第100話:契約履行
地の底から噴き上がるように、赤黒い光が夜空を裂いた。
大地が呻き、空間が軋み、空が悲鳴を上げる。
まるで世界そのものが、何かに抗い、拒絶しようとしているかのように。
雲が引き裂かれ、その裂け目から現れたのは──
常識という名の檻を嘲笑う、異形の影。
──龍が、現世に降臨した。
その姿は、神話に語られる終焉の象徴。
漆黒の鱗は光を呑み込み、紅蓮の瞳は見る者の心を焼き尽くす。
その身から放たれる魔力は空間を歪め、咆哮は天を裂き、大地を砕いた。
存在するだけで、世界の均衡が崩れる。
それは、災厄そのものだった。
「来たか……ついに、来たか!」
フェイが静かに立ち上がる。
漆黒のコートが風に翻り、その瞳には深い闇と、確かな決意が宿っていた。
「我が名はフェイ。汝を呼びし者なり。応えよ、我が命に──」
詠唱の言葉が空間に響くたび、龍の紅蓮の瞳がゆっくりとフェイへと向けられる。
その視線には、確かに"認識"の色が宿っていた。
だが──
「……違う」
メグーが、かすれた声で呟いた。
銀の瞳が揺れ、冷静な表情の奥に、微かな恐れが滲む。
「この魔力の波……龍の核が、フェイに反応していない。むしろ……拒絶してる……!」
「え……それって……」
ケビンの声が震える。
小柄な体を強張らせ、目を見開いたまま、フェイと龍を交互に見つめる。
信じていたものが、音を立てて崩れていく。
──それでも、フェイの詠唱は止まらない。
言葉を重ねるたびに、彼の背後の魔法陣が脈動し、空間が軋み始める。
だが、龍の魔力は明確に彼を拒み、空間そのものが不協和音を奏でるように歪んでいく。
「なぜだ……なぜ従わない……!」
その声には、いつもの冷静さはなかった。
滲む焦燥。
揺らぐ自信。
崩れゆく理想。
フェイの声が、空に溶けていく中──
龍の瞳は、なおも静かに彼を見下ろしていた。
それは、主を認めぬ者のまなざし。
そして、選ばれなかった者への、無言の断罪だった。
──その瞬間だった。
「……契約は果たしたぞ。オーグ」
静かに、しかし確かな響きをもって放たれたミリアリアの言葉に、フェイは耳を疑った。
「ミリアリア?契約?オーグ……?」
思わず漏れた問いかけに、ミリアリアは何も答えない。
ただ、無言のまま──
フェイが生み出したはずの龍へと、ゆっくり歩み寄っていく。
その背中に、誰もが言葉を失った。
そして──
彼女の蒼い瞳が、ゆっくりと、しかし、確実に赤へと染まっていく。
その変化はあまりにも異様で、まるで彼女の中の"何か"が目を覚ましたかのようだった。
足運びが変わる。纏う気配が変わる。
かつての温かみが、完全に消えていた。
「おい!ミリアリア、大丈夫か!?」
フェイが声を張り上げる。
その名を呼ぶ声には、焦りと困惑が滲んでいた。
だが──
ミリアリアはゆっくりと振り返る。
その瞳は、かつての澄んだ蒼天の輝きを完全に失い、血のように深紅に染まっていた。
冷たく、深く、底知れぬ闇を湛えたその瞳が、フェイをまっすぐに見据える。
「フェイよ。龍の制御を止めるのだ」
静かで、どこか恭しいその声音。
フェイの焦燥とは対照的に、ぞくりとするほどの静謐さを纏っていた。
「止める?……何を言ってるんだ、ミリアリア……?」
「無意味だ。龍は我らの言うことなど聞かん。呼び出したとて、ただのデクの棒だ」
「何を言っている!?ミリアリア!?」
「…だから、私は、龍を操るための術を考えた」
「術…?」
困惑がフェイの声を濁らせる。
だが、次の瞬間、彼は自分の体が思うように動かないことに気づいた。
背筋を冷たい汗が伝い、心臓が不規則に脈打つ。
「な……ぐっ……お、俺の……体が……!」
「フェイ。すまないが、話している暇はない。操らせてもらおう」
「ミ、ミリアリア!?お前……!?」
「龍の制御を止めよ」
その言葉と同時に、瓦礫の山が爆ぜた。
粉塵の中から現れたのは、赤い肌を持つ巨体──
「……オーグ……?」
だが、その姿は以前の彼とは異なっていた。
肌はさらに深紅に染まり、背には龍のような骨の突起が浮かび上がっている。
金色の瞳が、異様な光を放っていた。
「……ああ、ようやくだなァ」
その声は低く、重く、そしてどこか神々しさすら帯びていた。
粗野な口調の奥に、威厳が滲んでいる。
「今度は、お前が契約を果たす番だぞ。オーグ」
ミリアリアの言葉にオーグは笑みを深める。
そんなやり取りを見ながら、フェイは龍の制御を行っていた魔方陣を消す術式を、彼の意思に反して構築していた。
「オーグ!!……おま……え!?ぐあァ……あがぁ!!」
しかし、フェイは黙って成り行きを見守るつもりはない。
「俺の体を…盗…」
フェイは自分自身に盗賊のスキルを発動しようとする。
歯を食いしばり、震える指先で術式を組もうとする──だが、その言葉は途中で砕けた。
「フェイ…すまないが、大人しく従ってくれ…」
ミリアリアが腕を振り上げると、フェイが頭を抱え、苦悶の声を上げる。
脳を焼かれるような激痛が彼を襲い、その意識が揺らぐ。
その光景を背に、オーグはケビンとメグーの前に立つ。
「オーグさん……その気配……!まさか…」
ケビンの言葉に、オーグはニヤリと笑った。
その笑みは、もはや人のものではない。龍の威容を思わせる、禍々しさを帯びていた。
「ケビン、お前はやっぱり鋭いなァ。ああ、そうだよ。俺は──お前らが探してた"七十二柱目の龍"ってやつだ」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
誰もが息を呑み、時が止まったかのようだった。
「何が狙いなんですか?」
ケビンが冷静に問いかける。
「……意外な反応だなァ」
オーグが眉をひそめた。
「怪しいとは思ってましたから。まさか龍だったとは思いませんでしたけど」
「おん?」
オーグが鼻を鳴らす。
「アニーさんが、ここに来る途中で扉を開けたこと、ありましたよね」
「おう、それがどうした?」
「その時、オーグさんだけが"なんで開くんだ"って言ったんです」
「そりゃそうだろ?あのチンチクリンが開けるなんて、普通は思わねェだろ?」
「……それです。"なぜ開けられたのか"ではなく、"なぜ開くんだ"と言った」
「おん?」
「扉が開く仕組みを、最初から知っていた。だから"開けられること"には驚かなかった。驚いたのは、アニーさんが開けた、その事実だけだった」
「……アンタはお母さんが何者かを知っていて、それを隠してた。そう、思ったの」
「ハッ!じゃあ何か?俺様のこと疑いながら、ずっと仲良くしてくれてたってわけかァ?」
「……僕も、メグーさんも……最後まで、信じたかった」
ケビンの声は静かだった。
震えていた。でも、それは恐れではなかった。
「でも……もう、目を逸らせない。どれだけ一緒に戦ってきた仲間でも、どれだけ助けられてきたとしても……」
「僕たちは……お前たちの好きにはさせない」
その言葉に、メグーがそっと頷く。
銀の瞳が、静かに、しかし確かにオーグを見据えていた。
「ええ……だから、もう迷わない。アンタたちを止めて、お母さんを助ける。フェイからロールを奪い返せば、お母さんは目覚める。それは、わかってる」
メグーの声は冷静だった。
だが、その奥には、確かな怒りと悲しみが宿っていた。
「ほう……で、どうするつもりだァ?」
オーグが挑発するように笑う。
その笑みの奥に、わずかな焦りが滲んでいた。
「…僕はお前を止めます!!」
その言葉に、空気が張り詰める。
「ほう……面白えェ!だったらよォ──俺様を止めてみろやァ!!」
オーグが両腕を広げ、天を仰ぐ。
龍の咆哮が天地を揺るがし、その巨体がゆっくりとオーグの方へと動き出す。
空間が歪み、龍の幻影がオーグの身体へと吸い込まれていく。
メグーは息を呑んだ。
ケビンは歯を食いしばり、視線を逸らさなかった。
まるで世界そのものが、彼を中心に再構築されていくかのように。
「我に…従え!!」
フェイが叫び、再び魔法陣を展開しようとする。
だが、龍の魔力がそれを拒むように、詠唱の言葉が空中で掻き消される。
「くっ……!」
彼の瞳に宿る焦燥と絶望が、黒いコートの影に沈んでいく。
「……はン!相手は"龍"だ。人間如きの指示なんざ、聞くわけねェだろうがよ」
オーグが嘲るように笑う。
その声は、もはや彼のものではなかった。
重く、深く、地の底から響くような異質な音色が混じっていた。
ふたりの視線が、再びオーグへと向かう。
止める手段は、まだある。
まだ、諦めるわけにはいかない。




