。
それは、世界に対する“再定義”。
存在の在り方そのものを書き換える、絶対の言葉。
アニーが傲焔を横一文字に振るう。
漆黒の刃が描いた軌跡に沿って、赤黒い光が走る。
それはもはや斬撃ではない。
世界の構造を塗り替える、概念の奔流。
空間が軋み、時間が一瞬だけ滞る。
すべてが静止し、ただ“変化”の前触れだけが、そこにあった。
──次の瞬間。
龍の身体が、内側から燃え始めた。
赤黒い炎が鱗の隙間から噴き出し、
まるでその存在そのものが“炎”という概念に還元されていくかのように、ゆっくりと、確実に、焼かれていく。
「なっ……なぜ……俺は……炎そのもの……のはず……!」
龍の中から発せられたオーグの声が震えていた。
その咆哮には、困惑と恐怖、そして──理解が滲んでいた。
自らが信じていた“絶対”が、今まさに崩れ去ろうとしている。
だが、炎は止まらない。
それは怒りでも罰でもない。
存在の根幹を否定する、ただ一つの“結果”だった。
赤黒い焔が、龍の内側から溢れ出す。
鱗の隙間から、骨の奥から、魂の核から。
それは、まるで“炎”という概念そのものに還元されていくような、静かな終焉。
抗う術は、もはやなかった。
「炎の化身が炎に燃やされて死ぬなんて……ふふ……ちょっとは面白いわ」
アニーの声は冷たく、どこまでも傲慢だった。
だが、その言葉に抗える者は、もはやいない。
彼女の言葉は、世界の命令。
拒絶も、否定も、許されない。
龍の翼が崩れ落ち、尾が灰となって風に溶ける。
咆哮はやがて悲鳴へと変わり、そして──音すらも消えていった。
巨体が崩れるたびに、熱気が引き、空が少しずつ蒼さを取り戻していく。
「やめろ……俺は……まだ……!」
最後の叫びが、空に虚しく響いた。
だが、アニーはもう何も言わなかった。
その瞳に映るのは、ただ終わりの光景。
燃え尽き、消え去る存在を、淡々と見届けるだけ。
彼女は静かに、傲焔を収める。
その動作には、勝利の余韻も、憐れみもなかった。
ただ、当然の結果としての終焉を受け入れる、静謐な覚悟があった。
そして──
龍は、燃え尽きた。
その巨体も、魔力も、魂すらも、すべてが灰となり、風に溶けて消えていった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
その痕跡すらも、世界から消え去った。
世界が静寂を取り戻す。
アニーは、ただ一人、そこに立っていた。
その背に風が流れ、髪が揺れる。
「さてと……」
アニーはゆっくりと視線を落とした。
その先に横たわるのは、血に染まったフェイの姿。
かつて彼女を絶望の淵から救い出し、共に旅路を歩んだ男。
その存在は今、無力に沈黙し、冷たい地面に倒れていた。
「死んでいると取り返すのはちょっと面倒ね。……いいわ。生きかえりなさい」
その言葉が空気を震わせた。
まるで世界の法則が一瞬だけ書き換えられたかのように、空間が微かに軋む。
次の瞬間、フェイの胸が大きく上下し、彼は息を吹き返した。
「ごほっ……がはっ……!」
「フェイ!?」
ミリアリアの叫びが、静寂を破る。
「な、なんだ……ここは……お、俺は……何が……?」
彼女は駆け寄り、フェイの顔を覗き込む。
確かに彼は、胸に短剣を受け、命を落としていた。
その死は、確かな現実だった。
──それなのに。
「ミ……ミリアリア!?俺……は……死んだはず……」
「フェイ……」
ミリアリアは言葉を返さず、ただ彼を抱きしめた。
温かかった。
当然のことだった──生きている者は、温かい。
それなのに、この感触が、久しぶりに感じるもののように思えた。
その腕の中で、フェイは静かに目を閉じる。
そして、ゆっくりと、ミリアリアを抱きしめ返す。
「……よかった」
フェイの声は、かすれていた。
その一言に、ミリアリアの胸の奥で何かがぐらりと揺れる。
怒りでも哀しみでもない。
もっと深いところにある、何か。
「……もう、やめよう」
フェイはそう続けた。
ミリアリアは微かに首を横に振る。
彼女の中には、まだ世界の滅びを願う炎が使命感として残っていた。
それは確かだった。
なのに──抱きしめる腕が、どうしても緩まなかった。
「……こんなことをしても……カレンは浮かばれない」
フェイの言葉に、ミリアリアは今度は何も応えなかった。
首を縦にも横にも振らず、ただその場に佇む。
彼女の瞳は揺れていた。
過去と現在、怒りと哀しみ、そして──消えかけた何かが、また灯ろうとしていた。




